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石岡地方のよもやまばなし(その16)-弁円懺悔の地

 親鸞は越後での流罪が許されたのち、師・法然の提唱した浄土教(浄土往生)の布教のために常陸国にやってきました。
そして小島草庵(下妻市)をへて、稲田草庵(現笠間市稲田 西念寺)で、常陸国各地の布教や、親鸞自らの経典『教行信証』をまとめたといわれています。

1214年から1235年頃までの約20年間、常陸国に暮らしたとされていますが、その多くがこの稲田草庵でした。
当時(鎌倉時代初期)、東国では山伏などの修行念仏僧などによる布教が各地で行われていました。

また当時、仏教の経典などはこのあたりでは「鹿島神宮」に多くが集まっていました。
このため、稲田から鹿島神宮などには頻繁に通っていたのです。

稲田から鹿島神宮に行くには、板敷峠を越えて府中(石岡)を通り、高浜から舟に乗っていくのが最短ルートです。

もちろん陸路(霞ケ浦の北岸など)も通っていました。

親鸞はまた村々の辻などでも教えを伝えていて、徐々にその教えに信者が増えていきました。
そして親鸞の評判がいろいろなところで聞かれるようになったのです。

これが面白くなかったのは、今までこの地で布教活動や講を行って、信者を獲得していた山伏たちです。

その山伏の長であった弁円は日増しに名声が高まっていく親鸞を妬ましく思い、いつもの通り道である板敷峠のすぐ上に「護摩壇」を焚いて、親鸞を呪い殺そうとします。
またもしこの道を親鸞が通ったら襲って殺そうと待ち伏せしました。

しかし、待てど暮らせど親鸞がやってこないので、仲間を集めて稲田の草庵へ押しかけましたのです。

殺そうと思ってやってきた弁円を優しく諭した親鸞のその教えと人柄に弁円は会心し、親鸞の弟子となります。
東国における親鸞の弟子は24人で、二十四輩と言われており、弁円はその中の「明法房」です。

親鸞の弟子になった弁円(明法房)は親鸞について歩き、布教の手伝いや、各地をで自ら親鸞の教えを広めるために活動しました。

そしてしばらくたったある日、弁円は親鸞聖人と板敷峠を越えて現在の大覚寺のあるところへ降りてきたのです。
久し振りに板敷峠を通った弁円は、かつてここで親鸞を襲おうと待っていたことを思いだし、ハラハラと涙をこぼしたといわれています。
そして詠んだ歌が、

歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」

です。

この地に「「山伏弁円懺悔の地」と彫られた石碑にこの歌が彫られています。

この場所は昔の板敷峠越えの道のため、現在は通る人も少なく、草が生い茂ったりしていますが、石岡では忘れてほしくない場所です。

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また、稲田の草庵と言われたところには「西念寺」という寺が残されておりますが、この寺にも弁円の歌が書かれた碑があります。

そこには、弁円詠歌 として

 「あだとなりし弓矢も今は投げ捨てて 西に入るさの山の端の月」

 「山もやま道も昔に変らねど 変わりはてたるわがこころかな」

の2つの歌が載っています。


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また板敷山にはこの弁円の「護摩壇跡」が残されています。

石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/01/16 19:35
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