fc2ブログ

イノシシと神社

この記事は昨年猪年の始めとして、丁度1年前の1月末に書きかけていたのですが、まとまらずお流れとなっていたものです。
今年は子年ですので、もう遅いのですが、まあ削除せずに追加訂正してUPすることにしました。
本当に1年が経つのは早いですね。

また昨年あたりからこの石岡地区も山沿いではイノシシの出没が相次ぎ農家の被害も甚大で、今もイノシシの話題は昨年よりも増しているようです。

 イノシシ年ということで、イノシシを祀る神社があります。
京都御所の隣りにある「護王神社」です。
ここは狛犬に代わってイノシシの像が置かれています。

その理由は少し長くなりますが、奈良時代に起きた弓削道教が天皇に取って代わろうとした、「宇佐神宮の神託事件」にありますので少し説明させてください。

わが地元石岡には昔、弓削(ゆげ)屋敷があって、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)がやってきたとの伝承があります。
隣の小美玉市には道鏡様を祀る神社もあります。

そこでこの道鏡を調べていたのですが、これがなかなか曲者で話がよくわからない。
今東光が「弓削道鏡」の本を出しているが、これはまだ読んだことがないのでそのうち読んでみたいと思う。

さて、歴史は勝者によって作られるということを考えると、道鏡が悪者にされているのも話半分程度に考えないといけないだろう。

あまり、日本の歴史など昔は興味が無かったので、頭の中にある知識が少ない分、これらの話も意外に真実が見えてきたりするのかもしれない。

さて、イノシシの話に戻るが、これは弓削道鏡の敵となった和気清麻呂(わけのきよまろ)と九州大分の宇佐神宮が大きく係わっている。

現在に伝えられた歴史の内容を大雑把に書くと、次のように成る。

「奈良時代の後半761年、女帝の孝謙上皇(後の称徳天皇)が病気になられた。これを看病し、僧侶でもあった弓削道鏡がこの病を治したため、道鏡はこの孝謙上皇のお気に入りとなった。
それから、だんだんとこの道鏡が政治にも口を出し、天皇にも勝るような権力を持ち出した。

この孝謙天皇(称徳天皇)は聖武天皇の娘で、女性です。しかも生涯独身。母親はあの有名な光明皇后です。
頭脳は明晰だったと考えて間違いはないでしょう。

でもこの独身というのも本人が望んだのでもなく、時の女帝は結婚ができず、子供を産むことも出来なかったといわれています。
もしも子供が生まれてもその子は天皇を継ぐことはできないのです。

孝謙天皇が即位した背景には、聖武天皇に男子の子供がいないということがありました。
でもこの女帝の後は親族から天皇を選ばざるを得ず、ここに親族間の争いのようなものがありました。
なにしろ天皇になるチャンスがたくさんの親族に与えられたようなものです。

ですから親族でもなくても、この弓削道鏡のようなものもチャンスととらえたのかもしれませんし、チャンスを狙う親族間の争いなどを見て孝謙天皇(称徳天皇)が嫌気がさしたのかもしれません。
それなら信頼できる道鏡様へ・・・などと。

そこから道鏡は女帝をたぶらかす男ぶりで、女を喜ばす男の武器を持っていたなどと言われるようになったのでしょう。
いまでも各地に道鏡さまと称する男根の形状の石や木が祭られた神社などがたくさんありますね。

そして、769年7月頃に、道鏡は朝廷とゆかりの深い大分の宇佐神宮(八幡宮)から「道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になる」との神託があったと言わせ、天皇の位を狙ったとみなされています。

この神託の正当性を確かめるために称徳天皇は九州大分の宇佐八幡宮へ勅使として派遣されたのが和気清麻呂でした。
最初は清麻呂の姉の尼僧・和気広虫(法均)が行くように求められましたが、虚弱なために清麻呂が行くことになったのです。

この清麻呂が宇佐八幡の大神から全く逆の神託「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」を受けてこれを朝廷に持ち帰って天皇に報告しました。

これにはどちらの側もこの宇佐八幡を利用して自分たちに都合の良いように作られたものだと思われますが、この報告には満足できなかった称徳天皇は、清麻呂を因幡国に左遷するが、さらに別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)と改名させて大隅国(鹿児島)への流罪としたといいます。
また姉の広虫は別部広虫売(わけべ の ひろむしめ)と改名させられて備後国に流罪となっています。

また、この時に、弓削道教は清麻呂の暗殺を企て失敗したとか、歩けないように足の腱を切って流罪にしたとかの話が語られています。

この暗殺の話に登場するのがイノシシです。

大隅国(鹿児島)に流罪となり、送られていく途中に道教の刺客により襲われた清麻呂は足の腱を切られ歩けなくなっていましたが、輿(こし)に乗り、途中宇佐八幡宮に参拝していこうと豊前国(福岡)まで来たときに何処からともなく300頭のイノシシが現れ、清麻呂の周りを取り囲んで、道鏡の刺客たちから守り、そこから40kmを案内して、清麻呂は無事に宇佐八幡に参拝することができたのです。

宇佐八幡宮は大分でも国東半島の入り口部にあり、福岡県に近い場所です。
でもなぜ天皇を選ぶほどの権限を持つと当時考えられたのでしょうか?
これも不思議ですよね。

inosisi.jpg

そして参拝が終わるとイノシシは姿をけし、清麻呂の足は治っていました。
そして大隅国(鹿児島)で過ごすことになります。

しかし、この翌年の770年8月に、称徳天皇が亡くなると弓削道教が失脚し、下野国へ左遷となり、この清麻呂が都に呼び戻されました。
ただ、呼び戻されたときはまだ、従五位下になっただけですが、781年に桓武天皇が即位すると、従四位下まで、一気に四階昇進し、その後、従四位上から従三位まで昇進しました。
桓武天皇の平安京遷都に大きくかかわったものと思われています。

さて、清麻呂と姉の広虫が流罪から解かれて都に戻って、781年に国家安泰を祈願し、また宇佐神宮の神意に基づいた寺の意味で(河内?に)「神願寺」を建立し、また山城に和気氏の氏寺として「高雄山寺(または高雄寺)」を建立しました。
しかしこの「神願寺」の場所はいくつかの説があり現在も未定です。

ただ、その後氏寺として建てられた高雄山寺は、愛宕五寺(白雲寺、月輪寺、日輪寺、伝法寺、高雄山寺)のひとつといわれ、当時の山岳信仰の道場のような性格もあったと思われます。

「高雄山寺(高雄寺)」では清麻呂の死後、息子たちにより、比叡山で修行を続けていた最澄を招き、高雄山寺での法華経の講演が行われました。
その後、最澄は遣唐使として804年に中国・唐に渡りますが、同じときに空海も留学生として唐にわたり、わずか2年で多くの仏典を修め、密教を習得して帰朝しました。
京に戻った空海を812年、この「高雄山寺(高雄寺)」に迎え入れたのです。

真言の教えに導かれて、824年に「神願寺」と「高雄山寺(高雄寺)」は合併し、寺名は「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ))」(略して神護寺)と改められ、空海(弘法大師)にこの寺は預けられました。
それ以降、寺は「真言宗」となり今日まで続いています。

ただ、江戸時代末になり、天皇の権力が増すようになり、孝明天皇は和気清麻呂を正一位で「護王大明神」と神号を贈り、明治7年に神護寺の境内にあった清麻呂を祀った廟は護王神社と名称を変え、明治19年に神護寺境内から京都御所前に移されたのです。
そして、この護王神社には和気清麻呂を救った猪を狛犬に代わって置かれているのです。

さて、元の神護寺は紅葉の名所と知られていますが、明治の廃仏毀釈で寺域が分割され、支院9と僧坊15は焼失し、別院や末寺はすべて他寺に移されてしまいました。
ただ法灯は今も守られています。

神護寺


この神護寺に残されている国宝の薬師如来像を紹介しましょう。

神護寺薬師如来
(平安時代 カヤ材の一木造)〈像高:170.6cm〉

どうですかかなり迫力がありますね。ほぼ等身大です。
この像を見てどのように感じるでしょうか?
ただ寺の参拝ではあまり近くからは見られないので残念ですが・・・・

この薬師如来は神護寺の前身であった神願寺のころからの本尊であり、延暦年中(728〜806年)に造られたとみられています。
いわれとしては、和気清麻呂(わけのきよまろ)の政敵・弓削道鏡の呪詛や怨霊を鎮圧するために造られた仏像だといわれています。

明治になり天皇家を守った人物として明治32年から数回にわたって10円紙幣の肖像として採用されており、この初期甲号券の裏面にはイノシシが描かれています。(甲号券、乙号券、丙号券、い号券、ろ号券があります)

猪10円


番外編 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/01/31 23:25
コメント

管理者のみに表示