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カニの恩返し

 「今はむかし・・・」で始まる今昔物語や、御伽草子には私たちが知っているお話がたくさん載っています。

今昔物語は平安時代末期に成立したとみられ、全31巻(うち3つは欠)あるそうです。
また御伽草子は鎌倉時代末期頃に書かれ、一寸法師や浦島太郎に酒呑童子などお馴染みの話が載っています。

また、この話が基になったとおもわれる地方に伝わる民話や昔話がたくさんあります。

最近もっと前の平安時代初期の「日本霊異記」の一部を読んでみました。

これらは皆、仏教的な「説話集」といえそうです。

地方のふるさと昔話などについて書いたりしましたが、どうもこれらの話や、中国の話などを調べてみればかなり共通した話が時代などや、その地方などでいろいろに姿を変えていそうに思います。

地方に伝わり、その地方の言葉で語られたものは、その地方でしか表せない独特の響きや、そこに根付いている生活が伝わってきますね。 でもその話の元の話も知っておいて悪いことはないでしょう。

そんな点で、気がついたことをこの場に少しずつ残しておきたいと思います。
後から何かに思い当たることもありそうですので。
興味のない方は読み飛ばしてください。

最初は「カニの恩返し」です。

では、地方に残る昔話をネットで探してみましょう。

① 山形県の民話(元記事:フジパン提供⇒こちら
 『蟹の恩返し』
 昔、あるところに一人の爺様(じさま)がおって、前千刈(まえせんか)り、裏千刈(うらせんか)りの田地(でんち)を持っておったと。
 その爺さまに一人の気だてのいい娘がいたと。
 娘は毎日、鍋釜(なべかま)を井戸で洗うのだが、そのたびに、井戸に住みついた沢蟹に、洗い落としたご飯粒を与えて可愛がっていたと。
 ある春のこと。 娘の家では大勢の田植え人を頼んで、田植をしたと。
 娘は田植の小昼飯(こびるめし)に、黄な粉をまぶした握り飯を作ったと。稲の穂が黄な粉みたいに黄金色に稔るように願ってだと。
 その握り飯をひとつ、井戸の蟹へ呉れてから田んぼへ持って行ったと。
 そしたら、田の中道(なかみち)で、大っきな蛇が通せんぼしたと。そして、 「オレの嫁になんねえと、田に水をかけてやんねぇぞぉ」というのだと。
 娘はびっくりして、 「おっかねちゃぁ、誰か助けろやぁい」と叫んだと。が、誰も来ない。
 しかたない、握り飯を投げつけて逃げ帰ったと。

 大蛇は、その握り飯をストンストン、みんな呑み込んでから、 「今度(こんだ)ぁ、あの娘ば呑む番だ。待で、待でぇ」
といって追っかけて来たと。
 爺様、娘の語る訳聞(わけき)いて、すぐ、蔵の中の石の唐櫃へ、娘をわらわら隠したと。
 追っかけて来た大蛇は、火ィみたいな赤い舌をペロラペロラ吐いて、 「やい爺様、ここさ娘が逃げて来たべ。隠したて、だめだ。オラすっかり分ってんだ」
といって、すぐに蔵の中の唐櫃を見つけて、グルリ、グルリ七周り半も巻きつけたと。
 石の唐櫃が熱(ねつ)もって来て、中から、 「あついっちゃ、あついっちゃ。助けてけろやーい」
と、娘の叫けぶ細い声が聞こえたと、爺様が、 「やめれ、やめれ」
と、おろおろしてたら、井戸から、大っきな蟹が出て来て、ガサラ、ガサラ蔵の中へ入って行ったと。
 そして、大っきなハサミで、大蛇をバッキン、バッキン切りにかかったと。
 大蛇も蟹にからみついて、ギリギリ締める。
 バッキン、ギリギリ。ギリギリ、バッキン。
 大っきな蟹と、大っきな蛇が、全力かけて戦ったと。

そのすきに、爺様は娘を石の唐櫃から出して、逃げたと。
 戦いは蛇が負けて蟹が勝ったと。
 したが、蟹もくたびれ切ってハァ、ついに死んでしまったと。
 爺様と娘は、「カニ観音」をつくって、その蟹を祀(まつ)ったと。
 こんなことがあるから、弱い生き物をも大事にしなければならないもんだと。
 「情けは人のためならず」 ってな。
 ドンピン、サンスケ、猿の尻(けつ)。

② 福岡県 (フジパン提供 ⇒ こちら

 昔、筑後(ちくご)の国は三池(みいけ)の里に、今山(いまやま)というところがあって、殿さんの大きなお屋敷があったんやと。
 その殿さんには大層(たいそう)かわいらしい姫さんがおらっしゃった。
 あるとき、姫さんがお屋敷内(おやしきうち)の大きな池のほとりで遊んでござらっしゃると、なにやら、ムザリ、ムザリ動くもんがある。
 「あれぇ、ちいっちゃいカニじゃ。手足もこんなにやせてぇ、たよりなげやなぁ」
と言って、お供の者に頼んで、そのカニにごちそうをやんなさったと。 
 カニは、それから毎日、姫さんが池のほとりに来るのを待っとって、ごちそうをもろうておったもんだから、一日、一日大きゅうなっていったんやと。
 あるとき、お屋敷中のみんなで今山の花見に出掛けなはったと。
 殿さんも家来(けらい)たちも、花や酒に酔って浮かれて、そりゃあもう、にぎやかなこつさわぎまくっておんなさったと。
 そんなすきに、姫さんな、ひとり、ふらふらと離れて小川の淵までやって来なはったんじゃと。
 淵に寝ころび、足を流れにつけて、チャップリ、チャップリ遊んでおらっしゃった。
 そんとき、一匹の大蛇(だいじゃ)が、草にまぎれて姫さんに近づいてきよった。
 姫さんな、むじゃきにしよって気ぃ付かないんやと。
 すぐきわまで近づいた大蛇が、カマ首を持たげて、そろそろ姫さんの首へ咬(か)みつこうかというときじゃった。
 えらい大きなカニを先頭に、たぁくさんのカニたちが、どこからともなくあらわれて、大蛇めがけて飛びついて行った。  
 さぁ、姫さんな、びっくりしなはったわ。見れば、おっそろしか大蛇じゃもん。それに何万匹というカニたちが、まるで阿修羅(あしゅら)のごと、戦っとるんじゃもん。
 けんど、ほどなくして、大蛇が三つに切りとられて、はげしゅうのたうちまった。
 三つの身ィそれぞれが、真っ赤な血ば吹き出しながら土の中にのめりこみ、みるみるうちに血の池を三つこさえたと。
 大っきなカニは、姫さんがごちそうをやっとったカニじゃったと。
 こんなことがあってからというもの、今山の衆は、どげなことがあっても、清水(しみず)のカニだけには手もふれず、食べもしないで大事にするようになったんやと。
 それぎんのとん。 

③ 今昔物語 【蟹満寺縁起】(蛇婿入りー蟹報恩の物語)
(今昔物語集巻十六・山城国女人依観音助遁蛇難語第十六より)

 今は昔、山城の国久世の郡に住む者があり娘がありました。
娘は七才の頃より観音経を習い読誦し、毎月十八日には身を清め観音菩薩を念じ拝みました。
十二歳になる頃、ついに法華経一部を習い覚えました。幼い心ではありましたが、慈悲深く人を想い、悪い心など起こす事もありませんでした。
娘はある時、道端で蟹を荒縄で縛り歩いて行く男と出会いました。
蟹は足を縛られ、苦しそうに泡をブクブク出していたのです。
娘はその男にその蟹をどうするのか尋ねると「帰って食べる」といいました。
娘は悲しくなり、家にはたくさん魚(死んだ)がありから、その魚と交換してほしいと頼みました。
男は承知して蟹を娘に渡しました。
娘は家から魚を持ってくると魚と蟹を交換し、蟹を川へ放してやったのです。
 それと同じ頃、この娘の父親が田んぼで作業をしていると、あぜ道で大きな毒蛇が大きな蛙を飲もうとしていました。父親は慌てて止め、毒蛇に向かって「待ってくれ。 その蛙を放してやってくれんか?」といいました。
しかし、毒蛇は言うことを聞かずに更に蛙を奥まで飲み込もうとしたのです。
父親はあわてて、「もし蛙を放してくれるなら、私の娘と結婚させて私の婿にしてやる」といってしまったのです。
すると大きな毒蛇は蛙をはなし、薮の中へと消えていったのです。
父親は「わしはなんと言う事を言ってしまったのじゃ」と後悔し、家に帰っても食事ものどを通らず打ちひしがれていました。娘はこんな父の様子を心配して父に尋ねると、父親はようやく重い口を開いて毒蛇との約束の話を娘にしたのです。
それを聞いた娘は、「心配しないで、何とかなります。」と気丈にいい、何事もなかったようにしていました。
 するとその夜、午後十時頃になり、家の門をたたく音がしました。娘は父に、「あの毒蛇が来たら婚姻の支度に時間がかかりますので、もう三日待って下さい」と伝えさせたのです。
毒蛇そのことを伝えると、三日後にまた来ることを言い残してその日は帰って行きました。

 その後、娘は家の中に頑丈な板で蔵をつくらせ、三日目の夕方にその蔵の中に入り、観音様にご加護を祈っていました。すると夜になって約束通りに毒蛇がやって来ました。
毒蛇は娘がだましたと知って、蔵に巻きつくき、しっぽで戸をバンバンとたたきはじめました。
蛇の胴は蔵を締めつけ、ギュウギュウに締め上げてきました。
蔵の中では恐ろしさに震えながら娘は法華経を唱え、観音様を念じて一晩を過ごしました。
そして夜がもう明けようとする頃に娘の前に一人の僧が現れ娘に次のように告げたのです。
「娘よ、恐れる事は無い。いかな蛇、マムシ、とかげ、さそりの煙火のような毒であろうとも、観音の力を念ずれば、その声とともにたちまち逃げ去るであろう。」

するとそのすぐ後に、蔵の廻りからザワザワと何か別のものが沢山寄ってくる音が聞こえました。そして、その後、蛇の身をよじる音が聞こえ、蛇の姫異なよう直人が聞こえてきて、やがて静かになりました。

 すっかり夜が明け、娘は蔵の戸をそっと開けて外に出ると、そこには何万匹もの蟹がいたのです。
そして大きな蟹があの毒蛇の頭をはさみで押さえ込み、無数の蟹が蛇の体にまとわりついて毒蛇をはさみ殺していたのです。
大きな蟹は娘の姿を見ると蛇の頭を放し沢山の蟹を引きつれ静かに去って行きました。

 娘と両親は蛇の遺骸を埋め塚とし、その上にお寺を建てました。
蛇の苦を救い、多くの蟹の殺生の罪を償うため、仏像を造り経典を写し供養したのです。
その寺は今も残っており、もとは蟹満多寺(かにまたでら)と言いましたが、人々はその由来を忘れたのか、今は紙幡寺(かみはたでら)と呼ばれています。

蟹満寺

この今昔物語は平安時代後期の1130年頃にまとめられたものといわれています。

④ 日本霊異記(平安時代前半:800年頃)・・・霊異的な仏教説話
 <講談社文庫の日本霊異記(中)(中田祝夫 訳)より>

「蟹と蛙との命を買って放生し、現報を得し縁」(第八)

 置染臣鯛女(たいめ)は奈良の都にある富の尼寺の上席の尼、法邇(ほうに)の娘であった。
鯛女は仏道を修行しようとする心が非常に堅固で、まだ一度も男との交渉はなかった。
そして、行基菩薩に捧げる野の菜をいつも心をこめて採り、一日もかかさず師に奉仕していた。
 鯛女は山に入って菜を採っていた。見ると大きな蛇が大きな蛙を飲みかけていた。
そこで大蛇に頼んで、「蛙を許してやってくだし」といった。
大蛇は聞き入れずに飲み続けた。そこでもう一度お願いして、
「わたしはあなたの妻となりましょう。わたしに免じて許していただければありがたい」
といった。大蛇はこれを聞き、頭を高くもたげて鯛女の顔を見つめ、蛙を吐き出した。鯛女は大蛇と約束して、
「今日から7日たったら来なさい」
といった。そして約束の日が来たので、戸を閉め、開いている穴をふさぎ、鯛女は身を引き締めて部屋に籠っていると、ほんとうに大蛇は約束どおりに来て、壁をたたいた。
 鯛女はすっかり恐ろしくなり、次の日、行基菩薩にこのことを申し上げた。行基菩薩は生駒山に住んでおられた。
「お前は逃れることはできないだろう。ただただ仏の戒めを守っているがよい」といわれた。
そこで仏・法・僧の三宝をあつく信じ、五つの戒律を受けて帰ってきた。
と、道に見知らぬ老人が大きな蟹(かに)を持っているのに会った。
「どこのお爺さんですか。どうぞわたしにその蟹を譲ってください」と頼んだ。老人は
「わたしは、摂津国兎原郡の者で、画問邇麻呂(えどいのにまろ)というものである。
年は78歳になるが、子もなく孫もなく、生きていくにも方法がない。
難波に行って偶然この蟹を手に入れた。だが約束した者がいるので、お前さんにやるわけにはいかない」といった。
鯛女は上衣を脱いで代金としたが、やはり聞き入れない。次に裳(も)を脱いでこれを加えて買おうとすると、老人は承諾した。
そこで蟹を受け取り、ふたたび生駒山に帰り、行基菩薩にお願いし、呪文を唱え、祈願をこめて放してやった。行基菩薩は、
「尊いことだ。善いことだ」と感嘆された。
8日目の夜、ふたたび大蛇が来て、屋根に登り、屋根のかやを抜いて入ってきた。
鯛女は恐ろしさにぶるぶる震えていた。そのとき、ただ床の前で跳ね上がり、どたばたと大きな音を聞いた。
明くる日見ると一匹の大きな蟹がいた。しかも大蛇はずたずたに切られていたのであった。
 そこで、これは鯛女が買い取って放してやった蟹が、鯛女の恩に報いたのだとわかった。
しかし、また、これは戒律を受け守ったためでもあったのだ。
 この話の真偽を確かめようと思い、さきの老人の姓名を尋ねたが、その老人にはついぞ会えなかった。
ここではっきりとわかった。
老人は聖者がかりにこの世に人間の姿をして現れ出たのであったということが。
まことに不思議な話である。


日本霊異記にはもう一つ、「蟹と蛙の命を買い取って放し、現世で蟹に助けられた話 第十二話」の話が載っていて、ここには、娘が8匹の蟹と大きな蛙を助け、8匹の蟹が蛇をずたずたに切った、という話が書かれていて、今昔物語の話はこちらの話に近いかもしれません。

さて、奈良県木津川市にある「蟹満寺(かにまんじ)は今昔物語にその寺の名前が出る古いお寺で、この今昔物語が寺の縁起となっています。奈良県ですが京都府との境に近く、奈良から京都に行く中間地点にあります。
この寺では、現在、毎年4月に蟹供養がおこなわれています。

蟹満寺は1990年に発掘調査が行われ、飛鳥時代の後期(7世紀末)頃に創建された寺院であったと推察されています。
発掘調査の結果、ここには大規模な寺院建築の跡が発掘され、その規模としては、本堂が奈良の薬師寺の金堂とほぼ同じくらいの大きさの建物であったと見られています。
今まで平安時代の創建と思われていたこの寺でしたが、この発掘調査により、出土瓦の同笵瓦との比較から、創建時期は、高麗寺瓦よりも古く白鳳期である680~690年前後ではないかと推定されたのです。  
また寺の創建には朝鮮半島からの渡来人集団である秦(はた)氏一族が係わっていたと考えられていますが、正確な記録はなく明確ではありません。
秦氏といえば、聖徳太子に仕え京都太秦(うずまさ)にある広隆寺を創建した秦河勝(はたのかわかつ)が有名ですが、中国の「秦の始皇帝」の末裔を自認していたといわれています。

 この今昔物語に書かれている寺の名前については、「その寺は今も残っています。もとは蟹満多寺(かにまたでら)と言いましたが、人々はその由来を忘れたのか、今は紙幡寺(かみはたでら)と呼ばれています。」とあります。
これから昔は「紙幡寺(かみはたでら)」「加波多寺(かばたでら)」などとも言われており、「蟹満多寺(かにまたでら)」などと呼ばれていたことがわかります。
現在の寺のある場所の地名は「綺田(かばた)」といいます。この読み方は「カニハタ」「カムハタ」と発音されていたようです。
そしてそれが、「蟹幡」「加波多」などと表記されていました。
そして奈良時代、平安時代などより伝わる仏教説話の中に登場する蟹の恩返しの説話が今昔物語などのお話となり、この寺の名前の「カニ」という名前に結びついて語られるようになったと考えられます。

また地名由来から考えると、この地は「神(カム)」と織物を意味する「幡(ハタ)」から「蟹幡(かむはた)郷」となったと考えられ、これからも古代に、渡来系民族で織物にたずさわる人が多く住んでいたのではないかと推察されます。
平安時代以降は、今昔物語集に出てくる「蟹の恩返し」縁起の寺として有名になりましたが、あまり資料が残されていないために詳細は不明です。
しかし、江戸時代の1711年に真言宗知山派総本山である「智積院(ちしゃくいん)」の僧・亮範(りょうはん)が再興しましたことが記されています。
この亮範は越前(現福井県)出身の僧ですが、京都東山の智積院から江戸へ出て、将軍徳川綱吉の帰依を受けて江戸に智宝寺を開き、この蟹満寺を再興して智積院の15世となっています。

創建当時の本尊は山号の普門山などからも「観音菩薩」であったと考えられますが、現在の本尊は国宝の白鳳仏である(銅造)釈迦如来坐像です。素晴らしい仏像で、なぜこの寺に残されているのかが良くわかっていないのです。
ただ、この釈迦如来像(国宝)はかなり前よりここに安置されていたのはたしかであり、発掘調査では台座の位置から像の制作時から現在の場所に安置されていたと考えられています。
しかし寺伝では本像は綺田の東方山中にあった浄土宗の大寺院・光明山寺から移されたものともいわれています。 

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どうでしょう。色々な話が伝わっていて面白いですね。

仏教説話と考えると、観音信仰が民衆へ広がりだし、このような説話が語られ、少し一般向けの話としてアレンジされて広がっていったものなのでしょう。
蛇が悪者で蟹や蛙が善であるというのも何時ごろからの信仰なのでしょうか。

また、古事記などには、三輪山伝説などといわれる蛇や龍が美男子に化けて娘と結婚して子供が出来るという話しがあり、日本全国に、その話がいろいろな変形話しとして伝わっています。これらの話では蛇や龍は神様とされています。
蛇は善者なのか悪者なのか、皆さんもいろいろ想像して楽しんでみてくださいね。

また地方に伝わっている昔話は、その地方の言葉で語られますのでそこに独特の味が出てきますね。
話しのルーツを知ることも大切ですが、その地方の言葉も大切に残して行きたいですね。

中国の話はまだ調べていませんが、同じような話もありそうですね。

昔話について | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/02/09 19:38
コメント
古い仏像の話の中で、蟹満寺の話がでてきました。古い寺のようで白鳳期から奈良期の創建との事、仏像は山田寺仏頭や薬師寺阿弥陀仏と比較されていますね。あの時代の寺でも、時代と共に忘れ去られ廃寺となり別の寺や神社が建てられています。伝承が残るだけでも、ありがたいものです。
kincyanさん
こんにちは、この蟹満寺ご存知でしたか?
仏像をいろいろ見て調べていて、ここの白鳳仏の国宝の像を調べていました。
また薬師寺の像と比較してみました。ほとんど同じなのですが、肉厚が薄くてずいぶん軽くできています。
きっと技術的には上なのでしょう。

今の寺は建物は新しいようですね。
でもこの仏像の台座は昔からある。
そこにこのカニの恩返し伝承があったのでこの記事になりました。
まあ残しておけばまた別な見方で感じることもできそうです。


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