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下玉里から筑波山

 石岡から銚子に行く時は大概、国道355号線を使っている。
しかし、昨日は高浜の方を廻って行った。
またそこから、湖に沿って高崎、玉里地区を廻ってみた。

周りはハス田が広がっているのだが、この時期は収穫していなかった。
正月向けが終わったから、少し休んで、もう少し暖かくなったら始まるのだろう。

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先端の下玉里・大井戸地区方面間で行ってみた。
通りの空き地に車を止めて、湖岸道路へ出た。
ここも車は走れるが、歩行者や自転車の邪魔になるので普段は走らない。

天気はよくなかったが筑波山がきれいだ。

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上の写真は、その前の写真と々アングルだが、前の写真は少しズームされている。
こちらはズームなし。 写真にしてみると筑波山は小さいが、実際はもっと大きく見える。

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土手を下りた原っぱからはこんな感じだ。

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そこにこんな大きな看板が掲げられていた。
この「霞ヶ浦二橋」というのは、霞ヶ浦に2本の橋を架けるという計画だそうだ。

1本目がここから対岸の石岡市井関、石川地区とつながる橋で、もう一本は土浦入側をつなぐものだという。

もうかなり前から計画はあり、霞ヶ浦大橋ができる前から運動は続いている。

この下玉里~石川間は昭和34年に「かすみがうら市宍倉」と「小美玉市川中子」を結ぶ6.9km程の区間が県道に認定されているが、この霞ヶ浦に橋がないので、この間(約1km)は通行不可部分となっている。
通行不可というより湖の上に仮想道路を作っているだけである。おかしな道路だ。

まあ今となっては地域の生活道路というだけで、橋が出来てもどれだけの効果が望めるかがわからない。
車の往来もほとんどない。

江戸時代は両サイドが水戸藩の領地であった。
そのため、御留川(おとめがわ)制度が導入され、この領域の漁業権が水戸藩で占有された。

また、対岸の石岡市井関、八木、石川にかけては大正末期から昭和初期にかけて干拓された場所で、地図で見ても湖岸は人工的な直線になっています。

この高浜入を全て埋め立てる干拓も昭和30年代半ばから40年代にかけて熱心な運動があったようです。
しかし、この高浜入干拓事業は中止されました。
今思えば干拓されなくて本当によかったと思います。

この県道194号線もこんな干拓計画と時を同じにして、認可になったものです。

また対岸の先端部の八木地区は昔、小さな島でした。
水戸藩の政治犯を収容する場所でしたが、いまは陸続きとなっています。


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/02/16 11:45
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