怪談話「こんな晩」「六部殺し」など(その一)
先日の「百合の精」で、夏目漱石の夢十夜、第一夜を取り上げました。
もう一つ気になる話として、第三夜のすこし怖い話があります。
この話に関係しそうな昔話などを少し集めてみました。
まずは、夏目漱石の小説からです。
(1) 夏目漱石 夢十夜の第三夜
六つになる子供を負ってる。慥(たしか)に自分の子である。
ただ不思議な事には何時の間にか眼が潰れて、青坊主になっている。
自分が御前の眼は何時潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。
声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。
左右は青田である。路(みち)は細い。鷺(さぎ)の影が時々闇(やみ)に差す。
「田圃(たんぼ)へ掛(かか)ったね」と脊中(せなか)でいった。
「どうして解(わか)る」と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって鷺(さぎ)が鳴くじゃないか」と答えた。
すると鷺が果(はた)して二声(ふたこえ)ほど鳴いた。
自分は我子ながら少し怖くなった。こんなものを脊負(しょ)っていては、この先どうなるか分らない。
どこか打遣(うっち)ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。
あすこならばと考え出す途端に、脊中で、「ふふん」という声がした。
「何を笑うんだ」 子供は返事をしなかった。
ただ 「御父(おとっ)さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると 「今に重くなるよ」といった。
自分は黙って森を目標(めじるし)にあるいて行った。
田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。
しばらくすると二股(ふたまた)になった。自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。
「石が立ってるはずだがな」と小僧がいった。
なるほど八寸角(すんかく)の石が腰ほどの高さに立っている。
表(おもて)には左り日ケ窪(ひがくぼ)、右堀田原(ほったはら)とある。
闇だのに赤い字が明かに見えた。赤い字は井守(いもり)の腹のような色であった。
「左が好(い)いだろう」と小僧が命令した。
左を見ると最先(さっき)の森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛(な)げかけていた。
自分はちょっと躊躇(ちゅうちょ)した。
「遠慮しないでもいい」と小僧がまたいった。
自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。
腹の中では、よく盲目(めくら)のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道(ひとすじみち)を森へ近づいてくると、脊中で、「どうも盲目は不自由で不可(いけな)いね」といった。
「だから負(おぶ)ってやるから可(い)いじゃないか」
「負ぶってもらって済まないが、どうも人に馬鹿にされて不可い。親にまで馬鹿にされるから不可い」
「何だか厭(いや)になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと解る。――丁度こんな晩だったな」と脊中で独言(ひとりごと)のようにいっている。
「何が」と際(きわ)どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲(あざ)けるように答えた。
すると何(なん)だか知ってるような気がし出した。
けれども判然(はっきり)とは分らない。
ただこんな晩であったように思える。
そうしてもう少し行けば分るように思える。
分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。
自分は益々(ますます)足を早めた。
雨は最先(さっき)から降っている。
路はだんだん暗くなる。殆(ほと)んど夢中である。
ただ脊中に小さい小僧が食付(くっつ)いていて、その小僧が自分の過去、現在、未来を悉(ことごと)く照(てら)して、寸分の事実も洩(も)らさない鏡のように光っている。
しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分は堪(たま)らなくなった。
「此処(ここ)だ、此処だ。丁度その杉の根の処だ」
雨の中で小僧の声は判然聞えた。
自分は覚えず留(とま)った。何時(いつ)しか森の中へ這入っていた。
一間(けん)ばかり先にある黒いものは慥(たしか)に小僧のいう通り杉の木と見えた。
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化(ぶんか)五年辰年(たつどし)だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したという自覚が、忽然(こつぜん)として頭の中に起った。
おれは人殺(ひとごろし)であったんだなと始めて気が附いた途端に、脊中の子が急に石地蔵のように重くなった。
*********
ここでは、背中に背負っている子供が急に「丁度こんな晩だったな」といって、昔の人を殺した思いが蘇ってくるというものです。
当然これは物語であり、漱石も100年前というので、前世に背負った出来事のように書いています。
また、この100年というのも第一夜と同じであり、何か意味を持っているのかもしれません。
中国では100年というのを無限大という意味を持たせているようです。契約でも100年後の契約は意味が無いので99年というのが最大の区切りとの解釈があるようです。
この話を読むと、知っておられる方は「こんな晩」とか「六部殺し」という昔話を思い出すと思います。
この後に、地方に残された「こんな晩」という昔話を2点紹介します。
(2) 日本の民話「こんな晩」 青森県 フジパン
むかし、一人の六部(ろくぶ)が旅をしておった。
六部というのは、全国六十六ヶ所の有名なお寺を廻っておまいりをする人のことだ。
六部たちは、夜になると親切な家で一晩泊めてもらっては旅を続けていた。
その六部がある村に着いたとき、日も暮れてきたので、村はずれの一軒の家に泊めてもらうことになった。
夕食を食べ終えた六部は、「大分歩いてつかれましたから、今夜はこれで休ませていただきます」
と言うと、奥の寝部屋(ねべや)へ入った。
ところが、夜遅くなっても、六部の部屋のあかりがついている。
何をしているのだろうと、家の主人が戸のすき間からこっそりのぞくと、部屋の中では六部が金を数えていた。
『ほほう、たんまり持っているな、あれだけあれば一生楽に暮らせる。ようし、あの六部を殺して金を奪(と)ってやろう』
そう思った主人は、大きな声で、「六部さん、起きてるかい。いい月だから外へ出てみなされ」
と言って、うまく六部を外へ連れ出した。
六部が、「月はどこにも見えないが」と、振り向いたところ、主人はいきなり隠していたナタを振り上げ、六部を殺してしもうた。
主人は、六部から奪った金で商(あきな)いをして、またたく間に金持ちになった。
やがて、この家に子供も生まれた。
長い間子供が出来なかっただけに、主人は喜んで喜んで、たいへんな可愛いがりようだった。
ところが、その子は泣き声もたてないし、二つになっても、三つになっても一言もしゃべらなかった。
子供が五つになったある晩のこと、寝床(ねどこ)の中でむずかった。
主人は、きっと小便だろうと思って、子供を抱いて外へ出た。
月の出ていない晩だった。
「早く小便をせいや」と、主人がいうと、今まで一言もしゃべらなかった子供が、突然、
「こんな晩だなあ」と言った。
主人はびっくりして、とっさに、 「何が」 と聞くと、
「六部を殺した晩よ」と、子供が言った。
いつの間にか、子供の顔は殺した六部の顔になって、主人をにらみつけていた。
主人はおそろしさのあまり、気を失い、そのまま死んでしまったという。
(3) こんな晩 新潟県十日町市
むこんしょ(むかい:、地名)にゃ、
ここらあたりにはいないような旦那さまがいた。
その旦那さまというのは、 昔からの旦那さまではなかった。
つい10年ほど前までは、貧乏で貧乏で、食べる米もままならないし、借金はあるし、
そういう旦那さまが 急にムキムキ、ムキムキと、 身上(しんしょう)がよくなったんだと。
何がもとで、そんなに身上があがったのかな? そしたら、深い訳があったと。
ある秋の寒い日、その日は朝から雨がバシャバシャ、バシャバシャと降っていた。
夕暮れになって、 六部が泊まるところがなくて困っていた。
( 六部:行脚僧。書写した法華経を66カ所の寺院に納経しながら巡礼の旅をした僧侶)
「ここん衆[しゅ]、一つ泊めてくんなかい?」と言って、来たんだと。
その家では、「おら、貧乏で貧乏でおまえが泊まったとて、もてなしは何も出来ねスケ、だめだ」
と断わった。
「かまわねえ。何でもいいスケ、
この雨サ当たらなければ何でもいいスケ、泊めてくんなかい」
と六部は頼み込んだ。
そんなのでもよかったら、と、六部は泊まることになった。
そこのトトは、真夜中に小便に起きて、ふと脇をみた。
六部の寝ている座敷の方から、チャリーン、チャリーンと銭(ぜに)の音が・・・
六部の寝ている部屋にコソン、コソンと近寄って、 障子の破れ目から、こ~う覗いてみた。
・・・そうしたら、銭勘定していたんだと。
六部っていうのは、 笈[おい]という箱のようなのをしょっている。
その中の竹の筒に金を入れて置くんだと。
それを見たトトは、 金が欲しくて欲しくてたまらなくなった。
・・・おらは、貧乏で金など拝んだこともない。いつも借金で首が回らない。
ああ、すぐ目の前に金がうなっている!
・・・これだけの金があれば、一生、楽に暮らせる!
心の闇が一瞬にトトを覆った。
悪いこころがトトにささやいて、金を盗むようにけしかけた。
外は秋雨が降る丑満時。 六部を殺したトトは、屋敷の隅に六部を埋めた。
冷たい雨が容赦なくトトに降り掛かっても、 金の妄執に取り付かれたトトは 人間のこころに戻らなかった。
誰も見ていないんだもの、構うもんか!
六部が持っていた金を盗んで元手にして、 金貸しを始めた。
人に金を貸しては利息で儲け、また人に貸し・・・ 田畑や山を売りたい人がいると、どんどん買った。
そうこうするうちに、ムキムキ、ムキムキと身上があがったんだと。
金もあり、地所もあり 何もいうことがなかった。
ただ一つ張合いのないことは、子どもの無いことだった。
そこらの人が子どもと手をつないだり、遊んでいたりするのをみると「子どもが欲しいなあ~」と、どうしようもない。
毎日、欲しいなあと思い暮らしていると、 何と、子どもが出来たんだ。
子どもは、それも男の子だった。
ようやく出来た子どもをめじょがって(可愛がって)、それはそれは大事に育てた。
ところが、その子は3つになっても4つになっても、モノを言わない。
立つことも出来ない。 腰がフラフラして立てない子どもだった。
旦那さまはそれでもその子をめじょがって育てたんだと。
その日は、やっぱり朝から雨がバシャバシャ、バシャバシャと降っていた。
晩がたになったら、もう滝のように降り出した。
暗い闇夜で、 鼻を撫でられても分からないくらいの闇夜だった。
・・・こういう晩は、早く子どもを寝かそう。
寝る前に小便をさせようと、 息子(アニ)を抱いて外に出た。
雨はバシャバシャ、バシャバシャ降る、真っ暗な夜。
トトが、思わず
「馬鹿げに雨は降るし、暗えなあ」 とつぶやいた。
その時だった。
今まで一言もモノを言わなかった息子(アニ)が、 口を開いた。
「あの晩にそっくりだのし」
真っ暗の中で息子(アニ)の面(つら)だけが青くひかり、トトを見てニタニタニタと笑ったと。
さあ、トトは驚いたの何の。
・・・この野郎は、おれが殺した六部が生まれ変わったんだな。
・・・仇打ちに来たんだな。このままじゃ置かねえ。
めじょがっていた息子を殺して、畑に埋めたと。
それだすけ、いくらかたき打ちで産まれて来たのでも親にはかなわない。
親に返り打ちになったってがんだ。
その旦那さまの屋敷は、 今でも雨の降る暗い晩には、青い炎(ひ)が、トコトコ、トコトコと燃えていると。
いちげざっくり
***************
以上の他にいろいろなパターンで各地に同じような話がたくさん存在します。
そのほとんどが六部の殺される話で、その奪った金で長者になり、そのうちに長者の家が没落する。
そんな長者伝説はこの六部殺しとはまた別に、八幡太郎や平将門伝説などと組み合わせてのパターンなどいろいろな話しがあります。
さて、一般的な六部殺しの話をWikipediaから紹介しましょう。
(4) 六部殺し (Wikipedia)
六部とは、六十六部の略で、六十六回写経した法華経を持って六十六箇所の霊場をめぐり、一部ずつ奉納して回る巡礼僧のこと。六部ではなく修験者や托鉢僧や座頭や遍路、あるいは行商人や単なる旅人とされている場合もある。ストーリーには様々なバリエーションが存在するが、広く知られている内容は概ね以下のとおりである。

ある村の貧しい百姓家に六部がやって来て一夜の宿を請う。
その家の夫婦は親切に六部を迎え入れ、もてなした。
その夜、六部の荷物の中に大金の路銀が入っているのを目撃した百姓は、どうしてもその金が欲しくてたまらなくなる。
そして、とうとう六部を謀殺して亡骸を処分し、金を奪った。
その後、百姓は奪った金を元手に商売を始める・田畑を担保に取って高利貸しをする等、何らかの方法で急速に裕福になる。
夫婦の間に子供も生まれた。ところが、生まれた子供はいくつになっても口が利けなかった。
そんなある日、夜中に子供が目を覚まし、むずがっていた。小便がしたいのかと思った父親は便所へ連れて行く。
きれいな月夜、もしくは月の出ない晩、あるいは雨降りの夜など、ちょうどかつて六部を殺した時と同じような天候だった。
すると突然、子供が初めて口を開き、「お前に殺されたのもこんな晩だったな」と言ってあの六部の顔つきに変わっていた。
ここまでで終わる場合もあれば、驚いた男が頓死する、繁栄していた家が再び没落する、といった後日談が加わる場合もある。
**********
さて、各地のお寺や神社を廻ってみると、江戸時代ころに建てられた「六部回国記念碑」を見かけることがある。
六部(六十六部)の発祥は、奈良時代頃までさかのぼるとともいわれ、かなり古いと見られますが、どうも実態は不明で、鎌倉時代末期頃に各地で修行僧によって行われだして、江戸時代にはかなり一般人もこれを行うものが出てきたようです。
鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、甲掛(こうがけ)、股引(ももひき)をつけ、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼したといわれており、この姿は諸国を巡礼した空也上人や一遍上人などの念仏踊りにも近いものを感じます。
そして、一般の篤志家が全国66箇所を廻ることができると、その記念碑が地元に建てられたのでしょう。
ではもう少し違った観点の話しも探ってみましょう。
長くなりましたのでこの続きは <その二>で ⇒ こちら
もう一つ気になる話として、第三夜のすこし怖い話があります。
この話に関係しそうな昔話などを少し集めてみました。
まずは、夏目漱石の小説からです。
(1) 夏目漱石 夢十夜の第三夜
六つになる子供を負ってる。慥(たしか)に自分の子である。
ただ不思議な事には何時の間にか眼が潰れて、青坊主になっている。
自分が御前の眼は何時潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。
声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。
左右は青田である。路(みち)は細い。鷺(さぎ)の影が時々闇(やみ)に差す。
「田圃(たんぼ)へ掛(かか)ったね」と脊中(せなか)でいった。
「どうして解(わか)る」と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって鷺(さぎ)が鳴くじゃないか」と答えた。
すると鷺が果(はた)して二声(ふたこえ)ほど鳴いた。
自分は我子ながら少し怖くなった。こんなものを脊負(しょ)っていては、この先どうなるか分らない。
どこか打遣(うっち)ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。
あすこならばと考え出す途端に、脊中で、「ふふん」という声がした。
「何を笑うんだ」 子供は返事をしなかった。
ただ 「御父(おとっ)さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると 「今に重くなるよ」といった。
自分は黙って森を目標(めじるし)にあるいて行った。
田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。
しばらくすると二股(ふたまた)になった。自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。
「石が立ってるはずだがな」と小僧がいった。
なるほど八寸角(すんかく)の石が腰ほどの高さに立っている。
表(おもて)には左り日ケ窪(ひがくぼ)、右堀田原(ほったはら)とある。
闇だのに赤い字が明かに見えた。赤い字は井守(いもり)の腹のような色であった。
「左が好(い)いだろう」と小僧が命令した。
左を見ると最先(さっき)の森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛(な)げかけていた。
自分はちょっと躊躇(ちゅうちょ)した。
「遠慮しないでもいい」と小僧がまたいった。
自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。
腹の中では、よく盲目(めくら)のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道(ひとすじみち)を森へ近づいてくると、脊中で、「どうも盲目は不自由で不可(いけな)いね」といった。
「だから負(おぶ)ってやるから可(い)いじゃないか」
「負ぶってもらって済まないが、どうも人に馬鹿にされて不可い。親にまで馬鹿にされるから不可い」
「何だか厭(いや)になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと解る。――丁度こんな晩だったな」と脊中で独言(ひとりごと)のようにいっている。
「何が」と際(きわ)どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲(あざ)けるように答えた。
すると何(なん)だか知ってるような気がし出した。
けれども判然(はっきり)とは分らない。
ただこんな晩であったように思える。
そうしてもう少し行けば分るように思える。
分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。
自分は益々(ますます)足を早めた。
雨は最先(さっき)から降っている。
路はだんだん暗くなる。殆(ほと)んど夢中である。
ただ脊中に小さい小僧が食付(くっつ)いていて、その小僧が自分の過去、現在、未来を悉(ことごと)く照(てら)して、寸分の事実も洩(も)らさない鏡のように光っている。
しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分は堪(たま)らなくなった。
「此処(ここ)だ、此処だ。丁度その杉の根の処だ」
雨の中で小僧の声は判然聞えた。
自分は覚えず留(とま)った。何時(いつ)しか森の中へ這入っていた。
一間(けん)ばかり先にある黒いものは慥(たしか)に小僧のいう通り杉の木と見えた。
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化(ぶんか)五年辰年(たつどし)だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したという自覚が、忽然(こつぜん)として頭の中に起った。
おれは人殺(ひとごろし)であったんだなと始めて気が附いた途端に、脊中の子が急に石地蔵のように重くなった。
*********
ここでは、背中に背負っている子供が急に「丁度こんな晩だったな」といって、昔の人を殺した思いが蘇ってくるというものです。
当然これは物語であり、漱石も100年前というので、前世に背負った出来事のように書いています。
また、この100年というのも第一夜と同じであり、何か意味を持っているのかもしれません。
中国では100年というのを無限大という意味を持たせているようです。契約でも100年後の契約は意味が無いので99年というのが最大の区切りとの解釈があるようです。
この話を読むと、知っておられる方は「こんな晩」とか「六部殺し」という昔話を思い出すと思います。
この後に、地方に残された「こんな晩」という昔話を2点紹介します。
(2) 日本の民話「こんな晩」 青森県 フジパン
むかし、一人の六部(ろくぶ)が旅をしておった。
六部というのは、全国六十六ヶ所の有名なお寺を廻っておまいりをする人のことだ。
六部たちは、夜になると親切な家で一晩泊めてもらっては旅を続けていた。
その六部がある村に着いたとき、日も暮れてきたので、村はずれの一軒の家に泊めてもらうことになった。
夕食を食べ終えた六部は、「大分歩いてつかれましたから、今夜はこれで休ませていただきます」
と言うと、奥の寝部屋(ねべや)へ入った。
ところが、夜遅くなっても、六部の部屋のあかりがついている。
何をしているのだろうと、家の主人が戸のすき間からこっそりのぞくと、部屋の中では六部が金を数えていた。
『ほほう、たんまり持っているな、あれだけあれば一生楽に暮らせる。ようし、あの六部を殺して金を奪(と)ってやろう』
そう思った主人は、大きな声で、「六部さん、起きてるかい。いい月だから外へ出てみなされ」
と言って、うまく六部を外へ連れ出した。
六部が、「月はどこにも見えないが」と、振り向いたところ、主人はいきなり隠していたナタを振り上げ、六部を殺してしもうた。
主人は、六部から奪った金で商(あきな)いをして、またたく間に金持ちになった。
やがて、この家に子供も生まれた。
長い間子供が出来なかっただけに、主人は喜んで喜んで、たいへんな可愛いがりようだった。
ところが、その子は泣き声もたてないし、二つになっても、三つになっても一言もしゃべらなかった。
子供が五つになったある晩のこと、寝床(ねどこ)の中でむずかった。
主人は、きっと小便だろうと思って、子供を抱いて外へ出た。
月の出ていない晩だった。
「早く小便をせいや」と、主人がいうと、今まで一言もしゃべらなかった子供が、突然、
「こんな晩だなあ」と言った。
主人はびっくりして、とっさに、 「何が」 と聞くと、
「六部を殺した晩よ」と、子供が言った。
いつの間にか、子供の顔は殺した六部の顔になって、主人をにらみつけていた。
主人はおそろしさのあまり、気を失い、そのまま死んでしまったという。
(3) こんな晩 新潟県十日町市
むこんしょ(むかい:、地名)にゃ、
ここらあたりにはいないような旦那さまがいた。
その旦那さまというのは、 昔からの旦那さまではなかった。
つい10年ほど前までは、貧乏で貧乏で、食べる米もままならないし、借金はあるし、
そういう旦那さまが 急にムキムキ、ムキムキと、 身上(しんしょう)がよくなったんだと。
何がもとで、そんなに身上があがったのかな? そしたら、深い訳があったと。
ある秋の寒い日、その日は朝から雨がバシャバシャ、バシャバシャと降っていた。
夕暮れになって、 六部が泊まるところがなくて困っていた。
( 六部:行脚僧。書写した法華経を66カ所の寺院に納経しながら巡礼の旅をした僧侶)
「ここん衆[しゅ]、一つ泊めてくんなかい?」と言って、来たんだと。
その家では、「おら、貧乏で貧乏でおまえが泊まったとて、もてなしは何も出来ねスケ、だめだ」
と断わった。
「かまわねえ。何でもいいスケ、
この雨サ当たらなければ何でもいいスケ、泊めてくんなかい」
と六部は頼み込んだ。
そんなのでもよかったら、と、六部は泊まることになった。
そこのトトは、真夜中に小便に起きて、ふと脇をみた。
六部の寝ている座敷の方から、チャリーン、チャリーンと銭(ぜに)の音が・・・
六部の寝ている部屋にコソン、コソンと近寄って、 障子の破れ目から、こ~う覗いてみた。
・・・そうしたら、銭勘定していたんだと。
六部っていうのは、 笈[おい]という箱のようなのをしょっている。
その中の竹の筒に金を入れて置くんだと。
それを見たトトは、 金が欲しくて欲しくてたまらなくなった。
・・・おらは、貧乏で金など拝んだこともない。いつも借金で首が回らない。
ああ、すぐ目の前に金がうなっている!
・・・これだけの金があれば、一生、楽に暮らせる!
心の闇が一瞬にトトを覆った。
悪いこころがトトにささやいて、金を盗むようにけしかけた。
外は秋雨が降る丑満時。 六部を殺したトトは、屋敷の隅に六部を埋めた。
冷たい雨が容赦なくトトに降り掛かっても、 金の妄執に取り付かれたトトは 人間のこころに戻らなかった。
誰も見ていないんだもの、構うもんか!
六部が持っていた金を盗んで元手にして、 金貸しを始めた。
人に金を貸しては利息で儲け、また人に貸し・・・ 田畑や山を売りたい人がいると、どんどん買った。
そうこうするうちに、ムキムキ、ムキムキと身上があがったんだと。
金もあり、地所もあり 何もいうことがなかった。
ただ一つ張合いのないことは、子どもの無いことだった。
そこらの人が子どもと手をつないだり、遊んでいたりするのをみると「子どもが欲しいなあ~」と、どうしようもない。
毎日、欲しいなあと思い暮らしていると、 何と、子どもが出来たんだ。
子どもは、それも男の子だった。
ようやく出来た子どもをめじょがって(可愛がって)、それはそれは大事に育てた。
ところが、その子は3つになっても4つになっても、モノを言わない。
立つことも出来ない。 腰がフラフラして立てない子どもだった。
旦那さまはそれでもその子をめじょがって育てたんだと。
その日は、やっぱり朝から雨がバシャバシャ、バシャバシャと降っていた。
晩がたになったら、もう滝のように降り出した。
暗い闇夜で、 鼻を撫でられても分からないくらいの闇夜だった。
・・・こういう晩は、早く子どもを寝かそう。
寝る前に小便をさせようと、 息子(アニ)を抱いて外に出た。
雨はバシャバシャ、バシャバシャ降る、真っ暗な夜。
トトが、思わず
「馬鹿げに雨は降るし、暗えなあ」 とつぶやいた。
その時だった。
今まで一言もモノを言わなかった息子(アニ)が、 口を開いた。
「あの晩にそっくりだのし」
真っ暗の中で息子(アニ)の面(つら)だけが青くひかり、トトを見てニタニタニタと笑ったと。
さあ、トトは驚いたの何の。
・・・この野郎は、おれが殺した六部が生まれ変わったんだな。
・・・仇打ちに来たんだな。このままじゃ置かねえ。
めじょがっていた息子を殺して、畑に埋めたと。
それだすけ、いくらかたき打ちで産まれて来たのでも親にはかなわない。
親に返り打ちになったってがんだ。
その旦那さまの屋敷は、 今でも雨の降る暗い晩には、青い炎(ひ)が、トコトコ、トコトコと燃えていると。
いちげざっくり
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以上の他にいろいろなパターンで各地に同じような話がたくさん存在します。
そのほとんどが六部の殺される話で、その奪った金で長者になり、そのうちに長者の家が没落する。
そんな長者伝説はこの六部殺しとはまた別に、八幡太郎や平将門伝説などと組み合わせてのパターンなどいろいろな話しがあります。
さて、一般的な六部殺しの話をWikipediaから紹介しましょう。
(4) 六部殺し (Wikipedia)
六部とは、六十六部の略で、六十六回写経した法華経を持って六十六箇所の霊場をめぐり、一部ずつ奉納して回る巡礼僧のこと。六部ではなく修験者や托鉢僧や座頭や遍路、あるいは行商人や単なる旅人とされている場合もある。ストーリーには様々なバリエーションが存在するが、広く知られている内容は概ね以下のとおりである。

ある村の貧しい百姓家に六部がやって来て一夜の宿を請う。
その家の夫婦は親切に六部を迎え入れ、もてなした。
その夜、六部の荷物の中に大金の路銀が入っているのを目撃した百姓は、どうしてもその金が欲しくてたまらなくなる。
そして、とうとう六部を謀殺して亡骸を処分し、金を奪った。
その後、百姓は奪った金を元手に商売を始める・田畑を担保に取って高利貸しをする等、何らかの方法で急速に裕福になる。
夫婦の間に子供も生まれた。ところが、生まれた子供はいくつになっても口が利けなかった。
そんなある日、夜中に子供が目を覚まし、むずがっていた。小便がしたいのかと思った父親は便所へ連れて行く。
きれいな月夜、もしくは月の出ない晩、あるいは雨降りの夜など、ちょうどかつて六部を殺した時と同じような天候だった。
すると突然、子供が初めて口を開き、「お前に殺されたのもこんな晩だったな」と言ってあの六部の顔つきに変わっていた。
ここまでで終わる場合もあれば、驚いた男が頓死する、繁栄していた家が再び没落する、といった後日談が加わる場合もある。
**********
さて、各地のお寺や神社を廻ってみると、江戸時代ころに建てられた「六部回国記念碑」を見かけることがある。
六部(六十六部)の発祥は、奈良時代頃までさかのぼるとともいわれ、かなり古いと見られますが、どうも実態は不明で、鎌倉時代末期頃に各地で修行僧によって行われだして、江戸時代にはかなり一般人もこれを行うものが出てきたようです。
鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、甲掛(こうがけ)、股引(ももひき)をつけ、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼したといわれており、この姿は諸国を巡礼した空也上人や一遍上人などの念仏踊りにも近いものを感じます。
そして、一般の篤志家が全国66箇所を廻ることができると、その記念碑が地元に建てられたのでしょう。
ではもう少し違った観点の話しも探ってみましょう。
長くなりましたのでこの続きは <その二>で ⇒ こちら
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