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重盛の墓

 茨城県城里町にある「小松寺」の裏山には、平重盛(清盛の長男)といわれる墓があります。

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寺の本堂と観音堂とをつなぐ渡り廊下の下をくぐって裏山に向かいます。
裏山には急な石段があり、山の中腹まで100段ほど登ります。
途中の中段に幾つか石塔などがありますが、更に上に昇ると木の柵があります。

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その柵から中に入ることが禁止され、その上に3つの墓標があります。

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一番右に少し高くなった場所にある宝篋印塔が重盛の墓といいます。
また少し低くなった上の写真の真中が重盛夫人の得律禅尼の墓(五輪搭)で、その左に平貞能(さだよし)の五輪搭がある?
しかし見えるのは頭が丸くなった一般では、お寺の住職が使う墓石です。

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重盛の墓という宝篋印塔も苔むして・・・

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そしてその左側の少し下にあるのが、右の五輪搭が重盛夫人の墓。この寺にかくまわれ、少し北に相応院という尼寺を建て、尼として過ごした・・・・。
そして承久元年(1219)九月十一日に69歳で亡くなったとされています。
この重盛婦人は貞能の姉であったとも言われています。

また平貞能も建久九年(1198)二月十三日に89歳で亡くなってここに葬られたとされています。
ただこの貞能(さだよし)の墓(五輪搭?)が草に覆われて見えないのか、それともこの左の(頭の丸い)墓標(無縫塔)をさすのかは定かではありません。
この寺の2世といわれる大掾義幹の息子の墓ではないかとも考えられます。

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山の中腹から下を見下ろすとこんな感じです。
本堂が右にあり、左には立派な観音堂があります。
重盛の持念仏とされる小さな額に彫られた如意輪観音像が安置されているそうです。

ここにあるいきさつについては真偽も含めてはっきりしませんが、概ね以下のように言われています。

平貞能(さだよし)は、平清盛にもっとも信頼された腹心の家来でした。1167年に清盛が家督を長男の重盛に譲ると、この重盛につき、重盛の次男の平資盛(すけもり)の補佐役となり、九州などに出向き、平家の勢力拡大に奔走します。
しかし、1179年に42歳という若さで重盛が他界してしまい、1180年には源平合戦(治承・寿永の乱)が始まり、1181年に清盛が死去すると家督は清盛の三男・平宗盛が継ぐことになりました。

源氏に対して劣勢となった平家の宗盛は1183年に都を捨てて九州へ撤退することを決めます。

しかし、九州の情勢に詳しい貞能はこの九州行きには従わず都での決戦を主張します。
しかし、九州行きが決定すると、単独でも関東へ落ち延びることを決めました。

そして貞能は、一門が都を捨てた後、源氏に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こし、その遺骨を髙野山に分骨し、辺りの土を川へ流して、残りの骨を持ち重盛夫人を伴って関東へ逃げたといわれています。

そして関東では清盛たちの本家である常陸大掾(だいじょう)平義幹(よしもと)を頼ったのです。
この大掾(だいじょう)平義幹(よしもと)はつくば市北条にある多気太郎といわれている人物です。
多気(大掾)氏はこのあと、鎌倉時代になると小田氏の換言により鎌倉に呼び出されて、お家没収となりました。

石岡の大掾氏はこの後、多気大掾氏の支族で水戸にいた吉田氏が継いで国府のあった石岡に住むようになったものです。

さて、多気大掾・義幹は、この地(茨城郡金伊野村白雲山)を貞能に譲り、重盛の遺骨を山中に埋めてここに寺を建立したのです。
そしてその後、義幹の二男をこの寺の僧(2世)とし、重盛の霊をとむらったとされています。

いろいろこの頃の話は伝説として語られ、各地に平家の落人伝説が残されています。
この話もそんな一つと捉えるのも勝手ですが、真実味もおびた話しだと思います。

 『 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
 猛き者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ
 ・・・・・・・・・』
 平家物語の冒頭文は本当に名文ですね。

 重盛が生きていればもう少し情勢は変わっていたかもしれません。
 小松寺は小松殿と呼ばれた清盛の嫡男・平重盛をまつる寺です。

常陸大宮・太田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/03/06 12:05
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