重盛の念持仏
平重盛の墓がある城里町の小松寺。
そこにこの重盛の念持仏といわれる如意輪観音像があります。
一般に念持仏というと身近なところに置いて日常的に拝んだり、持って歩ける程度の小型の仏像ですが、この像は白檀を使った檀像です。
白檀(びゃくだん)はインドや中国・唐などでは香木として珍重され、彫刻に多く用いられましたが、日本には自生木がなく、ヒノキやカヤなどが使われました。

小松寺の本堂は8年前の東日本大震災の時に破損が多くあり、浄財を募って建て替えがされていました。
今年はこの境内のしだれ桜もきっときれいに映えるでしょう。
この桜は本当に見事です。
この桜の下に「元禄6年(1693)に67歳の水戸光圀がお手植した桜跡」(現在石塔が置かれています)もあります。

そしてその隣にあるのが立派な観音堂(茨城県文化財)です。
この観音堂は1194年の鎌倉時代初期に白雲山頂に建立されたといわれ、それを水戸光圀が現在地に移したものと言われています。
屋根は元は杮(こけら)葺きでしたが、銅板葺きに改築されています。
内陣の来迎柱には登り龍が彫刻されており、壁画には唐獅子、天井絵は草花が描かれているそうです。
この観音堂の本尊は像高2.27mの平安時代後期のノミ跡が残る(蛇彫り)一木造りの十一面観音立像で、城里町文化財となっています。

(十一面観音立像 城里町教育委員会HPより)


(縦8.5cm,横7.8cm,厚さ1.3cm )
この浮彫如意輪観音像(国の重文)は、白檀(びゃくだん)の木に観音像を浮彫にしたもので、表面に漆のようなものが塗られています。
制作年代については、平安時代後期説と中国唐時代の遺品とする説があるようですが、製作技法や白檀の自然木が日本になかったことなどからも中国晩唐時代(9世紀末頃)の作で、日宋貿易などによる渡来品との味方が強まっています。
裏面に貞享4年(1687)の徳川光圀と陰刻した修理銘があるそうです。
光圀は中国からの僧との交流もあり、この頃に日本にもたらされたのかもしれません。
数珠を持つ指先などが失われておりますが、平重盛の念持仏というのにもふさわしい風格を持っています。
寺では秘仏ですが、毎年1月1日にご開帳されているそうです。
そこにこの重盛の念持仏といわれる如意輪観音像があります。
一般に念持仏というと身近なところに置いて日常的に拝んだり、持って歩ける程度の小型の仏像ですが、この像は白檀を使った檀像です。
白檀(びゃくだん)はインドや中国・唐などでは香木として珍重され、彫刻に多く用いられましたが、日本には自生木がなく、ヒノキやカヤなどが使われました。

小松寺の本堂は8年前の東日本大震災の時に破損が多くあり、浄財を募って建て替えがされていました。
今年はこの境内のしだれ桜もきっときれいに映えるでしょう。
この桜は本当に見事です。
この桜の下に「元禄6年(1693)に67歳の水戸光圀がお手植した桜跡」(現在石塔が置かれています)もあります。

そしてその隣にあるのが立派な観音堂(茨城県文化財)です。
この観音堂は1194年の鎌倉時代初期に白雲山頂に建立されたといわれ、それを水戸光圀が現在地に移したものと言われています。
屋根は元は杮(こけら)葺きでしたが、銅板葺きに改築されています。
内陣の来迎柱には登り龍が彫刻されており、壁画には唐獅子、天井絵は草花が描かれているそうです。
この観音堂の本尊は像高2.27mの平安時代後期のノミ跡が残る(蛇彫り)一木造りの十一面観音立像で、城里町文化財となっています。

(十一面観音立像 城里町教育委員会HPより)


(縦8.5cm,横7.8cm,厚さ1.3cm )
この浮彫如意輪観音像(国の重文)は、白檀(びゃくだん)の木に観音像を浮彫にしたもので、表面に漆のようなものが塗られています。
制作年代については、平安時代後期説と中国唐時代の遺品とする説があるようですが、製作技法や白檀の自然木が日本になかったことなどからも中国晩唐時代(9世紀末頃)の作で、日宋貿易などによる渡来品との味方が強まっています。
裏面に貞享4年(1687)の徳川光圀と陰刻した修理銘があるそうです。
光圀は中国からの僧との交流もあり、この頃に日本にもたらされたのかもしれません。
数珠を持つ指先などが失われておりますが、平重盛の念持仏というのにもふさわしい風格を持っています。
寺では秘仏ですが、毎年1月1日にご開帳されているそうです。
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