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笠間六体仏を求めて・・・(その二)弥陀教会

 4月8日のお釈迦様の誕生日に笠間のお寺で笠間時朝が造立したといわれる六体の仏像(六体仏)が公開されると知って出かけました。
記事のUPがなかなかできていなくて遅くなってしまいましたが、今回最初の一つをUPします。
 
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          関連記事 その二 : 弥陀教会(今回)
          関連記事 その三 : 楞厳寺
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先日NHKの水戸放送局の番組でもこの仏像(3体)を取り上げていました。先を越されてしまいました。

私は今までこの笠間氏初代の笠間時朝の名前は知っていましたが、あまり理解してこなかったように思います。
この茨城の地方でこのように仏像などに熱心で、文化的な雰囲気を持った人物はあまりいないかも知れません。

仏像についてはここ1~2年少し調べ始めたりしていますが、この笠間時朝を有名にしているのは、京都三十三間堂の千躰(実際は1001体)の千手観音像(国宝)のうちの2躰の仏像が、この笠間時朝の寄進によることがわかっており、この寄進者の名前が分かっているのはこの2体だけといわれていることでしょう。

千躰の仏像の製作者は京の都の彫刻師集団である運慶・快慶などの慶派の仏師や院派、円派などの仏師が協力して制作した仏像ということが重要なこととされています。

流派が違えばあまりこのように一緒に作業することはないのですが、一致協力して短期間に千躰の千手観音像を制作したのはきっと画期的だったのだと思います。

最初に作られた平安時代の像は、現在124体しか残されておらず、残りが鎌倉時代に再興されたものですが、これが運慶・快慶などの作になるのです。

鎌倉時代に笠間の佐白山には正福寺という大きな寺があり、100坊もの僧侶軍団が住んでいました。

そして、この少し北の七会村には300坊もの僧侶がいる徳蔵寺という寺との間で勢力争いが続いており、この両者の争いに和って入ったのがこの笠間時朝だということを以前調べて知っている程度でした。

笠間時朝は宇都宮氏の養子(元は塩谷氏)に入った人物で、宇都宮氏が藤原氏の出身ですから藤原時朝と名乗っていました。
笠間に入って、この佐白山に山城を築き、笠間城の主となり、18代続く笠間氏の初代となった人物です。

でもこの人物は歌を詠み、仏像を像立し、鎌倉御家人としてもかなりの出世を遂げています。
鎌倉幕府の公式行事の20回以上に名前が書かれています。

鹿島神宮にも参拝しており、その時に詠んだ句が息栖神社に句碑があります。

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(神栖市にある息栖神社境内におかれた句碑脇の説明看板)

またこの時朝は身長が178cmほどあったと言われ、当時としてはかなり大柄な体格だっと思われます。
この時朝が1247年に自分の体格にあわせたような仏像を6体像立させて、笠間の寺に1体ずつ奉納したとされています。

ただし、6体のうち現在残されているのは3体(弥勒教会、楞厳寺、岩谷寺)のみで、残りの3体は「阿弥陀院の地蔵菩薩、花蔵院の毘沙門天、蓮台寺の不動明王」だといわれていますが、現存していません。

ではその1体目は、まず、弥勒教会(みろくきょうかい)の弥勒堂(みろくどう)に安置されている「弥勒仏立像」です。

笠間市石寺という場所にあり、ここには元は石寺といわれるお寺があったようです。記録では、ここには馬頭院石城寺という寺があり、この寺の本尊として祀られた仏像です。
この弥勒教会というのは、キリスト教の教会ではなく、この仏像を保存するために地元の人々が結成した宗教法人(真言宗)名です。

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山間を車で走り、石寺のバス停より西に入って、少し開けた民家や田んぼが・畑が広がる道に入っていきます。
そして、このお堂のある所に石の門柱が立っており、そこを車1台がやっと通れるほどの道(参道)を数十メートル進んだ所に白山神社という古びた神社へ出ます。手前や脇に車は数台は置けます。

そこから少し上のほうにこのコンクリ-トで出来たお堂(仏像収納庫)があります。

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4月8日のこの日はこのお堂の管理をしてくださっている村の方達数名がお堂の前に集まっておられました。
私が訪れたのは午後少したったころで、他に参拝客はおりませんでした。
堂内にはこの大きな弥勒仏がどっしりと安置されていました。

そして「撮影禁止」の立て看板、張り紙が置かれていました。

そしてお釈迦様の誕生日ですから入口横には小さな釈迦誕生仏がおかれ、甘茶をかける様におかれていました。

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一人でしばらく拝んでいると、地元のおばあさんたちが3人ほどやってきました。
そして毎年来ていると話されていました。
足元が少し危ないお年よりもおられましたが、こうして歩いてお参りを続ければ、きっと元気で長生きできることでしょう。

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お堂のすぐ下にある白山神社です。
これも神仏分離の名残なのでしょうか。

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下の写真は神社をお堂のある上から眺めたものです。

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仏像は江戸時代には運慶作とされて登録していたようです。
江戸中期の1750年に社寺役所に提出された「境内差出帳」には 名称が「弥勒菩薩」となっていて、作者も運慶となっていました。しかし今では年代から運慶の作ではなく、像も弥勒「菩薩」ではなく、弥勒「如来」像とされています。
文化財の登録も「弥勒仏」となっています。
この像も笠間時朝が鎌倉で、同じ慶派の仏師に依頼して制作されたものかもしれません。

堂内は撮影禁止となっていたので、仏像の写真はほかよりお借りしています。

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説明は笠間市の文化財紹介のパンフレットから

国指定重要文化財「木造弥勒仏立像」
製作:法治元年(1247)
像高:175.2㎝
光背高:194㎝
台座高:44㎝
指定:大正9年8月16日

 本像は、ヒノキ材の寄木造であり、漆箔が施され、玉眼嵌入です。
螺髪(らほつ)は各粒を大きめにつくり、その各々には旋毛(せんもう)を彫出しています。
肉髻(にっけい)は低くて地髪の鉢が張り、その髪際はゆるい波形となっています。
衲衣(のうえ)の衣紋は複雑であり、この時代に流行した中国宋朝の様式と鎌倉彫刻の様式が確立された 13世紀中ごろの一典型をあらわす作品であると考えられます。
光背は二重円光で頭光心(ずこうしん)八葉、台座は蓮肉(れんにく)一材で蓮弁は打付け、敷茄子(しきなす)は二枚矧(にまいはぎ)であり、光背、台座ともに造立当時のものであると考えられます。
 像内墨書銘により、造立の願主として笠間時朝の名前がみられます。
また、右足枘(ほぞ)内側には「□時朝同身(之)弥勒」とみられることから、時朝と同じ背丈であることがわかります。

では次に笠間市方庭にある楞厳寺(りょうごんじ)へ向かいます。

茨城の仏像 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/04/14 11:27
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