利根川河口
茨城県と千葉県との県境は大きな利根川が流れている。
これも徳川家康が江戸湾に流れ込んでいた川を東遷させてつけかえたもので、江戸時代はこの川を使って江戸への物資輸送が行われ、輸送の大動脈になった。
この利根川は太平洋にそそぐ先端は日本の東の端にあたり、茨城県は波崎(神栖市)、千葉県は銚子となる。
この波崎のある神栖市には息栖神社があるが、鹿島コンビーナートができてからは、このコンビナートの恩恵を受け、鹿島工業地帯の玄関口として発展を遂げ、無味乾燥の広い道路ができている。
常陸国風土記などにうたわれた鹿島の郡(こおり)にでてくる童女(うない)の松原でのカガイが行われたというのもこの波崎地区と考えられている。
最近銚子市の財政はなかなか苦しいという記事を時々見かけるが、その中に銚子市に勤務する多くの若い世帯が、銚子市よりも神栖町の方が住みやすいとこちら側に住む人が多くなったという。
確かに神栖はアパートが多くなり、家賃も安いし、公共料金も安く、子供の養育費も安いようだ。
両市にまたがる橋は東から「銚子大橋」「「利根かもめ大橋(有料)」「常陸川・利根川大橋」の3本だが、東京の多摩川のような混雑は見たことがない。ほとんどの時間帯でスイスイと流れる。
銚子側もこのままでは「銚子は日本のとっぱずれ」などといわれて、ますます人口も減る恐れがある。
銚子には漁港があるといっても、漁港の収益があまり市には還元され無いようだ。
さて、先日銚子を訪れた時に、先端の銚子大橋を渡ったが、その手前で利根川沿いを少しドライブしてきた。

上の写真の奥に見えるのが「銚子大橋」 数年前に建て替えできれいになった。

ここから対岸には銚子の街が広がる。 飯沼観音の五重塔やポートタワーなどが良く見える。

波崎漁港と言われるのはこの利根川沿いにも多少あるが、太平洋(鹿島灘)に面したところに「波崎新漁港」があり、こちらから外洋に出る大きな船が出入りする。
利根川河口部に「はさきかもめ公園」という公園がある。
あまり人も行かないようだが、ここからの眺めもこの地形を観察するにはよい場所だ。
この公園の駐車場は公園裏手にある。

公園の真ん中にコンクリートでできた船のモニュメントがあり、この上から向こう側の銚子の街や利根川河口の様子がよくわかる。
利根川の真ん中に大きな三角形の中州があり、外洋からの影響が、川の方にはあまり来ないようになっている。
むかし学校で習った親潮と黒潮がこの先の外洋でぶつかり合い、流れは陸から沖に急速に流れているはずだ。
昔は船がこの流れを越えられなくて数々の遭難の歴史がある。
南北朝時代の北畠親房もここを北に越えられずにここから筑波の方に流れていったのだろうし、国木田独歩も銚子沖で遭難した父親が、銚子に住むことになって生まれた子供であった。
写真の遠くに見えるタワーは銚子ポートタワーだ。

また銚子の市街地も眺められる。

そしてこの公園に立ち寄ったもう一つの目的は、この「竹久 夢二の歌碑」にある。

あまり知られていないが、とても興味深い。
「つまつまと ぱんに 鰯をそへてくふ 伯林(ベルリン)の冬に あがなじみけり」
調べていくとこの句もとても興味深くなる。
ここには竹久 夢二が昭和6年から昭和8年まで回遊したときの句と書かれているが、夢二は昭和6年にアメリカに渡り、昭和8年正月にベルリン移って半年ほど滞在した。
この頃描いた絵なども残っており、興味深いが、ヒットラーが台頭し始めた時で、時代背景と、ベルリンでの暮らしぶりなどを調べていくととても興味深いのです。
鰯(イワシ)はベルリンあたりでもパン挟んだりして食べることはよく行われていたようです。
こんな食文化にも興味が行きますね。
これも徳川家康が江戸湾に流れ込んでいた川を東遷させてつけかえたもので、江戸時代はこの川を使って江戸への物資輸送が行われ、輸送の大動脈になった。
この利根川は太平洋にそそぐ先端は日本の東の端にあたり、茨城県は波崎(神栖市)、千葉県は銚子となる。
この波崎のある神栖市には息栖神社があるが、鹿島コンビーナートができてからは、このコンビナートの恩恵を受け、鹿島工業地帯の玄関口として発展を遂げ、無味乾燥の広い道路ができている。
常陸国風土記などにうたわれた鹿島の郡(こおり)にでてくる童女(うない)の松原でのカガイが行われたというのもこの波崎地区と考えられている。
最近銚子市の財政はなかなか苦しいという記事を時々見かけるが、その中に銚子市に勤務する多くの若い世帯が、銚子市よりも神栖町の方が住みやすいとこちら側に住む人が多くなったという。
確かに神栖はアパートが多くなり、家賃も安いし、公共料金も安く、子供の養育費も安いようだ。
両市にまたがる橋は東から「銚子大橋」「「利根かもめ大橋(有料)」「常陸川・利根川大橋」の3本だが、東京の多摩川のような混雑は見たことがない。ほとんどの時間帯でスイスイと流れる。
銚子側もこのままでは「銚子は日本のとっぱずれ」などといわれて、ますます人口も減る恐れがある。
銚子には漁港があるといっても、漁港の収益があまり市には還元され無いようだ。
さて、先日銚子を訪れた時に、先端の銚子大橋を渡ったが、その手前で利根川沿いを少しドライブしてきた。

上の写真の奥に見えるのが「銚子大橋」 数年前に建て替えできれいになった。

ここから対岸には銚子の街が広がる。 飯沼観音の五重塔やポートタワーなどが良く見える。

波崎漁港と言われるのはこの利根川沿いにも多少あるが、太平洋(鹿島灘)に面したところに「波崎新漁港」があり、こちらから外洋に出る大きな船が出入りする。
利根川河口部に「はさきかもめ公園」という公園がある。
あまり人も行かないようだが、ここからの眺めもこの地形を観察するにはよい場所だ。
この公園の駐車場は公園裏手にある。

公園の真ん中にコンクリートでできた船のモニュメントがあり、この上から向こう側の銚子の街や利根川河口の様子がよくわかる。
利根川の真ん中に大きな三角形の中州があり、外洋からの影響が、川の方にはあまり来ないようになっている。
むかし学校で習った親潮と黒潮がこの先の外洋でぶつかり合い、流れは陸から沖に急速に流れているはずだ。
昔は船がこの流れを越えられなくて数々の遭難の歴史がある。
南北朝時代の北畠親房もここを北に越えられずにここから筑波の方に流れていったのだろうし、国木田独歩も銚子沖で遭難した父親が、銚子に住むことになって生まれた子供であった。
写真の遠くに見えるタワーは銚子ポートタワーだ。

また銚子の市街地も眺められる。

そしてこの公園に立ち寄ったもう一つの目的は、この「竹久 夢二の歌碑」にある。

あまり知られていないが、とても興味深い。
「つまつまと ぱんに 鰯をそへてくふ 伯林(ベルリン)の冬に あがなじみけり」
調べていくとこの句もとても興味深くなる。
ここには竹久 夢二が昭和6年から昭和8年まで回遊したときの句と書かれているが、夢二は昭和6年にアメリカに渡り、昭和8年正月にベルリン移って半年ほど滞在した。
この頃描いた絵なども残っており、興味深いが、ヒットラーが台頭し始めた時で、時代背景と、ベルリンでの暮らしぶりなどを調べていくととても興味深いのです。
鰯(イワシ)はベルリンあたりでもパン挟んだりして食べることはよく行われていたようです。
こんな食文化にも興味が行きますね。
神栖は都会から見ればかなり田舎です。 銚子から見てもさえない街なのですが、鹿島コンビナートでの収入が大きいのでしょうか、どんどん道が広くきれいになっていきます。
でも鉄道や東京へのアクセスはかなり不便ですね。
銚子の方が都会的ですが、いろいろな意味で疲弊していく地方都市を見ているようでもあります。
今私のいる石岡などはもっとひどくて、意識が低すぎる(昭和初期頃の良き時代の思い出にしがみついているアホばかり)ように見えます。 難しいですね。
> 銚子の衰退と、対岸の繁栄の話、銚子出身の友人からも聞きました。まるで私の住んでいる地方のようです。江戸川を挟んで東京都側は、幼児保育の条件が良いので若い夫婦はそちらに住むそうです。私は市川市側に住んでいるのですが、確かに公園の整備などで差は感じますね。