太田善光寺(石岡)
石岡市旧八郷地区の笠間へ至る道祖神峠の入口(太田地区)には茨城県でもっとも古い木造建築物といわれる「善光寺楼門」という国の重要文化財がある。

何度かここも紹介しているが、ここは筑波、土浦で鎌倉~室町時代にかけて勢力を持った「小田氏(藤原氏系)」の関係が注目されるだろう。
市の説明には「善光寺の来歴を綴った「善光寺縁起」によると、1501年(文亀元年)3月当時、小田城主であった小田成治の母堂が善光寺如来を深く信仰していて、万代安穏の地を選んでこの地に建立したと伝えられています。」と書かれている。
小田氏が善光寺仏(三尊)を信仰していたのは結構有名で、新善光寺などが幾つか建てられ、繁栄したようだ。
小田氏を滅ぼした佐竹氏派の武将である太田三楽は歴史的にはこの八郷地区などにはかなりの影響力を持ったが、私も歴史を調べていくうちにとても好きになった武将の一人だが、あまり地元では知られていない。
一方この善光寺の歴史はどうだったのだろうか。 いつもここに来ると思いをめぐらせているが、いまだによくわからない。

楼門(ろうもん)とは呼ばれているが、この仁王門は2階建てではない。2階を作る予定で、1階のままでやめてしまったようだ。
2階を建てる準備の痕が残されていたという。

門をくぐるとすぐ小さな池があるが、ここに松の木を植えた。
7月の旧暦のお盆に行われていた万灯祭が後継者不足でもう何年も前に中止になってしまった。
そこで歌われたのが「お池の松は 姫の松・・・・・」
この唱の歌詞に合わせたのだろう。
そして広場があり、左手に地区の公民館のような建物がある。
その中にこの昔の万灯祭を復活して子供達と造ったという模型の写真が飾られている。
また寺の本尊(小さな黄金の像)が、年に1度ここで飾られて供養が行われるという。

寺の本堂は奥の石段を登った上にある。

もう知っている方はよくご存知だと思うが、この本堂はもうかなり前から屋根が崩落して残念な姿になっている。
一時は特撮のヒーロー物などの撮影によく使われていたが、現在は崩落が烈しくなり危険となり縄が張り巡らされている。

向かって右側の屋根の崩落はおおきくなっており、更に近寄ってみると向かって左側の屋根や、裏の廊下なども見るも無残となってしまった。これではもう手のつけようがないように感じた。

この本堂の裏に小田氏の五輪搭が並んでいる。
1501年頃に小田成治(しげはる:1449~1514年)が母堂の菩提を弔うために寺を建立したとすれば、その後どのような歴史を刻んできたものなのだろうか。

現在もこの五輪塔はきれいに管理されている。
寺の近くにはこの小田氏の子孫の方がおられ、墓や寺の本尊の保管なども行っておられるとか・・・・


寺の前はこのように田んぼがきれいになっていました。(撮影したのは5月の終わり頃で、もう1ヶ月近く前です)
この時に道祖神峠道では「ポツンと一軒家」の撮影隊もきていました。

何度かここも紹介しているが、ここは筑波、土浦で鎌倉~室町時代にかけて勢力を持った「小田氏(藤原氏系)」の関係が注目されるだろう。
市の説明には「善光寺の来歴を綴った「善光寺縁起」によると、1501年(文亀元年)3月当時、小田城主であった小田成治の母堂が善光寺如来を深く信仰していて、万代安穏の地を選んでこの地に建立したと伝えられています。」と書かれている。
小田氏が善光寺仏(三尊)を信仰していたのは結構有名で、新善光寺などが幾つか建てられ、繁栄したようだ。
小田氏を滅ぼした佐竹氏派の武将である太田三楽は歴史的にはこの八郷地区などにはかなりの影響力を持ったが、私も歴史を調べていくうちにとても好きになった武将の一人だが、あまり地元では知られていない。
一方この善光寺の歴史はどうだったのだろうか。 いつもここに来ると思いをめぐらせているが、いまだによくわからない。

楼門(ろうもん)とは呼ばれているが、この仁王門は2階建てではない。2階を作る予定で、1階のままでやめてしまったようだ。
2階を建てる準備の痕が残されていたという。

門をくぐるとすぐ小さな池があるが、ここに松の木を植えた。
7月の旧暦のお盆に行われていた万灯祭が後継者不足でもう何年も前に中止になってしまった。
そこで歌われたのが「お池の松は 姫の松・・・・・」
この唱の歌詞に合わせたのだろう。
そして広場があり、左手に地区の公民館のような建物がある。
その中にこの昔の万灯祭を復活して子供達と造ったという模型の写真が飾られている。
また寺の本尊(小さな黄金の像)が、年に1度ここで飾られて供養が行われるという。

寺の本堂は奥の石段を登った上にある。

もう知っている方はよくご存知だと思うが、この本堂はもうかなり前から屋根が崩落して残念な姿になっている。
一時は特撮のヒーロー物などの撮影によく使われていたが、現在は崩落が烈しくなり危険となり縄が張り巡らされている。

向かって右側の屋根の崩落はおおきくなっており、更に近寄ってみると向かって左側の屋根や、裏の廊下なども見るも無残となってしまった。これではもう手のつけようがないように感じた。

この本堂の裏に小田氏の五輪搭が並んでいる。
1501年頃に小田成治(しげはる:1449~1514年)が母堂の菩提を弔うために寺を建立したとすれば、その後どのような歴史を刻んできたものなのだろうか。

現在もこの五輪塔はきれいに管理されている。
寺の近くにはこの小田氏の子孫の方がおられ、墓や寺の本尊の保管なども行っておられるとか・・・・


寺の前はこのように田んぼがきれいになっていました。(撮影したのは5月の終わり頃で、もう1ヶ月近く前です)
この時に道祖神峠道では「ポツンと一軒家」の撮影隊もきていました。
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