天狗湯を探せ!(その六)
<地図>
そろそろ探し当てなければならないですね。
ネットを検索していたら、昭和5年(1930年)7月に東京交通社発行の『日本商工地図集成』です。
今では図書館のデジタルアーカイブにあるらしい。ネットから少し借用します。

この左側に印をつけたところに「天狗湯」とあります。
ただ、この地図は当時のお店を載せることに主眼が置かれていて、実際の地図の縮尺などは全く無視されています。
これによると飯沼観音のところから銚子電鉄の線路側に沿って東(地図では下)に道を行くと、右に線路を超える道(犬吠埼の方向)への道を分けてすぐ、真っ直ぐの道の右側に書かれています。また、「本銚子駅」に近い場所になります。
この昭和5年のころとはどうも現在の道路がかなり違ってきているようです。
線路を越えて犬吠埼の方に行く分かれ道も現在のところではなく、清水坂下信号近くから右に上る道のようです。
ここには海静寺という浄土宗のお寺があります。
この寺は大正7年にこの地で亡くなった歴史家吉田東吾博士終焉の地という大きな石碑があります。
ここにも後ほど行ってきましたので別な機会に紹介します。
すると、天狗湯のある道は現在の清水坂下信号から斜め下の方に真っ直ぐに進む道のように思われます。
天狗湯はこちらの下の道の右側、上の広い道の左側になるようです。
もう少し情報を得るために、こちらの道を進んだところにある「そば処桶文(おけぶん)」さんを見つけましたのでランチに訪れました。

この蕎麦屋さんは食べログなどにも載っていて人気もあるようですが、場所はあまり多くの人が通るところではありません。
やはり昔はそれなりに人の通りもあったのでしょうが、両脇を走る街道に挟まれたエリアですので地元の方がお客さんの主体です。
地図を見て、このお店を見つけ、メニューなどを調べていて気になるものを発見していました。
早々と開店時間の午前11時にお店に到着しました。
営業の暖簾がかかっていたので思い切ってドアを開けました。
「いらっしゃい」 店の清掃などの準備が終えたばかりのようでしたが、明るい感じのご夫婦が迎えてくれました。
一人で知らない地方のお店に入るときには少し気後れしませんか?
私も最近はだいぶ慣れましたが、2人なら気が楽でも1人だと少し気になるんです。
ましてやあまり観光客などが行かない常連さんを相手にしているお店は結構気になります。
私の地元(石岡)でももう10年以上ここに住んでいるのですが、地元相手のお店は入りずらいですね。
1人でドアを開けると怪訝そうな顔をされたことが何度かあります。
やはりドアを開けた時の対応が笑顔で接してくれると、こちらも気が楽になっていろいろ話などもできますね。
まだ誰もいないお店のテーブル席に座り、「”ちょうちん”ありますか?」とすぐに聞きました。
「はい、ございますよ」というので、何とも変わった名前のメニューを注文しました。

こちらがこのお店オリジナルという「蕎麦ちょうちん」(750円)です。

朱色の塗の容器が2段重ねになっていて上に蓋がついています。
蓋をあけると、上段が焼肉弁当風(豚の焼肉に、ポテトサラダや卵焼きなどが入っています)、下の段が冷やしタヌキそば風
これは暖かいのもあるそうです。
とてもおいしかったです。
食べた所で別なお客さんも来ていましたが、厨房にいた旦那さんとそのお母さん?も含めて天狗湯を知らないか尋ねてみました。
ご主人と奥さんはご存じなかったようで、80歳近いでしょうか、そのお母さんはご存知でした。
「はい確かにありましたよ。」
「どのあたりですか?」
「この店の前の通りを右に少し行って向こうの四つ角まで行かないところを左に入ったあたりでした」
「今でも建物が残っていますか」
「だいぶ昔なので残っていないのではないかしら」
「左奥には崖がありますが、その崖の手前ですか?」
「そうたしかそのあたりだった気がするのだけれど・・・」
ということで、食事後に、上に載せた地図の赤い矢印あたりを少し散策してみました。
しかし、このあたりもきれいな新築の家もあるのですが、廃墟となって荒れた家や、人が住んでいないと思われる空家も結構多いのです。
何処もそうですが、東京への一極集中で、地方はますます疲弊しているように見えますね。
天狗湯探しですが、銚子の街の衰退も少し気になるところです。
銚子は千葉県で千葉市に続いて2番目に市制が始まった都市だそうです。

蕎麦処より戻って、最初の赤い矢印を記した通りはこんな感じです。
奥に上の通りからの崖(森)に突き当たります。

まわりにはどうも人が住んでいそうもない家がかなり多くあります。

このあたりも昔は港町で賑わったのでしょうね。
家はたくさんあり住んでおられる方もまだたくさんおられるようですが、やはり寂しさもありますね


丁度上の通りの「割烹いとう」さんの真下あたりにお宮がありました。
この崖に所から上の方が清水町で、この下のあたりは幸町というようです。
崖の下の方は清水町と名前が付けられたように清水がわき出ていた場所なのでしょう。
今でも少しジメジメしています。
天狗湯はこの湧き水が豊富だった場所に銭湯を建てたのでしょう。

通りの反対側に苔むした大きな煙突を見つけましたが、これは何かの工場の煙突だったようです。
(2019年7月5日 記)
さて、このブログもいつまでも天狗湯探しで引っ張っていくわけにもいきませんので次回は場所を特定しましょう。
次回をお楽しみに。
余禄として近くにあった「清水観世音」を紹介します。








ここにはこんなお話が残されています。
<清水庵の白蛇>
昔、清水庵(清水の観音様)の近所の人がお伊勢参りに行きました。
とちゅうで女の人と出合ったところ、その人が、
「これを銚子の清水庵へ届けてください。しかし、とちゅうでは絶対に見ないでください。」
といって、紙包みを渡しました。
その人は、不思議に思いましたが、約束を守って、清水庵まで持ち帰りました。
お堂の中で、その紙包みをそっと開けてみました。
すると、その中から白蛇の子が出てきて、すーっとお堂の奥の方へ消えていきました。
その夜、その人が眠っていると、いつかお伊勢参りのとちゅうで会った女の人が夢まくらに立って、ていねいにお礼をいいました。
その後、だれいうとなく「清水の観音様」には、白蛇のヌシがいるといううわさがたちました。
(銚子市教育委員会『銚子の民話』より)
そろそろ探し当てなければならないですね。
ネットを検索していたら、昭和5年(1930年)7月に東京交通社発行の『日本商工地図集成』です。
今では図書館のデジタルアーカイブにあるらしい。ネットから少し借用します。

この左側に印をつけたところに「天狗湯」とあります。
ただ、この地図は当時のお店を載せることに主眼が置かれていて、実際の地図の縮尺などは全く無視されています。
これによると飯沼観音のところから銚子電鉄の線路側に沿って東(地図では下)に道を行くと、右に線路を超える道(犬吠埼の方向)への道を分けてすぐ、真っ直ぐの道の右側に書かれています。また、「本銚子駅」に近い場所になります。
この昭和5年のころとはどうも現在の道路がかなり違ってきているようです。
線路を越えて犬吠埼の方に行く分かれ道も現在のところではなく、清水坂下信号近くから右に上る道のようです。
ここには海静寺という浄土宗のお寺があります。
この寺は大正7年にこの地で亡くなった歴史家吉田東吾博士終焉の地という大きな石碑があります。
ここにも後ほど行ってきましたので別な機会に紹介します。
すると、天狗湯のある道は現在の清水坂下信号から斜め下の方に真っ直ぐに進む道のように思われます。
天狗湯はこちらの下の道の右側、上の広い道の左側になるようです。
もう少し情報を得るために、こちらの道を進んだところにある「そば処桶文(おけぶん)」さんを見つけましたのでランチに訪れました。

この蕎麦屋さんは食べログなどにも載っていて人気もあるようですが、場所はあまり多くの人が通るところではありません。
やはり昔はそれなりに人の通りもあったのでしょうが、両脇を走る街道に挟まれたエリアですので地元の方がお客さんの主体です。
地図を見て、このお店を見つけ、メニューなどを調べていて気になるものを発見していました。
早々と開店時間の午前11時にお店に到着しました。
営業の暖簾がかかっていたので思い切ってドアを開けました。
「いらっしゃい」 店の清掃などの準備が終えたばかりのようでしたが、明るい感じのご夫婦が迎えてくれました。
一人で知らない地方のお店に入るときには少し気後れしませんか?
私も最近はだいぶ慣れましたが、2人なら気が楽でも1人だと少し気になるんです。
ましてやあまり観光客などが行かない常連さんを相手にしているお店は結構気になります。
私の地元(石岡)でももう10年以上ここに住んでいるのですが、地元相手のお店は入りずらいですね。
1人でドアを開けると怪訝そうな顔をされたことが何度かあります。
やはりドアを開けた時の対応が笑顔で接してくれると、こちらも気が楽になっていろいろ話などもできますね。
まだ誰もいないお店のテーブル席に座り、「”ちょうちん”ありますか?」とすぐに聞きました。
「はい、ございますよ」というので、何とも変わった名前のメニューを注文しました。

こちらがこのお店オリジナルという「蕎麦ちょうちん」(750円)です。

朱色の塗の容器が2段重ねになっていて上に蓋がついています。
蓋をあけると、上段が焼肉弁当風(豚の焼肉に、ポテトサラダや卵焼きなどが入っています)、下の段が冷やしタヌキそば風
これは暖かいのもあるそうです。
とてもおいしかったです。
食べた所で別なお客さんも来ていましたが、厨房にいた旦那さんとそのお母さん?も含めて天狗湯を知らないか尋ねてみました。
ご主人と奥さんはご存じなかったようで、80歳近いでしょうか、そのお母さんはご存知でした。
「はい確かにありましたよ。」
「どのあたりですか?」
「この店の前の通りを右に少し行って向こうの四つ角まで行かないところを左に入ったあたりでした」
「今でも建物が残っていますか」
「だいぶ昔なので残っていないのではないかしら」
「左奥には崖がありますが、その崖の手前ですか?」
「そうたしかそのあたりだった気がするのだけれど・・・」
ということで、食事後に、上に載せた地図の赤い矢印あたりを少し散策してみました。
しかし、このあたりもきれいな新築の家もあるのですが、廃墟となって荒れた家や、人が住んでいないと思われる空家も結構多いのです。
何処もそうですが、東京への一極集中で、地方はますます疲弊しているように見えますね。
天狗湯探しですが、銚子の街の衰退も少し気になるところです。
銚子は千葉県で千葉市に続いて2番目に市制が始まった都市だそうです。

蕎麦処より戻って、最初の赤い矢印を記した通りはこんな感じです。
奥に上の通りからの崖(森)に突き当たります。

まわりにはどうも人が住んでいそうもない家がかなり多くあります。

このあたりも昔は港町で賑わったのでしょうね。
家はたくさんあり住んでおられる方もまだたくさんおられるようですが、やはり寂しさもありますね


丁度上の通りの「割烹いとう」さんの真下あたりにお宮がありました。
この崖に所から上の方が清水町で、この下のあたりは幸町というようです。
崖の下の方は清水町と名前が付けられたように清水がわき出ていた場所なのでしょう。
今でも少しジメジメしています。
天狗湯はこの湧き水が豊富だった場所に銭湯を建てたのでしょう。

通りの反対側に苔むした大きな煙突を見つけましたが、これは何かの工場の煙突だったようです。
(2019年7月5日 記)
さて、このブログもいつまでも天狗湯探しで引っ張っていくわけにもいきませんので次回は場所を特定しましょう。
次回をお楽しみに。
余禄として近くにあった「清水観世音」を紹介します。








ここにはこんなお話が残されています。
<清水庵の白蛇>
昔、清水庵(清水の観音様)の近所の人がお伊勢参りに行きました。
とちゅうで女の人と出合ったところ、その人が、
「これを銚子の清水庵へ届けてください。しかし、とちゅうでは絶対に見ないでください。」
といって、紙包みを渡しました。
その人は、不思議に思いましたが、約束を守って、清水庵まで持ち帰りました。
お堂の中で、その紙包みをそっと開けてみました。
すると、その中から白蛇の子が出てきて、すーっとお堂の奥の方へ消えていきました。
その夜、その人が眠っていると、いつかお伊勢参りのとちゅうで会った女の人が夢まくらに立って、ていねいにお礼をいいました。
その後、だれいうとなく「清水の観音様」には、白蛇のヌシがいるといううわさがたちました。
(銚子市教育委員会『銚子の民話』より)
この工場が、天狗湯ですよ!
調べたのですが、このエントツの近くにも別な名前の銭湯があったようです。
天狗湯はやはり最後に書いた場所で間違いなさそうです。
このテング湯はこの地で湧き出す水が良質なので、この銭湯を別な方が買い、神水舎というメーカーがラムネを製造して販売していたそうです。
今も会社はちかくにあり、飲料水なども販売しているようです。
このラムネなどの写真でもないか探しています。
ご存知であればお教えください。