銚子の晴明伝説
千葉県銚子市で「天狗湯」なる銭湯のあった場所を探し、銚子駅の東側を細かく散策してきました。
そして、この銚子に伝わる一つの伝説に何故だか興味がそそられてきました。
銚子に伝わる伝説といえば犬吠崎や犬岩などに残された「源義経伝説」がありますが、これはこの銚子市の中でも一部の海岸などに伝わっているものです。
しかし、陰陽師安倍晴明伝説は銚子市の西北端から東南端まで幅広く晴明が動き回っているのです。
では、この晴明伝説を紹介しましょう。
千葉県の銚子の一つ手前「松岸駅」に近い垣根町の海上小学校のとなりに「長者山仁王尊阿弥陀院(根本寺)」というお寺があります。
入り口の門柱にも「長者山」と書かれています。
ここ長者山と名が付いたのは、この場所に昔の海上郡で一番の長者が住んでいたことによります。
この長者にまつわるお話です。
この長者屋敷は「垣根の長者屋敷」と呼ばれていました。
長者の名前は「根本右兵衛義貞」といいました。
垣根の長者、海上郡随一の金満家であった根本右兵衛義貞には一人娘「延命姫」がおりました。

(垣根町にある長者屋敷跡に建つ 長者山仁王尊阿弥陀院 仁王門)

(阿弥陀院の阿弥陀堂)
平将門の乱討伐のために筑波に足を運んでいた右大臣藤原師輔に見いだされた安倍晴明は、時の天皇に寵愛され才能を発揮します。
しかし、天皇を取り巻く政争にまきこまれ、 身の危険を感じた阿倍晴明は都を脱出し 故郷の筑波山麓にもどっていました。
西暦986年 、筑波に戻っていた阿倍晴明はさらにこの銚子に逃れてきてこの長者屋敷に泊まりました。
そこで垣根の長者の延命姫と出会い、姫が晴明に一目惚れしてしまったのです。

(阿弥陀院境内に立つ 延命姫供養塔 隣りに長者供養塔もある)
しかし延命姫は、生まれながらにして顔の左ほほ全面にアザがあったのです。
父の義貞は、裕福な資産家であり、娘のために安倍晴明に自分の財産を全て提供し、娘との結婚を願い出ました。
都から逃れてきていた安倍晴明は、最初はしぶしぶ延命姫との婚姻を約束するも、やはり次第に後悔しはじめ、延命姫のもとから逃げ出してしまいました。
晴明は、垣根屋敷から利根川に添って少し下流の「今宮」にやってきました。
そして、そこから対岸の波崎にわたろうとしましたが、海(川)が荒れていて渡れません。
そのため、晴明は飯沼観音へ逃げて、更に東の和田不動尊(和田山不動堂)に晴明は駆け込んだのです。

(飯沼観音)

(和田山不動尊入口)

(和田山不動堂)
それでも姫は晴明を諦めきれずに必死にその後を追いかけました。
姫は常世田薬師堂(常灯寺)に 三日三晩 籠もり、晴明がいる場所を知らせてほしいと願掛けをしたのです。

(常世田薬師堂 比較的最近まで茅葺屋根の立派なお堂でしたが銅版葺き屋根に改修されました。)

(薬師堂の横の土壁には奥へ続く洞窟があります。その側壁にはたくさんの薬師様が祀られています。)
晴明は、逃げても逃げても延命姫が追ってくるので、ついに屏風ヶ浦の小浜の地(現在の銚子市と旭市との市境に近い海岸)まで逃げたところで一計を案じたのです。
自分が死んだように見せかければ姫もきっとあきらめると考えたのです。
屏風ヶ浦の「通漣坊(つうれんぼう)」に着物と履き物を脱ぎ捨てて、断崖絶壁の崖の上から海に飛び込んだように見せかけ、自身は近くの新田の明王山真福寺に身を隠しました。
追ってきた延命姫は、通漣坊にぬぎすてられた着物と履き物をみて、晴明が身を投げたものと思いこみ、自らもそのあとを追って身を投げてしまったのです。
この真福寺には、晴明が隠れたといわれる小さなお堂(晴明堂)が遺されています。(お堂はあとから建て直されたものでしょう)
また、姫が海に飛び込んだことを知った晴明が罪滅ぼしのためにここで荒行をしたといわれています。
また延命姫が身を投げた「通漣坊」は、 千葉縣海上郡誌に「潮漣洞」として下記のように紹介されています。
「豊岡小浜磯見川の河口にあり、潮汐 沿岸を洗い、岩石為めに穿(うが)たれて一の大なる竈(かまど)形の空洞を生ず。
一洞崩壊すれば、随って一洞を生ず。 世俗之を「延命淵」と称す。
数十年前には、川の左右両岸に大小二個あり。
小なるを「女竃(めがま)」と称し、大なるを「男竃(おがま)」と称せり。
海上浪(なみ)高き時は、侵入する潮汐、恰(あたか)も長鯨(ちょうげい)の水煙を呼出するが如く、実に奇観なり。
遠近伝えて奇異の顕象となし、夏季観客常に絶えずという。」」
また、ここの名前の「延命が淵」については、この安倍清明伝説をそのまま紹介して、この空洞はこの延命姫が身を投げたときにできたものだとの伝説を紹介しています。
この「通蓮洞」は、「旭市」との市境にあり、銚子市小浜側の「男竃」は「小浜通蓮洞」、旭市上永井側の「女竃」は「上永井通蓮洞」と呼ばれていたそうですが、「男竃」は侵食により明治30年代に消滅し、「女竃」も昭和30年代まで一部が残っていたそうですが今は見ることが出来ません。
また岩が潮を噴き上げる壮観な景観の場所であり、素晴らしい風光明媚な場所であったそうです。
現在も歩いてこの海岸淵に下りられますが、昔の洞窟などはなくなってしまっているようです。

(飯岡灯台:刑部岬)

(東洋のドーハー:屏風岩)
さて、海に身を投げた延命姫の髪の毛は銚子川口の岩(千人塚の付近)にからみつき、歯と櫛が川口の地に打ち上げられたのです。
そして、その歯と櫛を川口の丘に埋めて祀られました。これが現在の川口神社です。
この川口神社は伝承によれば最初「歯櫛明神」とよばれ、それがいつしか「白紙明神」と名が変わり、明治3年には現在の「川口神社」に改名されたといいます。
この延命姫は顔にアザがあったのですが、この川口神社に櫛や鏡などを納めて祈願すれば、女性は美しくなり、神社にある「白」をつけるとアザがきえると信仰されてきたそうです。

(川口神社:白神明神)
さて、安倍晴明は平安時代の陰陽師としてその名を知られていますが、出生についてはいろいろな説があります。
大阪の安倍晴明神社のある阿倍野区というのが有力とされているのですが、茨城県の筑波山の麓である旧明野町猫島(現筑西市猫島)で生まれたとする説もかなり有力なのです。
晴明のことが書かれている最も古い歴史的文献「ほき抄」がその証拠と言われています。
平将門がいたのもこの近くです。
この海上国が常陸の筑波山の麓地方と関係があったことを伺わせる話であることが興味をそそります。
坂東三十三観音の霊場は、
第25番 筑波山 大御堂(つくば市)
第26番 南明山 清瀧寺(土浦市)
第27番 飯沼山 円福寺(飯沼観音)(銚子市)
と土浦市の筑波山の麓よりこの銚子の飯沼観音へと続いており、昔は水路で人の流れもつながっていたように思われます。

そして、この銚子に伝わる一つの伝説に何故だか興味がそそられてきました。
銚子に伝わる伝説といえば犬吠崎や犬岩などに残された「源義経伝説」がありますが、これはこの銚子市の中でも一部の海岸などに伝わっているものです。
しかし、陰陽師安倍晴明伝説は銚子市の西北端から東南端まで幅広く晴明が動き回っているのです。
では、この晴明伝説を紹介しましょう。
千葉県の銚子の一つ手前「松岸駅」に近い垣根町の海上小学校のとなりに「長者山仁王尊阿弥陀院(根本寺)」というお寺があります。
入り口の門柱にも「長者山」と書かれています。
ここ長者山と名が付いたのは、この場所に昔の海上郡で一番の長者が住んでいたことによります。
この長者にまつわるお話です。
この長者屋敷は「垣根の長者屋敷」と呼ばれていました。
長者の名前は「根本右兵衛義貞」といいました。
垣根の長者、海上郡随一の金満家であった根本右兵衛義貞には一人娘「延命姫」がおりました。

(垣根町にある長者屋敷跡に建つ 長者山仁王尊阿弥陀院 仁王門)

(阿弥陀院の阿弥陀堂)
平将門の乱討伐のために筑波に足を運んでいた右大臣藤原師輔に見いだされた安倍晴明は、時の天皇に寵愛され才能を発揮します。
しかし、天皇を取り巻く政争にまきこまれ、 身の危険を感じた阿倍晴明は都を脱出し 故郷の筑波山麓にもどっていました。
西暦986年 、筑波に戻っていた阿倍晴明はさらにこの銚子に逃れてきてこの長者屋敷に泊まりました。
そこで垣根の長者の延命姫と出会い、姫が晴明に一目惚れしてしまったのです。

(阿弥陀院境内に立つ 延命姫供養塔 隣りに長者供養塔もある)
しかし延命姫は、生まれながらにして顔の左ほほ全面にアザがあったのです。
父の義貞は、裕福な資産家であり、娘のために安倍晴明に自分の財産を全て提供し、娘との結婚を願い出ました。
都から逃れてきていた安倍晴明は、最初はしぶしぶ延命姫との婚姻を約束するも、やはり次第に後悔しはじめ、延命姫のもとから逃げ出してしまいました。
晴明は、垣根屋敷から利根川に添って少し下流の「今宮」にやってきました。
そして、そこから対岸の波崎にわたろうとしましたが、海(川)が荒れていて渡れません。
そのため、晴明は飯沼観音へ逃げて、更に東の和田不動尊(和田山不動堂)に晴明は駆け込んだのです。

(飯沼観音)

(和田山不動尊入口)

(和田山不動堂)
それでも姫は晴明を諦めきれずに必死にその後を追いかけました。
姫は常世田薬師堂(常灯寺)に 三日三晩 籠もり、晴明がいる場所を知らせてほしいと願掛けをしたのです。

(常世田薬師堂 比較的最近まで茅葺屋根の立派なお堂でしたが銅版葺き屋根に改修されました。)

(薬師堂の横の土壁には奥へ続く洞窟があります。その側壁にはたくさんの薬師様が祀られています。)
晴明は、逃げても逃げても延命姫が追ってくるので、ついに屏風ヶ浦の小浜の地(現在の銚子市と旭市との市境に近い海岸)まで逃げたところで一計を案じたのです。
自分が死んだように見せかければ姫もきっとあきらめると考えたのです。
屏風ヶ浦の「通漣坊(つうれんぼう)」に着物と履き物を脱ぎ捨てて、断崖絶壁の崖の上から海に飛び込んだように見せかけ、自身は近くの新田の明王山真福寺に身を隠しました。
追ってきた延命姫は、通漣坊にぬぎすてられた着物と履き物をみて、晴明が身を投げたものと思いこみ、自らもそのあとを追って身を投げてしまったのです。
この真福寺には、晴明が隠れたといわれる小さなお堂(晴明堂)が遺されています。(お堂はあとから建て直されたものでしょう)
また、姫が海に飛び込んだことを知った晴明が罪滅ぼしのためにここで荒行をしたといわれています。
また延命姫が身を投げた「通漣坊」は、 千葉縣海上郡誌に「潮漣洞」として下記のように紹介されています。
「豊岡小浜磯見川の河口にあり、潮汐 沿岸を洗い、岩石為めに穿(うが)たれて一の大なる竈(かまど)形の空洞を生ず。
一洞崩壊すれば、随って一洞を生ず。 世俗之を「延命淵」と称す。
数十年前には、川の左右両岸に大小二個あり。
小なるを「女竃(めがま)」と称し、大なるを「男竃(おがま)」と称せり。
海上浪(なみ)高き時は、侵入する潮汐、恰(あたか)も長鯨(ちょうげい)の水煙を呼出するが如く、実に奇観なり。
遠近伝えて奇異の顕象となし、夏季観客常に絶えずという。」」
また、ここの名前の「延命が淵」については、この安倍清明伝説をそのまま紹介して、この空洞はこの延命姫が身を投げたときにできたものだとの伝説を紹介しています。
この「通蓮洞」は、「旭市」との市境にあり、銚子市小浜側の「男竃」は「小浜通蓮洞」、旭市上永井側の「女竃」は「上永井通蓮洞」と呼ばれていたそうですが、「男竃」は侵食により明治30年代に消滅し、「女竃」も昭和30年代まで一部が残っていたそうですが今は見ることが出来ません。
また岩が潮を噴き上げる壮観な景観の場所であり、素晴らしい風光明媚な場所であったそうです。
現在も歩いてこの海岸淵に下りられますが、昔の洞窟などはなくなってしまっているようです。

(飯岡灯台:刑部岬)

(東洋のドーハー:屏風岩)
さて、海に身を投げた延命姫の髪の毛は銚子川口の岩(千人塚の付近)にからみつき、歯と櫛が川口の地に打ち上げられたのです。
そして、その歯と櫛を川口の丘に埋めて祀られました。これが現在の川口神社です。
この川口神社は伝承によれば最初「歯櫛明神」とよばれ、それがいつしか「白紙明神」と名が変わり、明治3年には現在の「川口神社」に改名されたといいます。
この延命姫は顔にアザがあったのですが、この川口神社に櫛や鏡などを納めて祈願すれば、女性は美しくなり、神社にある「白」をつけるとアザがきえると信仰されてきたそうです。

(川口神社:白神明神)
さて、安倍晴明は平安時代の陰陽師としてその名を知られていますが、出生についてはいろいろな説があります。
大阪の安倍晴明神社のある阿倍野区というのが有力とされているのですが、茨城県の筑波山の麓である旧明野町猫島(現筑西市猫島)で生まれたとする説もかなり有力なのです。
晴明のことが書かれている最も古い歴史的文献「ほき抄」がその証拠と言われています。
平将門がいたのもこの近くです。
この海上国が常陸の筑波山の麓地方と関係があったことを伺わせる話であることが興味をそそります。
坂東三十三観音の霊場は、
第25番 筑波山 大御堂(つくば市)
第26番 南明山 清瀧寺(土浦市)
第27番 飯沼山 円福寺(飯沼観音)(銚子市)
と土浦市の筑波山の麓よりこの銚子の飯沼観音へと続いており、昔は水路で人の流れもつながっていたように思われます。

私も、これから調べようと思っています。
よろしくご教示ください。
コメントありがとうございます。
銚子の晴明伝説の成り立ちはよくわかりませんが面白いですね。
是非調べてまた新たな内容が見つかりましたら書いてください。
私の物はほぼすべてネット記事を参考にしたものと実際に行って感じたことなどを書いています。
もし参考になるのならご自由にお使いください。