香勢堂
お盆明けの16日に今年もそろそろ代田、井関方面の大人形(ダイダラボッチ)を見ようかと、石岡市内から三村方面に車で向かった。
途中に思い出してこの「香勢堂墓地」に立ち寄ってみた。
何時もは素通りするのだが、前に私が書いた記事を読んで電話をくれた方がいたことを思いだしたから・・・
この墓所も、昔に図書館で読んだ本にあったので、行ってみようとして場所がわからずに近くをうろうろしてしまったが、わかってしまえば非常にわかりやすい場所にある。
また三村城の城主であった平常春(府中大掾氏の弟)の墓(五輪塔)もその頃何度となく探し回ったことなどを思い出していた。

ここでは、府中(石岡)の大掾氏が小川の園部氏や土浦の小田氏などと争っていた戦国末期に事件が起こった。
詳しくは前に書いた「三村城秘話」に詳しく載せてある
三村城秘話は ⇒ こちら

燃え落ちる味方の三村城を恋瀬川の対岸に眺め、府中城より援軍に駆け付けた兵士300名がこの近くで自害したとされる。
そして後に、ここに 一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれておりましたが、時が過ぎ、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に六地蔵作られ、現在の場所(崖の下 北根本)に移されたものと考えられます。
香勢堂=高野勢堂=国府(こう)勢堂 ではないかと言われています。
この六地蔵の裏には197名と記載されており、昔の記録にあった300人とは違っています。
もっともこの頃の兵士がこのことで自害して見な果てたなどというのもどの程度の信ぴょう性があるかは不明です。
府中城が佐竹・園部氏らにより攻められて落城したのは三村城落城(1574年)から16年後(1590年)のことであった。
それにしてもこの三村城落城秘話に出てくる「大鷲と大鰻の格闘」の話は、昔話として実に面白い話(とても具体的で)なのだが・・・・・
あまり評判を呼ばないのは何故かな~
まあ、「鷲塚」「鰻塚」と呼ばれた古墳は高浜付近に常磐線の鉄道を通す時に削られて、湿地の埋め立てに使われてしまったので一緒に話も埋められてしまったのかもしれない。
また掘り起こしてみても面白い話だと思う。
途中に思い出してこの「香勢堂墓地」に立ち寄ってみた。
何時もは素通りするのだが、前に私が書いた記事を読んで電話をくれた方がいたことを思いだしたから・・・
この墓所も、昔に図書館で読んだ本にあったので、行ってみようとして場所がわからずに近くをうろうろしてしまったが、わかってしまえば非常にわかりやすい場所にある。
また三村城の城主であった平常春(府中大掾氏の弟)の墓(五輪塔)もその頃何度となく探し回ったことなどを思い出していた。

ここでは、府中(石岡)の大掾氏が小川の園部氏や土浦の小田氏などと争っていた戦国末期に事件が起こった。
詳しくは前に書いた「三村城秘話」に詳しく載せてある
三村城秘話は ⇒ こちら

燃え落ちる味方の三村城を恋瀬川の対岸に眺め、府中城より援軍に駆け付けた兵士300名がこの近くで自害したとされる。
そして後に、ここに 一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれておりましたが、時が過ぎ、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に六地蔵作られ、現在の場所(崖の下 北根本)に移されたものと考えられます。
香勢堂=高野勢堂=国府(こう)勢堂 ではないかと言われています。
この六地蔵の裏には197名と記載されており、昔の記録にあった300人とは違っています。
もっともこの頃の兵士がこのことで自害して見な果てたなどというのもどの程度の信ぴょう性があるかは不明です。
府中城が佐竹・園部氏らにより攻められて落城したのは三村城落城(1574年)から16年後(1590年)のことであった。
それにしてもこの三村城落城秘話に出てくる「大鷲と大鰻の格闘」の話は、昔話として実に面白い話(とても具体的で)なのだが・・・・・
あまり評判を呼ばないのは何故かな~
まあ、「鷲塚」「鰻塚」と呼ばれた古墳は高浜付近に常磐線の鉄道を通す時に削られて、湿地の埋め立てに使われてしまったので一緒に話も埋められてしまったのかもしれない。
また掘り起こしてみても面白い話だと思う。
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