歴史上の気になる人物(1)- 役小角(えんのおづぬ)
役小角(えんのおづぬ)=役行者(えんのぎょうじゃ)
役小角(えんのおづぬ)は役公小角(えだちのきみおづぬ)といい、奈良時代の前の飛鳥時代の人物で、西暦634年~701年7月16日に実在した修験道の祖とされる人物です。役行者(えんのぎょうじゃ)と一般には呼ばれています。
時代背景としては大化の改新(646年)、白江村の敗北(663年)、天智天皇即位(688年)、天武天皇即位(673年)、持統天皇遷都(694年)、大宝律令(701年)などの時代である。
中国(唐)では三蔵法師(玄奘三蔵)が16~17年の西域・インドへの長旅を終えて仏教の経典を長安に持ち帰ったのが645年です。ただ仏教が日本に伝わったのはそれより100年ほど前です(元興寺縁起では仏教の伝来は西暦538年)。
修験道は日本古来の神道と仏教が融合した日本独自の蔵王権現を祀る宗教です。しかし、明治初期の神仏分離(廃仏稀釈)により壊滅的な打撃を受けました。
しかし、最近はこれを見直す動きも大分出てきています。
ここではこの修験道の祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)こと役小角(えんのおづぬ)について調べた内容をまとめておきたいと思います。
1、小角の出生について
役小角の生まれは現在の奈良県御所市茅原(大和国葛上郡茅原郷)で、西には葛城山(標高959.2m)、金剛山(標高1125m)の金剛山地尾根が続いている場所です。
現在この生まれたとされる場所には役小角が開祖といわれる吉祥草寺(本山修験宗大本山・茅原山・金剛寿院)が建っています。吉祥草は葛城山でめでたい時にしか咲かないと言われる蘭に似た花を持つユリ科の植物で小角が生まれた時に咲き乱れていたということから名づけられた。
また金剛山の最高地点(1125m)は葛木岳(かつらぎたけ)といい、葛木神社の本殿の裏となっていて、立ち入り禁止の神域です。
小角(おづぬ)の父親は高鴨神に奉仕する高加茂朝臣(たかかものあそん)とか、加茂氏(三輪氏族)から出た氏加茂役君(かものえだちのきみ)といい、またの名を大角(おおづぬ)という。母親は白専女(しらとうめ)、又は刀自女(とらめ)といいます。
神道の成人女性の墓碑には「刀自(とじ)」「刀自命(とじのみこと)」とつけられる場合が多いですが、刀自とは戸口を守るという意味があるといいます。また専女(とうめ)は狐のことを呼ぶとも言うようです。この母親の出についても第25代武烈天皇(6世紀初期)の時代に大伴金村によって攻め滅ぼされた大臣物部真鳥の娘とも言われています。親系列は出雲族、物部族系といえるようです。
高鴨神については奈良県御所市には高鴨神社があり、全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社とも言われています。
また小角の出生についても次のような伝説が残されています。
母親であるある白専女は、ある夜に一つの独鈷杵(どっこしょ:仏具)が天降りきて口から胎内に入った夢(別な話しによれば熊野に参詣した際に月を飲み込んだ夢)を見て懐妊したという。
生まれた子は男の子で、額に小さな角があり、幼名を小角と言った。
その他、帝が狩りにきて、雨が降ったので行者の家で雨宿りをした。その時に行者の母があまりにも美しく、近くにお召しになり子供が出来たという伝承などもある。
2、小角の幼少期
小角は幼少のころから聡明叡智で、歩いていても虫は踏まず、華を摘み、果物を拾って仏に供養し、常に清浄の地を選んで竹で柵を作りその中で土から仏を造ったりしていたと言う。
また7歳頃から仏教を志し、9歳で出家して「役優婆塞」と名乗ったという。
3、小角の修行
17歳頃に元興寺(現:奈良市の元興寺及び飛鳥寺の2つ)で孔雀明王の呪術で習い、葛城山(現:金剛山)の岩窟に籠って修行を積んだ結果、「孔雀明王」の呪術を修得したという。
孔雀明王は毒蛇を食べる孔雀(クジャク)を神格化した仏のことで、その呪術は、呪文を唱えては数々の奇跡を起こすことが出来たという。額の角は帽子で隠しておりこの帽子を角帽子(つのぼうし)というようになったとも言われる。
葛城山での修行については、司馬遼太郎が書した「吉野風土記」の中で、650年の冬に小角は葛城山に入り、まず飛行術の修行をしたとし、山並みのコゴセ山からフタガミ山の間の尾根道(約5里)を毎日10回、飼いならした鹿10頭と一緒に一本歯の高下駄をはいて走ったという。
1年もすると次第に小角は谷間を飛び越えられるようになり、あまりにも早くなって鹿も一緒に走るのをやめた。
そして小角は飛行術を会得していったと書いています。
まさに天狗ですね。また、小角は五色の雲に乗り、自由に空まで飛ぶことができたともいう。
また、奈良の蛇穴村(現:御所市蛇穴(さらぎ))にある野口神社に残された話しでは、茅原郷から葛城山の櫛羅(くじら)の滝や行者の滝へ毎日通う役小角の姿をよく見かけたとされ、この神社の茨田(まんだ)の長者の娘が役小角を見初めて恋に落ちたが、小角は修行中で目もかけなかったため、遂に娘は大蛇に変身して火を吐きながら小角を呑み込もうと穴に隠れて待っていた。
そこに村人が通りかかり、驚いた村人は火を吹く大蛇に持っていた味噌汁をぶっかけたそうな。
そして、村へ逃げ帰り、人を呼んできて見ると、大蛇は井の中に静かに入ったため、その井戸の上を岩で塞ぎ閉じ込めたという話しが残されています。
このため、野口神社では毎年5月5日にこの蛇となった娘の供養に三斗三升三合の味噌でワカメ汁を作って参詣者に掛け、厄除けをする「汁掛祭」、全長14mの大蛇を模した蛇綱で、各家の邪気を払う「蛇綱引き」が行われています。
また、箕面の滝本に一千日こもった後、生駒山の麓の「平群の里」に行くと、清い水が勢いよく流れていたので、何処から流れて来るのかと山中に分け入った。
すると、その流れの元に滝があり、そこに長さ三丈(約9m)もあり、口から火の様な赤い舌を出した大蛇がいた。 そして大蛇は役行者に襲いかかってきた。
岩上に立った役行者は右手に錫杖、左手に念珠を持ち、孔雀明王の真言を唱えると大蛇は一瞬怯えたが、また襲いかかってきた。役行者は大蛇の脳天に錫杖で一撃を加えると、大蛇は消え、白髪の老人が現れ「この地は仏の住まう霊地である。 そなたはここで修業なさるがよい」と告げ、忽然と姿を消したという。
この元山上の千光寺「行者堂」には行者が退治した大蛇の骨が安置され、この千光寺から鳴川沿いに下った清滝には大蛇が変身したとされる八尺地蔵が立っています。
4、中臣鎌足の病気平癒
小角が20代のころ中臣鎌足(後の藤原鎌足)が難治の病に係り、評判を聞いて茅原の里に使いを出た。 行者はこれに霊薬を持たせ、更に祈念して念ずると徐々に快方に向かい、37日で全快となったという。
5、行者金剛山(葛木山)に登る
行者は霊薬などの処方で多くの人を救ってきたが、深山幽谷での修行を望み、32歳の頃の深夜に自分を模した木造を彫って母親に残し、金剛山に向かったという。
明るくなって母親はこの像に話しかけたが返事がなく、木像だと気がついたという。
しかし、当時すでに行者の名は帝にまで知られており、修行でいなくなったのであればということで、帝より茅原の里に一宇の堂を建立せよとの命が下され、吉祥草寺(俗称:茅原寺(ちはらでら))が建てられた。
この本堂には五大尊を安置し、行者堂にはこの32歳の行者木像が安置されたという。
6、前鬼・後鬼を従える
生駒山には前鬼(ぜんき)、後鬼(ごき)という夫婦の鬼が住んでおり、村人に悪さをしたり子供たちを捕まえたりして多くの村人を苦しめていた。
またこの鬼は小角の修行の邪魔をするため、言うことを聞かない時には不動明王の秘法ですぐに捕縛されたため、すぐに行者の言うことを聞くようになった。
あるいは、鬼の5人の子供の末子を捕まえて、鉄釜に閉じ込めて隠して、村の子供を殺された村人の悲しみや怒りを鬼どもにわからせて改心させ、行者の弟子となった。
弟子となった2匹の鬼は、行者より名前を付けられ、夫の前鬼は義覚または義学(ぎがく)、妻の後鬼は義玄(ぎげん)と呼ばれ、行者の五大弟子(五鬼)となった。
この前鬼(ぜんき)は後に天狗となり、大峰山前鬼坊(那智滝本前鬼坊)となったとの伝承がある。
この鬼退治をした場所は鬼取山(生駒市鬼取町)とよばれ、山頂には役行者が707年に開山したとされる「鶴林寺(現:寳山寺(ほうざんじ)」が建っていましたが、712年に行基が薬師如来を本尊として場所を移し、その後平安時代に用水の確保のためにまた移築され、現在の鬼取山鶴林寺となっている。

(奈良大峯山の役行者椅像と前鬼・後鬼坐像:1426年繁田三位法橋作)
7、金峯山(吉野山)で金剛蔵王大権現を感得
桜で有名な吉野山の象徴ともいわれる金峯山寺(きんぷせんじ)は、この役小角が7世紀後半に金峯山で仏の出現を強く祈った時に(金剛)蔵王権現の姿を感じて、これを本尊として祀ったのが寺の創建とされ、修験道の本山といわれています。
この蔵王権現は、仏教の仏と神道の神ともどちらでもない独特の尊格で、金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で表わされています。 その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものです。
寺伝では中尊が釈迦如来、向かって右の像が千手観音、左の像が弥勒菩薩を本地(本来の姿)としており、それぞれ過去・現世・来世を象徴しているといわれています。
この「権現」は仏が姿を変えて現れたものというものです。
これらの像は長い間秘仏で公開されることはめったにありませんでしたが、吉野山が2004年7月に世界遺産(紀伊山地の霊場と参詣道)に登録されたのを機に1年間に亘って開帳されました。
また、最近は、毎年11月に約1ヶ月にわたって特別公開が実施されています。
これは世界遺産に登録された仁王門の修理費をまかなうため(2012年から10年間)ですので、門の修理が終りましたらまた完全秘仏に戻るかもしれません。

(内陣の厨子の扉が開かれた5~7mもある巨大な蔵王権現像:1590年制作)

これが山岳信仰と仏教を融合させた日本における修験道の始まりであるとも伝えられています。
この修験道はインドや中国から伝わってきたものではなく日本独自の信仰です。
そこに祀られる「蔵王権現」もインドや中国の起源にはないもので、神道の神でもなく、仏教の仏でもない両方を併せ持った神とされています。
2000年に修験道の三派(聖護院を本山とする本山修験宗、醍醐三宝院を本山とする真言宗醍醐派、金峯山寺を本山とする金峯山修験本宗)が合同で大規模な法要(御遠忌(ごおんき))が開かれた。
8、小角伊豆に流罪される
文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。
「日本霊異記」などによると、葛城山系の岩橋山(標高659m)から吉野の金峯山の金剛蔵王権現に教えを受けに行くため、この間に石橋を架けるように葛城神社の祭神である「一言主命」に命じました。
しかし、一言主は顔が余りにも醜く、暗い夜しか働かないので、行者は怒って一言主を呪縛して深谷に押籠めてしまいました。
すると一言主は行者の弟子であった韓国連広足(からくにのむらじひろたり)を使って、朝廷に換言「役行者は世の人々を惑わし、謀反を企てている」と告げさせたのです。
また人々にも小角が鬼神を使役して水を汲ませ、薪を採らせていると噂を流しました。
(弟子の韓国連広足の換言については、韓国連広足が小角の能力を妬まれたためだとする話もあります)
そこで、文武天皇が役行者の母を人質に取ると、孝心の深い役行者は自分から出て来て捕縛され、伊豆に配流されました。
伊豆に流された小角ですが、毎日夜になると島から抜け出して富士山に登って修行したなどとの話しもあります。
9、小角の大赦
2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、老母の待つ芽原の郷に帰りますが、すぐに父母のご恩に報いるために大峰山に入り一千の塔婆を立てて供養をしたとの話もあります。
また、一言主が、小角が流布されただけではまだ身の危険を感じ、小角を処刑するように託宣した。
そこで朝廷は伊豆へ挙兵し、処刑を執行しようとしたのですが、そのとき刀の刃に「小角を赦免して崇めよ」という富士明神の言葉が現われたため、これに驚き、赦免したという話も伝わっています。
その後、同年6月7日に箕面山瀧安寺の奥の院の天上ヶ岳にて入寂したと伝わります(享年68)。
山頂には廟が建てられています。
別な説では、同じ6月7日に、 役行者は老母を連れ天上ヶ岳へ登り、「本覚円融の月は西域の雲に隠るるといえども、方便応化の影はなお東海の水にあり」との遺偈を残し、五色の雲に乗って母とともに天上に登っていったとか、唐の国に渡ったなどとも伝えられています。
また、一言主明神については唐へ飛び去る前に呪縛していったなどとも言われています。
10、各地に残された役行者の伝承
(1)、室生寺
女人高野として名高い奈良の室生寺は西暦680年にこの地に役小角が草庵を結んだのが始まりだと伝えられています。
ただ文献でわかるのは奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)に、東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のためにこの地で病気平癒・延寿の法を行ったところ「竜神」の力で回復したので、興福寺の僧・賢憬(けんけい)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。
現在の室生寺の東方、室生川に沿って1kmほど上流に竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があり、この神社が室生寺の竜神伝承に関係していると思われます。
この竜穴神社の創建の方が室生寺よりも古いとされ、室生寺は、この竜穴神社の神宮寺だという説もあります。このため、役行者の開山説は資料としてははっきりしていません。
(2)、鳥取県三仏寺(投入堂)と四国石鎚山

投入堂は、三徳山三仏寺の奥院の別名で、山の北側にそびえる断崖絶壁の岩場にしがみつくように建てられています。
本当にどうしてあんな場所に建てることが出来たのかとても不思議です。
三仏寺の本堂は山の麓にあり、そこまでは誰でもお参りすることはできます。
しかし、その上に立つこの投入堂はじめ、文殊堂と地蔵堂などは厳しい岩場を登らなければ近づくことが出来ません。
でも今ではある程度健脚の方なら服装や靴の準備さえしておけば然程難しいこともありません。
三仏寺の創建については、役小角が三枚の蓮の花びらを散らしたところ、それらの花びらの一つがここ伯耆(ほうき)国三徳山(標高899.9m)に落ちたため、706年にこの山を修験道の場として開き、この山に蔵王権現を祀ったとされています。
また他の蓮の花びらが落ちたとされる場所は吉野山と四国の石鎚山だとされ、共に蔵王権現が祀られており、石鎚山は山そのものが石鎚蔵王権現といわれています。

(蔵王権現立像 7躯)
上記の像は投入堂内に安置されていたものですが、現在は本堂近くに作られた宝物殿に安置されています。1168年の銘のあるものや、年輪年代推定で1025年といわれる像もあり、大変貴重なものといわれています。
(3)、大坂府高槻市の神峯山寺(かぶさんじ)
神峯山寺は日本で最初に毘沙門天が安置された霊場といわれており、本尊は秘仏の毘沙門天、双身毘沙門天(そうじんびしゃもんてん)、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)です。
「神峯山寺秘密縁起」によれば、697年に役小角が葛城山(金剛山)で修行をしていた時に、北方の山から黄金の光が発せられて霊感を受け、この地にやってきた。
そこで天童(金比羅飯綱大権現)と出会い、天童の霊木で4体の毘沙門天が刻まれ、役小角が伽藍を建立し毘沙門天を祀ったことが起源とされています。
また刻まれた残り3体の毘沙門天は天高く飛散し、1体はかつて神峯山寺奥之院「霊雲院」であった北山本山寺に、1体は京都市左京区の鞍馬寺に、1体は奈良県生駒郡平群町の信貴山に安置されたと伝わっています。
その後、神峯山寺は修験霊場として栄え、比叡山、比良山、伊吹山、愛宕山、金峰山、葛城山に並ぶ七高山の一角として大いに栄えたとされています。
(4)、愛知県岡崎市の滝山寺(たきさんじ)
滝山寺は鎌倉幕府ゆかりの寺で、運慶仏があることで知られ、1月7日頃に行われる奇祭として有名な鬼祭りがあります。
この寺も伝承(岡崎市史)によれば、役小角(えんのおづの)が、修行の為にこの近くを流れる青木川に入ったところ、瀧があり、その滝つぼに大きな龍が金色の仏像を守護していた。
行者はその仏像を袈裟に包んで引き上げたところ、金の薬師如来であった。
行者は時の朝廷に報告すると「鎮護国家の霊場を建てよ」と勅命が下り、自ら薬師如来をきざみ、その仏神に金色の薬師如来を納め、堂に安置したと書かれています。
この堂がこの滝山寺の前身であるという吉祥寺の始まりといわれています。
(5)、大坂の観心寺
観心寺には、日本の三大如意輪観音(観心寺、室生寺、神呪寺)の一つとされる国宝「如意輪観音菩薩像」が安置されています。
701年に役小角がここに「雲心寺」を建て、その後、平安時代の808年に空海(弘法大師)がこの寺に北斗七星を祀り、815年に自ら彫った如意輪観音像をこの寺に安置して寺の名前も、雲心寺から観心寺に改めたと伝えられている。
北斗七星を祀る寺は日本にはここしかなく、現在も7つの星塚が境内にある。
(6)、伊賀の里「赤目四十八滝」のいわれ
伊賀忍者がこの滝などで修業していたといわれ、現在「忍者修業の里」ともよばれており、忍者体験ができる「忍者の森」という施設なども存在します。
役行者(役小角)がこの滝で修業し、修行中に赤い眼の牛に乗った不動明王と出会ったという言い伝えがあり、「赤目」の名前の由来とも言われています。近くの弥勒寺に役行者の像が置かれています。
(7)役行者霊蹟(れいせき)札所
役小角(役行者)ゆかりの霊場巡礼36か寺
2001年の役行者1300年遠忌を機にして設立されました。
36寺は以下の通り。
吉野山:金峯山寺、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、善福寺、大日寺、東南院
その他吉野郡:大峯山寺、龍泉寺、菅生寺
奈良県御所市:吉祥草寺、転法輪寺(金剛山)
その他奈良県:千光寺(駒郡平群町)、宝山寺(生駒市)、霊山寺(奈良市)、松尾寺(大和郡山市山田町)、朝護孫子寺(生駒郡平群町)、室生寺(宇陀市)、大野寺(宇陀市)
大坂府:本山寺(高槻市)、神峯山寺(高槻市)、法楽寺(大阪市)、松尾寺(和泉市)、七宝瀧寺(泉佐野市)、弘川寺(河南町)、観心寺(河内長野市)、千手寺(東大阪市)、天龍院(東大阪市)、興法寺(東大阪市)
京都府:聖護院(京都市左京区)、醍醐寺(京都市伏見区)
その他:根来寺(和歌山県岩出市)、清荒神清澄寺(兵庫県宝塚市)、須磨寺(兵庫県神戸市、伊吹山寺(滋賀県米原市)
(8)東北地方の関係寺院
早池峰山・太平山・鳥海山・出羽三山・蔵王など数多くの山岳信仰の山に役小角の名前が出てきます。
役小角(えんのおづぬ)は役公小角(えだちのきみおづぬ)といい、奈良時代の前の飛鳥時代の人物で、西暦634年~701年7月16日に実在した修験道の祖とされる人物です。役行者(えんのぎょうじゃ)と一般には呼ばれています。
時代背景としては大化の改新(646年)、白江村の敗北(663年)、天智天皇即位(688年)、天武天皇即位(673年)、持統天皇遷都(694年)、大宝律令(701年)などの時代である。
中国(唐)では三蔵法師(玄奘三蔵)が16~17年の西域・インドへの長旅を終えて仏教の経典を長安に持ち帰ったのが645年です。ただ仏教が日本に伝わったのはそれより100年ほど前です(元興寺縁起では仏教の伝来は西暦538年)。
修験道は日本古来の神道と仏教が融合した日本独自の蔵王権現を祀る宗教です。しかし、明治初期の神仏分離(廃仏稀釈)により壊滅的な打撃を受けました。
しかし、最近はこれを見直す動きも大分出てきています。
ここではこの修験道の祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)こと役小角(えんのおづぬ)について調べた内容をまとめておきたいと思います。
1、小角の出生について
役小角の生まれは現在の奈良県御所市茅原(大和国葛上郡茅原郷)で、西には葛城山(標高959.2m)、金剛山(標高1125m)の金剛山地尾根が続いている場所です。
現在この生まれたとされる場所には役小角が開祖といわれる吉祥草寺(本山修験宗大本山・茅原山・金剛寿院)が建っています。吉祥草は葛城山でめでたい時にしか咲かないと言われる蘭に似た花を持つユリ科の植物で小角が生まれた時に咲き乱れていたということから名づけられた。
また金剛山の最高地点(1125m)は葛木岳(かつらぎたけ)といい、葛木神社の本殿の裏となっていて、立ち入り禁止の神域です。
小角(おづぬ)の父親は高鴨神に奉仕する高加茂朝臣(たかかものあそん)とか、加茂氏(三輪氏族)から出た氏加茂役君(かものえだちのきみ)といい、またの名を大角(おおづぬ)という。母親は白専女(しらとうめ)、又は刀自女(とらめ)といいます。
神道の成人女性の墓碑には「刀自(とじ)」「刀自命(とじのみこと)」とつけられる場合が多いですが、刀自とは戸口を守るという意味があるといいます。また専女(とうめ)は狐のことを呼ぶとも言うようです。この母親の出についても第25代武烈天皇(6世紀初期)の時代に大伴金村によって攻め滅ぼされた大臣物部真鳥の娘とも言われています。親系列は出雲族、物部族系といえるようです。
高鴨神については奈良県御所市には高鴨神社があり、全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社とも言われています。
また小角の出生についても次のような伝説が残されています。
母親であるある白専女は、ある夜に一つの独鈷杵(どっこしょ:仏具)が天降りきて口から胎内に入った夢(別な話しによれば熊野に参詣した際に月を飲み込んだ夢)を見て懐妊したという。
生まれた子は男の子で、額に小さな角があり、幼名を小角と言った。
その他、帝が狩りにきて、雨が降ったので行者の家で雨宿りをした。その時に行者の母があまりにも美しく、近くにお召しになり子供が出来たという伝承などもある。
2、小角の幼少期
小角は幼少のころから聡明叡智で、歩いていても虫は踏まず、華を摘み、果物を拾って仏に供養し、常に清浄の地を選んで竹で柵を作りその中で土から仏を造ったりしていたと言う。
また7歳頃から仏教を志し、9歳で出家して「役優婆塞」と名乗ったという。
3、小角の修行
17歳頃に元興寺(現:奈良市の元興寺及び飛鳥寺の2つ)で孔雀明王の呪術で習い、葛城山(現:金剛山)の岩窟に籠って修行を積んだ結果、「孔雀明王」の呪術を修得したという。
孔雀明王は毒蛇を食べる孔雀(クジャク)を神格化した仏のことで、その呪術は、呪文を唱えては数々の奇跡を起こすことが出来たという。額の角は帽子で隠しておりこの帽子を角帽子(つのぼうし)というようになったとも言われる。
葛城山での修行については、司馬遼太郎が書した「吉野風土記」の中で、650年の冬に小角は葛城山に入り、まず飛行術の修行をしたとし、山並みのコゴセ山からフタガミ山の間の尾根道(約5里)を毎日10回、飼いならした鹿10頭と一緒に一本歯の高下駄をはいて走ったという。
1年もすると次第に小角は谷間を飛び越えられるようになり、あまりにも早くなって鹿も一緒に走るのをやめた。
そして小角は飛行術を会得していったと書いています。
まさに天狗ですね。また、小角は五色の雲に乗り、自由に空まで飛ぶことができたともいう。
また、奈良の蛇穴村(現:御所市蛇穴(さらぎ))にある野口神社に残された話しでは、茅原郷から葛城山の櫛羅(くじら)の滝や行者の滝へ毎日通う役小角の姿をよく見かけたとされ、この神社の茨田(まんだ)の長者の娘が役小角を見初めて恋に落ちたが、小角は修行中で目もかけなかったため、遂に娘は大蛇に変身して火を吐きながら小角を呑み込もうと穴に隠れて待っていた。
そこに村人が通りかかり、驚いた村人は火を吹く大蛇に持っていた味噌汁をぶっかけたそうな。
そして、村へ逃げ帰り、人を呼んできて見ると、大蛇は井の中に静かに入ったため、その井戸の上を岩で塞ぎ閉じ込めたという話しが残されています。
このため、野口神社では毎年5月5日にこの蛇となった娘の供養に三斗三升三合の味噌でワカメ汁を作って参詣者に掛け、厄除けをする「汁掛祭」、全長14mの大蛇を模した蛇綱で、各家の邪気を払う「蛇綱引き」が行われています。
また、箕面の滝本に一千日こもった後、生駒山の麓の「平群の里」に行くと、清い水が勢いよく流れていたので、何処から流れて来るのかと山中に分け入った。
すると、その流れの元に滝があり、そこに長さ三丈(約9m)もあり、口から火の様な赤い舌を出した大蛇がいた。 そして大蛇は役行者に襲いかかってきた。
岩上に立った役行者は右手に錫杖、左手に念珠を持ち、孔雀明王の真言を唱えると大蛇は一瞬怯えたが、また襲いかかってきた。役行者は大蛇の脳天に錫杖で一撃を加えると、大蛇は消え、白髪の老人が現れ「この地は仏の住まう霊地である。 そなたはここで修業なさるがよい」と告げ、忽然と姿を消したという。
この元山上の千光寺「行者堂」には行者が退治した大蛇の骨が安置され、この千光寺から鳴川沿いに下った清滝には大蛇が変身したとされる八尺地蔵が立っています。
4、中臣鎌足の病気平癒
小角が20代のころ中臣鎌足(後の藤原鎌足)が難治の病に係り、評判を聞いて茅原の里に使いを出た。 行者はこれに霊薬を持たせ、更に祈念して念ずると徐々に快方に向かい、37日で全快となったという。
5、行者金剛山(葛木山)に登る
行者は霊薬などの処方で多くの人を救ってきたが、深山幽谷での修行を望み、32歳の頃の深夜に自分を模した木造を彫って母親に残し、金剛山に向かったという。
明るくなって母親はこの像に話しかけたが返事がなく、木像だと気がついたという。
しかし、当時すでに行者の名は帝にまで知られており、修行でいなくなったのであればということで、帝より茅原の里に一宇の堂を建立せよとの命が下され、吉祥草寺(俗称:茅原寺(ちはらでら))が建てられた。
この本堂には五大尊を安置し、行者堂にはこの32歳の行者木像が安置されたという。
6、前鬼・後鬼を従える
生駒山には前鬼(ぜんき)、後鬼(ごき)という夫婦の鬼が住んでおり、村人に悪さをしたり子供たちを捕まえたりして多くの村人を苦しめていた。
またこの鬼は小角の修行の邪魔をするため、言うことを聞かない時には不動明王の秘法ですぐに捕縛されたため、すぐに行者の言うことを聞くようになった。
あるいは、鬼の5人の子供の末子を捕まえて、鉄釜に閉じ込めて隠して、村の子供を殺された村人の悲しみや怒りを鬼どもにわからせて改心させ、行者の弟子となった。
弟子となった2匹の鬼は、行者より名前を付けられ、夫の前鬼は義覚または義学(ぎがく)、妻の後鬼は義玄(ぎげん)と呼ばれ、行者の五大弟子(五鬼)となった。
この前鬼(ぜんき)は後に天狗となり、大峰山前鬼坊(那智滝本前鬼坊)となったとの伝承がある。
この鬼退治をした場所は鬼取山(生駒市鬼取町)とよばれ、山頂には役行者が707年に開山したとされる「鶴林寺(現:寳山寺(ほうざんじ)」が建っていましたが、712年に行基が薬師如来を本尊として場所を移し、その後平安時代に用水の確保のためにまた移築され、現在の鬼取山鶴林寺となっている。

(奈良大峯山の役行者椅像と前鬼・後鬼坐像:1426年繁田三位法橋作)
7、金峯山(吉野山)で金剛蔵王大権現を感得
桜で有名な吉野山の象徴ともいわれる金峯山寺(きんぷせんじ)は、この役小角が7世紀後半に金峯山で仏の出現を強く祈った時に(金剛)蔵王権現の姿を感じて、これを本尊として祀ったのが寺の創建とされ、修験道の本山といわれています。
この蔵王権現は、仏教の仏と神道の神ともどちらでもない独特の尊格で、金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で表わされています。 その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものです。
寺伝では中尊が釈迦如来、向かって右の像が千手観音、左の像が弥勒菩薩を本地(本来の姿)としており、それぞれ過去・現世・来世を象徴しているといわれています。
この「権現」は仏が姿を変えて現れたものというものです。
これらの像は長い間秘仏で公開されることはめったにありませんでしたが、吉野山が2004年7月に世界遺産(紀伊山地の霊場と参詣道)に登録されたのを機に1年間に亘って開帳されました。
また、最近は、毎年11月に約1ヶ月にわたって特別公開が実施されています。
これは世界遺産に登録された仁王門の修理費をまかなうため(2012年から10年間)ですので、門の修理が終りましたらまた完全秘仏に戻るかもしれません。

(内陣の厨子の扉が開かれた5~7mもある巨大な蔵王権現像:1590年制作)

これが山岳信仰と仏教を融合させた日本における修験道の始まりであるとも伝えられています。
この修験道はインドや中国から伝わってきたものではなく日本独自の信仰です。
そこに祀られる「蔵王権現」もインドや中国の起源にはないもので、神道の神でもなく、仏教の仏でもない両方を併せ持った神とされています。
2000年に修験道の三派(聖護院を本山とする本山修験宗、醍醐三宝院を本山とする真言宗醍醐派、金峯山寺を本山とする金峯山修験本宗)が合同で大規模な法要(御遠忌(ごおんき))が開かれた。
8、小角伊豆に流罪される
文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。
「日本霊異記」などによると、葛城山系の岩橋山(標高659m)から吉野の金峯山の金剛蔵王権現に教えを受けに行くため、この間に石橋を架けるように葛城神社の祭神である「一言主命」に命じました。
しかし、一言主は顔が余りにも醜く、暗い夜しか働かないので、行者は怒って一言主を呪縛して深谷に押籠めてしまいました。
すると一言主は行者の弟子であった韓国連広足(からくにのむらじひろたり)を使って、朝廷に換言「役行者は世の人々を惑わし、謀反を企てている」と告げさせたのです。
また人々にも小角が鬼神を使役して水を汲ませ、薪を採らせていると噂を流しました。
(弟子の韓国連広足の換言については、韓国連広足が小角の能力を妬まれたためだとする話もあります)
そこで、文武天皇が役行者の母を人質に取ると、孝心の深い役行者は自分から出て来て捕縛され、伊豆に配流されました。
伊豆に流された小角ですが、毎日夜になると島から抜け出して富士山に登って修行したなどとの話しもあります。
9、小角の大赦
2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、老母の待つ芽原の郷に帰りますが、すぐに父母のご恩に報いるために大峰山に入り一千の塔婆を立てて供養をしたとの話もあります。
また、一言主が、小角が流布されただけではまだ身の危険を感じ、小角を処刑するように託宣した。
そこで朝廷は伊豆へ挙兵し、処刑を執行しようとしたのですが、そのとき刀の刃に「小角を赦免して崇めよ」という富士明神の言葉が現われたため、これに驚き、赦免したという話も伝わっています。
その後、同年6月7日に箕面山瀧安寺の奥の院の天上ヶ岳にて入寂したと伝わります(享年68)。
山頂には廟が建てられています。
別な説では、同じ6月7日に、 役行者は老母を連れ天上ヶ岳へ登り、「本覚円融の月は西域の雲に隠るるといえども、方便応化の影はなお東海の水にあり」との遺偈を残し、五色の雲に乗って母とともに天上に登っていったとか、唐の国に渡ったなどとも伝えられています。
また、一言主明神については唐へ飛び去る前に呪縛していったなどとも言われています。
10、各地に残された役行者の伝承
(1)、室生寺
女人高野として名高い奈良の室生寺は西暦680年にこの地に役小角が草庵を結んだのが始まりだと伝えられています。
ただ文献でわかるのは奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)に、東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のためにこの地で病気平癒・延寿の法を行ったところ「竜神」の力で回復したので、興福寺の僧・賢憬(けんけい)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。
現在の室生寺の東方、室生川に沿って1kmほど上流に竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があり、この神社が室生寺の竜神伝承に関係していると思われます。
この竜穴神社の創建の方が室生寺よりも古いとされ、室生寺は、この竜穴神社の神宮寺だという説もあります。このため、役行者の開山説は資料としてははっきりしていません。
(2)、鳥取県三仏寺(投入堂)と四国石鎚山

投入堂は、三徳山三仏寺の奥院の別名で、山の北側にそびえる断崖絶壁の岩場にしがみつくように建てられています。
本当にどうしてあんな場所に建てることが出来たのかとても不思議です。
三仏寺の本堂は山の麓にあり、そこまでは誰でもお参りすることはできます。
しかし、その上に立つこの投入堂はじめ、文殊堂と地蔵堂などは厳しい岩場を登らなければ近づくことが出来ません。
でも今ではある程度健脚の方なら服装や靴の準備さえしておけば然程難しいこともありません。
三仏寺の創建については、役小角が三枚の蓮の花びらを散らしたところ、それらの花びらの一つがここ伯耆(ほうき)国三徳山(標高899.9m)に落ちたため、706年にこの山を修験道の場として開き、この山に蔵王権現を祀ったとされています。
また他の蓮の花びらが落ちたとされる場所は吉野山と四国の石鎚山だとされ、共に蔵王権現が祀られており、石鎚山は山そのものが石鎚蔵王権現といわれています。

(蔵王権現立像 7躯)
上記の像は投入堂内に安置されていたものですが、現在は本堂近くに作られた宝物殿に安置されています。1168年の銘のあるものや、年輪年代推定で1025年といわれる像もあり、大変貴重なものといわれています。
(3)、大坂府高槻市の神峯山寺(かぶさんじ)
神峯山寺は日本で最初に毘沙門天が安置された霊場といわれており、本尊は秘仏の毘沙門天、双身毘沙門天(そうじんびしゃもんてん)、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)です。
「神峯山寺秘密縁起」によれば、697年に役小角が葛城山(金剛山)で修行をしていた時に、北方の山から黄金の光が発せられて霊感を受け、この地にやってきた。
そこで天童(金比羅飯綱大権現)と出会い、天童の霊木で4体の毘沙門天が刻まれ、役小角が伽藍を建立し毘沙門天を祀ったことが起源とされています。
また刻まれた残り3体の毘沙門天は天高く飛散し、1体はかつて神峯山寺奥之院「霊雲院」であった北山本山寺に、1体は京都市左京区の鞍馬寺に、1体は奈良県生駒郡平群町の信貴山に安置されたと伝わっています。
その後、神峯山寺は修験霊場として栄え、比叡山、比良山、伊吹山、愛宕山、金峰山、葛城山に並ぶ七高山の一角として大いに栄えたとされています。
(4)、愛知県岡崎市の滝山寺(たきさんじ)
滝山寺は鎌倉幕府ゆかりの寺で、運慶仏があることで知られ、1月7日頃に行われる奇祭として有名な鬼祭りがあります。
この寺も伝承(岡崎市史)によれば、役小角(えんのおづの)が、修行の為にこの近くを流れる青木川に入ったところ、瀧があり、その滝つぼに大きな龍が金色の仏像を守護していた。
行者はその仏像を袈裟に包んで引き上げたところ、金の薬師如来であった。
行者は時の朝廷に報告すると「鎮護国家の霊場を建てよ」と勅命が下り、自ら薬師如来をきざみ、その仏神に金色の薬師如来を納め、堂に安置したと書かれています。
この堂がこの滝山寺の前身であるという吉祥寺の始まりといわれています。
(5)、大坂の観心寺
観心寺には、日本の三大如意輪観音(観心寺、室生寺、神呪寺)の一つとされる国宝「如意輪観音菩薩像」が安置されています。
701年に役小角がここに「雲心寺」を建て、その後、平安時代の808年に空海(弘法大師)がこの寺に北斗七星を祀り、815年に自ら彫った如意輪観音像をこの寺に安置して寺の名前も、雲心寺から観心寺に改めたと伝えられている。
北斗七星を祀る寺は日本にはここしかなく、現在も7つの星塚が境内にある。
(6)、伊賀の里「赤目四十八滝」のいわれ
伊賀忍者がこの滝などで修業していたといわれ、現在「忍者修業の里」ともよばれており、忍者体験ができる「忍者の森」という施設なども存在します。
役行者(役小角)がこの滝で修業し、修行中に赤い眼の牛に乗った不動明王と出会ったという言い伝えがあり、「赤目」の名前の由来とも言われています。近くの弥勒寺に役行者の像が置かれています。
(7)役行者霊蹟(れいせき)札所
役小角(役行者)ゆかりの霊場巡礼36か寺
2001年の役行者1300年遠忌を機にして設立されました。
36寺は以下の通り。
吉野山:金峯山寺、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、善福寺、大日寺、東南院
その他吉野郡:大峯山寺、龍泉寺、菅生寺
奈良県御所市:吉祥草寺、転法輪寺(金剛山)
その他奈良県:千光寺(駒郡平群町)、宝山寺(生駒市)、霊山寺(奈良市)、松尾寺(大和郡山市山田町)、朝護孫子寺(生駒郡平群町)、室生寺(宇陀市)、大野寺(宇陀市)
大坂府:本山寺(高槻市)、神峯山寺(高槻市)、法楽寺(大阪市)、松尾寺(和泉市)、七宝瀧寺(泉佐野市)、弘川寺(河南町)、観心寺(河内長野市)、千手寺(東大阪市)、天龍院(東大阪市)、興法寺(東大阪市)
京都府:聖護院(京都市左京区)、醍醐寺(京都市伏見区)
その他:根来寺(和歌山県岩出市)、清荒神清澄寺(兵庫県宝塚市)、須磨寺(兵庫県神戸市、伊吹山寺(滋賀県米原市)
(8)東北地方の関係寺院
早池峰山・太平山・鳥海山・出羽三山・蔵王など数多くの山岳信仰の山に役小角の名前が出てきます。
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