歴史上の気になる人物(2)- 秦河勝(はたのかわかつ)
秦河勝は朝鮮半島より渡来した最大の渡来集団であるとされる秦氏(はたうじ)の出身とされ、飛鳥時代に聖徳太子の側近として京都太秦(うずまさ)に現在の広隆寺を建てた人物として知られますが、神楽、能狂言、歌舞伎などの芸能の元を創った人物とも言われています。ここでは数々の逸話などを含め今後の考察に必要な情報を集めてみました。
1、出生について
山背国(山城国)葛野(かどの)(現,京都市西部 太秦近郊)の秦氏の族長的地位にあったとされる秦丹照または秦国勝(丹照の弟)の子供とされています。
ただしこれらの系図は古いためあまり正確とは言えないようです。
河勝は秦氏の軍事力や経済力を背景にはやくから厩戸皇子(聖徳太子)の側近として活躍していったようです。
2、出生と名前の伝承
ある日、天皇(欽明天皇)は「私は秦の始皇帝の再誕である。
縁あって この国に生まれた」と名乗る子供と出会う夢を見た。
そしてその後で、初瀬川が氾濫した時に三輪大神(神社)の前に壺に入った一人の童子が流れ着いて、自ら「私は秦の始皇帝のうまれかわりである」と名乗ったという。
そこで、この童子を殿上に召しかかえ、童子に「秦」の姓(かばね)を与え、川の氾濫より助かったことから「河勝」と称したとされています。
ハタというのは古代朝鮮語で「大(おお)」とか「多(おお)」と同じ意味を持ち、古代日本の種族とされる大氏、多氏(オオ氏、オホ氏)などと通じるものがあります。
3、秦氏のルーツ
応神天皇の頃(5世紀前半?)に秦の始皇帝の子孫という「弓月君(ゆづきのきみ)」が朝鮮半島(百済)より渡来して日本に援軍を求めたという。
弓月君の仲間の多くがまだ朝鮮半島の加羅(から:古代朝鮮南部の国、日本では「韓」を「カラ」と呼び、朝鮮全体をさし、「唐」を「カラ」と呼んで中国全体を指すようになったとされる)に取り残されているという。
天皇は部下を派遣し、3年後にこれらの多くの人々(数千人)を日本に連れ帰ったと言われています。
そしてこの一族は朝廷につかえ、養蚕や、機織り、酒造り、土木の技術などを日本にもたらしました。
これが日本の秦氏のルーツとされています。
河勝は秦氏の族長的人物であったとみられています。
4、丁未の乱(ていびのらん)で物部守屋を討つ
用明天皇2年(587年)に発生した丁未の乱(仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋の争い)では厩戸皇子(聖徳太子)に従って、物部守屋(もののべのもりや)の追討戦に従軍し、守屋の首を斬ったという。
この戦いにより物部は衰退し、仏教が国内に浸透していったとされます。
厩戸皇子(聖徳太子)はこの戦いの時はまだ14才で、蘇我軍の後方にいた。
そして白膠木(ぬるで)の木で四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら四天王を安置する寺を建てる」と願掛けしたとされています。
そして戦いに勝ったため、大坂(摂津国)に四天王寺を建立(593年に建設開始)したとされています。
蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)の建立を始めたのはそれより少し前の588年頃と言われていますので、日本で最も古い寺院としては法興寺(飛鳥寺)だと言われます。
5、聖徳太子より仏像を賜る(広隆寺の建立)
推古天皇11年(603年)聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像(現・国宝第一号、通称:宝冠弥勒(ほうかんみろく)))を賜り、京都市北区付近に、蜂岡寺(はちおかでら)を建てそれを安置した(安置したのはもう少し後か?)と言われています。
蜂岡寺は現在の広隆寺で、その他に秦氏の氏寺であることから、秦寺(はたのでら)、秦公寺(はたのきみでら)、葛野寺(かどのでら)、太秦寺(うずまさでら)などとも呼ばれてきました。
現存する伽藍は平安末期以降の再建です。また現在の太秦に移ったのは794年の平安遷都の頃とも考えられていますが、記録は焼失(818年)していてわかりません。
太秦(うずまさ)の地名は「聖徳太子の太」と、「秦氏の秦」からとったものとも言われます。

広隆寺 国宝 弥勒菩薩像(半跏思惟像)
6、新羅からの使節を迎える
推古天皇18年(610年)新羅の使節を迎える導者の任に土部連菟(はじのむらじうさぎ)と共に当る。
7、常世の神を打ち負かす
皇極天皇3年(644年)7月に駿河国不尽河(富士川)のあたりで、大生部多(おおうべのおおし)という者が、長さ4寸(約12cm)ほどの虫(蚕と似ている)を指して、「これは常世の神である。この神を祭る人は、富と長寿が得られる」といい、また巫女たちも神のお告げとして「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」といったという。
そしてこの常世の神信仰が広まっていた。しかし、この虫を得ても何も利益は生まれず、損失を被る人々が増えていった。
そのため、秦河勝が大生部多を捕えて懲らしめると、巫女も恐れてこの祭りや騒ぎを勧めなくなった。
そして当時の歌に「太秦(うずまさ)は神とも神と聞えくる常世の神を打ちきたますも(常世の神を打ち負かしたのだから、太秦は神の中の神だ)」とうたわれたという。
8、河勝の最後
大避神社縁起によれば、皇極3年(644年)9月12日に蘇我入鹿の迫害を逃れて摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦(現在の兵庫県赤穂市坂越)へ漂着した。
河勝はこの地(赤穂)で千種川の開拓を進め、大化3年(647年)に亡くなったとされる。
そして、この大避神社に大避大明神として祀られている。(兵庫県赤穂市坂越で死亡説)
神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓(古墳)がある。また、大阪府寝屋川市にも秦河勝の墓と伝えられる五輪塔があるという。
その他に、京都市右京区西京極にはかつて川勝寺とよばれる寺があり、「秦河勝終焉之地」の碑があるそうです。

(大避神社の河勝の姿を模したともいわれる能楽面:鼻が高く西洋人顔といわれる)
9、申楽、能狂言、歌舞伎などの芸能の祖
世阿弥の『風姿花伝』に申楽(猿楽)の起源がかかれており、「上宮太子(聖徳太子)、末代のため、神楽なりしを、<神>といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。
是日暦の<申>なるがゆえに<申楽>と名づく」として、猿楽は本来神楽であり、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。
これは聖徳太子が天下泰平のために、神代や天竺の吉例に倣って六十六番の物真似を河勝に仰せられ、六十六番の御作の面を河勝に与えた。
そして紫宸殿(明日香の橘の内裏)で翁の舞いを舞わせたものが「申楽」のはじまりと伝えています。(金春禅竹(こんぱるぜんちく)の著『明宿(めいしゅく)集』)

(翁の舞 茨城県石岡市のじゃかもこじゃん)
広隆寺では10月には京都三大奇祭の一つという「太秦の牛祭り」が行われています。
三大奇祭はその他に「今宮のやすらい祭」、「鞍馬の火祭」が挙げられています。
この牛祭りは現在、毎年ではなく不定期に開催されています

この祭りは、夜暗くなってから、白い仮面をつけ牛にまたがった摩多羅神(まだらじん)が、同じく仮面をつけ松明を掲げた四天王(赤鬼・青鬼)を従えて境内を一周し、祖師堂(薬師堂)前で変わった口調で祭文を読み上げ、終わると同時に堂内に逃げ込んで祭りが終わりとなります。

摩多羅神は天台宗の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)の裏にひっそりと祭られている神様でほとんど公開されることはありません。
しかし能楽などの芸能の神様としても崇拝されています
上の写真の本は川村湊氏が書いた「闇の摩多羅神」という本の表紙ですが、これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵です。
不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子が描かれています。
この2童子は丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」と言い、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるといわれます。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったともいわれているのです。
10、キリスト教との関係
秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族(イスラエルの失われた10氏族の子孫)であったとする説があります。
11、稲荷社との関係
全国に稲荷神社は多数ありますが、その総本山となるのが伏見稲荷(大社)です。
この社の創建に渡来人の秦氏族がかかわっているといわれているようです。
伏見稲荷大社のHPの「伊奈利社創祀前史」に書かれている内容をまとめると、
(1)欽明天皇が幼少のころ「秦の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょう」という夢をみた。
早速方々へ使者を遣わされて探すと、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父という人物がいた。
そこで、この大津父を宮廷に呼んで話しを聞くと次のような話をした。
「伊勢のほうへ商いに行っての帰り道、山(稲荷山南麓の大亀谷)にさしかかったところ、二匹の“おおかみ”が血を出しながら争うのを見つけましたので、馬より降り、口をすすぎ、手を洗って『汝は貴い神であるため荒い事などを好まれるが、もし狩人が来たならばたやすくとらわれてしまうから争うのはおやめなさい』と血をぬぐって山へはなしてやったので、その“おおかみ”は二匹とも命を全うできました」
この話を聞いた天皇は夢に見た人だと確信して天皇に即位したときに、この秦の大津父を重責に登用した。
(2)稲荷大神の鎮座は、秦の伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日になったと伝えられている。
この秦の大津父との関係は?
1、出生について
山背国(山城国)葛野(かどの)(現,京都市西部 太秦近郊)の秦氏の族長的地位にあったとされる秦丹照または秦国勝(丹照の弟)の子供とされています。
ただしこれらの系図は古いためあまり正確とは言えないようです。
河勝は秦氏の軍事力や経済力を背景にはやくから厩戸皇子(聖徳太子)の側近として活躍していったようです。
2、出生と名前の伝承
ある日、天皇(欽明天皇)は「私は秦の始皇帝の再誕である。
縁あって この国に生まれた」と名乗る子供と出会う夢を見た。
そしてその後で、初瀬川が氾濫した時に三輪大神(神社)の前に壺に入った一人の童子が流れ着いて、自ら「私は秦の始皇帝のうまれかわりである」と名乗ったという。
そこで、この童子を殿上に召しかかえ、童子に「秦」の姓(かばね)を与え、川の氾濫より助かったことから「河勝」と称したとされています。
ハタというのは古代朝鮮語で「大(おお)」とか「多(おお)」と同じ意味を持ち、古代日本の種族とされる大氏、多氏(オオ氏、オホ氏)などと通じるものがあります。
3、秦氏のルーツ
応神天皇の頃(5世紀前半?)に秦の始皇帝の子孫という「弓月君(ゆづきのきみ)」が朝鮮半島(百済)より渡来して日本に援軍を求めたという。
弓月君の仲間の多くがまだ朝鮮半島の加羅(から:古代朝鮮南部の国、日本では「韓」を「カラ」と呼び、朝鮮全体をさし、「唐」を「カラ」と呼んで中国全体を指すようになったとされる)に取り残されているという。
天皇は部下を派遣し、3年後にこれらの多くの人々(数千人)を日本に連れ帰ったと言われています。
そしてこの一族は朝廷につかえ、養蚕や、機織り、酒造り、土木の技術などを日本にもたらしました。
これが日本の秦氏のルーツとされています。
河勝は秦氏の族長的人物であったとみられています。
4、丁未の乱(ていびのらん)で物部守屋を討つ
用明天皇2年(587年)に発生した丁未の乱(仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋の争い)では厩戸皇子(聖徳太子)に従って、物部守屋(もののべのもりや)の追討戦に従軍し、守屋の首を斬ったという。
この戦いにより物部は衰退し、仏教が国内に浸透していったとされます。
厩戸皇子(聖徳太子)はこの戦いの時はまだ14才で、蘇我軍の後方にいた。
そして白膠木(ぬるで)の木で四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら四天王を安置する寺を建てる」と願掛けしたとされています。
そして戦いに勝ったため、大坂(摂津国)に四天王寺を建立(593年に建設開始)したとされています。
蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)の建立を始めたのはそれより少し前の588年頃と言われていますので、日本で最も古い寺院としては法興寺(飛鳥寺)だと言われます。
5、聖徳太子より仏像を賜る(広隆寺の建立)
推古天皇11年(603年)聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像(現・国宝第一号、通称:宝冠弥勒(ほうかんみろく)))を賜り、京都市北区付近に、蜂岡寺(はちおかでら)を建てそれを安置した(安置したのはもう少し後か?)と言われています。
蜂岡寺は現在の広隆寺で、その他に秦氏の氏寺であることから、秦寺(はたのでら)、秦公寺(はたのきみでら)、葛野寺(かどのでら)、太秦寺(うずまさでら)などとも呼ばれてきました。
現存する伽藍は平安末期以降の再建です。また現在の太秦に移ったのは794年の平安遷都の頃とも考えられていますが、記録は焼失(818年)していてわかりません。
太秦(うずまさ)の地名は「聖徳太子の太」と、「秦氏の秦」からとったものとも言われます。

広隆寺 国宝 弥勒菩薩像(半跏思惟像)
6、新羅からの使節を迎える
推古天皇18年(610年)新羅の使節を迎える導者の任に土部連菟(はじのむらじうさぎ)と共に当る。
7、常世の神を打ち負かす
皇極天皇3年(644年)7月に駿河国不尽河(富士川)のあたりで、大生部多(おおうべのおおし)という者が、長さ4寸(約12cm)ほどの虫(蚕と似ている)を指して、「これは常世の神である。この神を祭る人は、富と長寿が得られる」といい、また巫女たちも神のお告げとして「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」といったという。
そしてこの常世の神信仰が広まっていた。しかし、この虫を得ても何も利益は生まれず、損失を被る人々が増えていった。
そのため、秦河勝が大生部多を捕えて懲らしめると、巫女も恐れてこの祭りや騒ぎを勧めなくなった。
そして当時の歌に「太秦(うずまさ)は神とも神と聞えくる常世の神を打ちきたますも(常世の神を打ち負かしたのだから、太秦は神の中の神だ)」とうたわれたという。
8、河勝の最後
大避神社縁起によれば、皇極3年(644年)9月12日に蘇我入鹿の迫害を逃れて摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦(現在の兵庫県赤穂市坂越)へ漂着した。
河勝はこの地(赤穂)で千種川の開拓を進め、大化3年(647年)に亡くなったとされる。
そして、この大避神社に大避大明神として祀られている。(兵庫県赤穂市坂越で死亡説)
神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓(古墳)がある。また、大阪府寝屋川市にも秦河勝の墓と伝えられる五輪塔があるという。
その他に、京都市右京区西京極にはかつて川勝寺とよばれる寺があり、「秦河勝終焉之地」の碑があるそうです。

(大避神社の河勝の姿を模したともいわれる能楽面:鼻が高く西洋人顔といわれる)
9、申楽、能狂言、歌舞伎などの芸能の祖
世阿弥の『風姿花伝』に申楽(猿楽)の起源がかかれており、「上宮太子(聖徳太子)、末代のため、神楽なりしを、<神>といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。
是日暦の<申>なるがゆえに<申楽>と名づく」として、猿楽は本来神楽であり、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。
これは聖徳太子が天下泰平のために、神代や天竺の吉例に倣って六十六番の物真似を河勝に仰せられ、六十六番の御作の面を河勝に与えた。
そして紫宸殿(明日香の橘の内裏)で翁の舞いを舞わせたものが「申楽」のはじまりと伝えています。(金春禅竹(こんぱるぜんちく)の著『明宿(めいしゅく)集』)

(翁の舞 茨城県石岡市のじゃかもこじゃん)
広隆寺では10月には京都三大奇祭の一つという「太秦の牛祭り」が行われています。
三大奇祭はその他に「今宮のやすらい祭」、「鞍馬の火祭」が挙げられています。
この牛祭りは現在、毎年ではなく不定期に開催されています

この祭りは、夜暗くなってから、白い仮面をつけ牛にまたがった摩多羅神(まだらじん)が、同じく仮面をつけ松明を掲げた四天王(赤鬼・青鬼)を従えて境内を一周し、祖師堂(薬師堂)前で変わった口調で祭文を読み上げ、終わると同時に堂内に逃げ込んで祭りが終わりとなります。

摩多羅神は天台宗の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)の裏にひっそりと祭られている神様でほとんど公開されることはありません。
しかし能楽などの芸能の神様としても崇拝されています
上の写真の本は川村湊氏が書いた「闇の摩多羅神」という本の表紙ですが、これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵です。
不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子が描かれています。
この2童子は丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」と言い、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるといわれます。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったともいわれているのです。
10、キリスト教との関係
秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族(イスラエルの失われた10氏族の子孫)であったとする説があります。
11、稲荷社との関係
全国に稲荷神社は多数ありますが、その総本山となるのが伏見稲荷(大社)です。
この社の創建に渡来人の秦氏族がかかわっているといわれているようです。
伏見稲荷大社のHPの「伊奈利社創祀前史」に書かれている内容をまとめると、
(1)欽明天皇が幼少のころ「秦の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょう」という夢をみた。
早速方々へ使者を遣わされて探すと、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父という人物がいた。
そこで、この大津父を宮廷に呼んで話しを聞くと次のような話をした。
「伊勢のほうへ商いに行っての帰り道、山(稲荷山南麓の大亀谷)にさしかかったところ、二匹の“おおかみ”が血を出しながら争うのを見つけましたので、馬より降り、口をすすぎ、手を洗って『汝は貴い神であるため荒い事などを好まれるが、もし狩人が来たならばたやすくとらわれてしまうから争うのはおやめなさい』と血をぬぐって山へはなしてやったので、その“おおかみ”は二匹とも命を全うできました」
この話を聞いた天皇は夢に見た人だと確信して天皇に即位したときに、この秦の大津父を重責に登用した。
(2)稲荷大神の鎮座は、秦の伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日になったと伝えられている。
この秦の大津父との関係は?
私も少し調べて面白くなり、次へのインスピレーションに役立ちしうなので記録に残しておこうとしているだけです。
阿弥陀も確かに似たのがあるそうですね。
> 扱い方のわからなかった聖徳太子が、秦氏に与えたのでしょうかね。
他の人手は扱えないので手を上げてもらったのでしょうね。
この像が魅力的で、学生がこの指先を折ってしまい盗み出したなんて話もあったようですね。
修学旅行で必ず好きな仏像のTOPに挙げられますね。
年齢を重ねるとまた仏像などを見にいろいろなところへ出かけたくなります。
稲荷神社の創建に古代大和豪族・秦氏の事が書かれていました。
色んな土地に言い伝えや説があって面白いですね!
あまり秦氏の事を知らなかったので、とても興味深かったです☆
秦野市は秦氏が住んだところだといわれていますね。
秦氏は各地で活躍したのですが、渡来人集団ということなのかはよくわかりませんが、
どこか隠れた存在になってしまったようですね。
(伏見)稲荷神社も秦氏の創建ともいわれるようです。
面白いですね。
こうして調べながら残しておけば次に調べる事柄が増え、次第に真実が見えてきたり・・・??
知識がなくとも今は便利ですよね。
ところでおもしろい話題ですね。聖徳太子の話で厩での生誕の話が景教との関係で語られることも多いようですね。それと秦ですが、イラン人と話していてササン朝ペルシャが7世紀に滅ぼされて、その前後でかなりシルクロードを通って逃げてきて日本まで来ているのではという事も聞きました。安禄山は(安という名前)は中国でイラン人につけられた名前で、8世紀で有名になった彼がでてくるくらいですから、イラン人(ペルシャ人)の移動もかなりあったのでしょう。
私のところはたいした被害はありませんでしたが、千葉の方に出かけて驚きました。
あちらこちら幹線道路も、コンビにも電気がついていない場所がかなりありました。
それでも銚子の先端のほうは意外に何事もなく、途中の方が大変でした。
やはり電気がないと生活は困りますね。東日本大震災で電気は1日、水が数日来ないだけでかなり困った思い出があります。
秦氏のルーツはたしかにシルクロードを通ってきたという話も読んだ記憶があります。
どこまでが真実かはわかりませんが、いつの間にか歴史から抹殺されてしまったようです。
藤原氏が台頭して歴史を塗り換えた? まあ、現在のどこかの国もこんなことを今もやっているのかもしれませんね。
いろいろ考えることは面白いです。秦氏の顔の面が東洋的であるようなのでイランあたりなのかもしれませんね。
鹿島神宮に保存されている悪路王(アテルイ)の面の顔も東洋的です。
どこか共通性があるのかも・・・・