歴史上の気になる人物(3)-泰澄(たいちょう)
泰澄(たいちょう)と十一面観音像
泰澄は、奈良時代の山岳修験僧で、加賀国(当時は越前国)の白山を開山した(白山信仰の祖)として知られ、越(こし)の大徳とよばれている人物です。
でも私はあまりよくこの人の生い立ちや何故白山を開山したのかなどが理解できていませんので、ここに調べてみたいと思います。 これはあくまでも私の私的な調べ物を参考のために残しておくものです。
泰澄の伝記や伝聞などを書いたものは多く存在しますが、泰澄が実在したかどうかについてもまだ確定されていないようです。
(生誕とその時代背景)
682年(または691年)に越前国の麻生津(あそうず)(現:福井市麻生津)にて三十八社町の役人(川守との説あり)の三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれる。父の三神安角は高句麗からきた渡来人で、母は白山の麓の勝山市の出身と言われています。
高句麗からの渡来人家系というのですが、当時越前には高句麗からの渡来人が多く来ていたのでしょうか。
歴史的な記述を見ると和紙の製法技術も中国で始まり朝鮮半島を経て日本に伝わったと言われており、日本書紀には推古天皇18年(610年)に高句麗の僧・曇徴が日本に伝えたと記されています。
しかしそれより前の6世紀初めに福井県今立町では和紙製作が行われていたとも言います。
現在でもこの地域は和紙の生産量は全国1位です。
この頃から越前地方と高句麗は人の往来があったのかもしれません。
また後に泰澄の弟子となった浄定(きよさだ)は出羽から船で米を運んでいた船頭であったと言われ、このころすでに日本海沿岸では船で農産物などが運ばれていたようです。
その当時の朝鮮半島の歴史を調べてみましょう。朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の三国時代がしばらく続きましたが、西暦660年にまず百済が唐に滅ぼされました。
しかし百済は建てなおそうと日本にも支援を要請。
663年に日本・百済連合軍が白村江で唐と戦いますが破れてしまいました。
そして、大量の百済の人々(位の高い人)が日本にやってきました。
その後、唐は新羅と組んで高句麗を攻め、高句麗も668年に滅亡し、こちらも日本に逃れてきた人が多くいました。
朝鮮半島ではこの後、新羅が半島を統一して西暦900年まで続きました。
また、泰澄が682年の生まれとすると、奈良の行基(ぎょうき)より14歳年下となります。
(14歳で越知山に登り修業を始める)
14歳の頃から、夢のお告げを受け、夜中に起きて越知山(おちさん:612.8m)の洞窟へと行くようになり、次第に山に籠るようになりました。
山では十一面観音を念じて修業を続けたとされます。
越智山は福井県の海側に近い山ですが、古くから白山、日野山、文殊山、蔵王山とともに越前五山の一つに数えられ、泰澄が修業した場所であることから北陸最古の修験霊場(神仏混合の山岳霊場)といわれ、現在山頂付近には越知大権現(明治以降は越知神社)があります。
この社は718年に泰澄が仏像を作り、越知山頂に社堂を建て「越知山三所大権現(十一面観音菩薩・阿弥陀如来・聖観音菩薩)」を祀ったのが始まりと言われています。
(702年21歳 文武(もんむ)天皇から法師に任じられ、豊原寺を建立する)
大宝二年(702)に越知山の泰澄のもとに、文武天皇より勅旨として大伴安麻呂(やすまろ)が遣わされ「越の大徳」鎮護国家法師に任命されました。
泰澄は越知山から弟子の能登七尾生まれの行者「臥行者(ふせりのぎょうじゃ)」(小沙弥)を伴って豊原(福井県丸岡)へ移り豊原寺(とよはらじ)を建立し、自ら刻んだ十一面観音を刻んで本尊とし、その後、白山三所権現なども祀って、「豊原八社権現」といわれるようになった。豊原寺はその後白山信仰の拠点の寺の一つとして室町時代に栄え、豊原三千坊と言われるほどの僧兵を擁する寺となりました。
しかし、戦国時代末期には一向一揆などの襲撃(1531年)もあり、1575年に織田信長によりほとんどすべてが焼き払われてしまいました。
江戸時代には家康の傍にいた天海大僧正(天台宗)により擁護され復興しますが、明治維新になり廃仏毀釈で寺は無くなってしまいました。
山の上にあった仏像などは山を下り、麓で何とか保護され一部が残されています。
(717年 白山に登り妙理大菩薩(十一面観音)を感得し、平泉寺を建立する)
養老元年(717)4月1日、母のゆかりの地である白山の麓の大野隈、苔川東の伊野原に行き、そこで白山神と見られる女神から東の林泉に来るように夢のお告げがあった。そしてそれに従い、林泉に来て祈念しているとその女神が現れ、自分は伊弉諾尊(いざなみのみこと)の化身で妙理大権現であると言った。
さらに白山の頂上に登ると、緑碧池(翠ヶ池)のそばに九頭龍王が表れ、続いて白山神の本地仏である十一面観音が現れた。
また左弧峰で聖観音の現身である小白山別山大行事、右弧峰で阿弥陀の現身である大己貴を感得したという。
<白山三社権現>
・白山妙理権現 【十一面観音菩薩】
・大行事権現(菊理媛神(くすりひめのかみ)【聖観音菩薩】
(別名 白山比咩神:しらやまひめのかみ)
・大汝権現(大己貴命:おおなむち)【阿弥陀如来】
【 】内は本地垂迹思想によるもので、日本の神々は仏が化身して現れたもの(権現)とされる。
白山を開いてからは越前国を離れ、日本各地をまわり、仏教の布教活動を行っていきます。
(722年41歳 元正天皇の病気を祈祷で平癒する)
養老6年(722年)に元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜った。
(725年44歳 行基と白山で出会う)
7月に白山妙理大権現に参詣した行基と出会い極楽での再会を誓ったという伝承がある。
(736年55歳 唐から帰国した僧・玄肪より「十一面神呪心経」を伝授される)
「十一面神呪心経」は玄奘三蔵が訳し、それを玄肪が日本に持ち帰ったもの。
(737年56歳 疱瘡(ほうそう)の流行を収束させる)
天平9年(737年)に当時流行して大変困っていた疱瘡(ほうそう)の流行を収束させたことから、聖武天皇より「大和尚」の位を受け、「泰證」という名前を賜わりますが、この名前を、父を慕い「泰澄」と改めたいと申し出て許可されました。
この時から「泰澄」の名となりました。
(758年77歳 越知山に帰り山に籠る)
泰澄は隠居を決め、越知山に帰り大谷仙窟に篭る。
(767年86歳 死去)
一万基の三重木塔を勧進造立し(人々に与え)、3月18日に結跏趺坐し、大日の定印を結んで入定遷化した。
泰澄の伝記について細かく書かれたのは泰澄の死後200年ほど後の事です。
そのため、どこまでが事実であるかはよくわかりません。
室町時代になり、観音信仰や白山信仰が広まり、泰澄についてもいろいろな伝説が作られたとも考えられます。
<比叡山と白山>
泰澄は飛鳥時代に生れ、奈良時代に活躍した人ですが、修験道の祖といわれる役小角(えんのおづぬ)は亡くなったのが701年と言われていますので飛鳥時代に活躍した人物です。
役小角が亡くなったのは泰澄がまだ20歳くらいでした。
役小角が開いたのは主に奈良県吉野山であり、山岳信仰と仏教を融合させた日本における修験道の神として「蔵王権現」を祀りました。一方こちらの泰澄(たいちょう)は備前の白山にて白山三社権現を祀っています。
その中心となるのが十一面観音の化身とされる「白山妙理権現」です。
何故奈良の都から遠い白山なのでしょうか?
私が泰澄を調べ始めるきっかけとなったのは、琵琶湖の北東にある木ノ本駅周辺の十一面観音像の存在でした。
ここは「長浜観音の里」として知られる地で、現在も地元の方々によって十一面観音像が多く保存され、観音信仰が今も続いています。
この地には標高923mの己高山(こだかみやま)があり、ここには昔から多くの寺が点在していました。
ここに残された石道寺(しゃくどうじ)や鶏足寺(けいそくじ)の収納庫である己高閣・世代閣(ここうかく・よしろかく)などにたくさんの観音像が残されているのですが、この地の歴史をひも解いてみると、己高山(こだかみやま)に726年頃に行基(ぎょうき)僧正や泰澄(たいちょう)大師によって、たくさんのお堂や修験者の道場が建てられたといわれています。
これを805年に比叡山天台宗の祖といわれる最澄(さいちょう)が寺の建物などを再興して、ここに一大山岳仏教圏が形成され、観音寺・法華寺・石道寺・満願寺・安楽寺・松尾寺・円満寺の己高山七寺及び、観音寺の別院として飯福寺、鶏足寺、などがあったとされています。

この己高山と白山を繋ぐ直線を引いてみるとこの線上に天台宗の総本山のある比叡山や京都御所があり、さらに延長すると長岡京跡を通ります。
長岡京には平安遷都前の784年~794年に都が一時置かれたと見られています。
京都方面からみて、比叡山、己高山、白山は皆、東北にあたり、鬼門の方向なのです。
これが白山に霊場が開かれた理由なのでしょうか。
そして十一面観音が祀られた理由なのかもしれません。
泰澄などの山岳修行僧が唱えた思想は、当時病気に苦しんでいた人々を救うといった現世のご利益などを願ったものでした。
その観音信仰が都を中心に全国に広まって行ったのは奈良時代の中ごろからだと思われます。
そして平安時代になると浄土思想が入り、次第に来世のご利益を願うようになったものなのだと思われます。
比叡山延暦寺を開いたのは806年に唐から帰国した最澄です。
また比叡山の日吉山王神社に祀られる神(七社)の一つに白山社が加わったのは真言密教の宗叡(しゅうえい)により858年に移されました。
宗叡はその後862年~865年唐に渡っています。
そして白山寺白山本宮(加賀)、長滝寺白山中宮(美濃)、平泉寺白山中宮(越前)など白山の社寺が比叡山の末社となったのが1147年です。
このように比叡山と白山の関係は古くから続いて来たようです。
<十一面観音像>
頭に11個の顔を持つ十一面観音ですが、千手観音などと同じく顔が周りをぐるっと見渡すことができるので、多くの人を救うことができると言われています。
十一面は一般的には、東・西・南・北と東南・南西・西北・北東の四方八方に、天・地の二方を加えた十方と本面を加えて十一面(全宇宙を見渡せる)ですが、一段高くなったところに如来面がありますので十二面あります。

わが国で最も古いと言われるこの種の観音像は、養老三年(719)年頃に唐から請来した奈良法隆寺にある「九面観音菩薩像」(国宝)でしょう。
この像の製作年代はわかっていませんが、一説では5世紀半ば~後半頃とも言われています。

(法隆寺九面観音菩薩像 国宝 像高:38cm、白檀の一木造り)
十一面観音像として有名なのは奈良聖林寺と法華寺の像ではないでしょうか。
和辻哲郎が「古寺巡礼」の本の中で絶賛していたのを読んで、聖林寺を訪れたのはもう50年も前です。参拝者一人の私のためにコンクリートの収納庫の扉を開けてくださいました。


この聖林寺の十一面観音像は奈良時代の中ごろに三輪山の神宮寺・大御輪寺の本尊として祀られていた像であったと言われ、明治の廃仏毀釈で野に打ち捨てられていたのをこの聖林寺で拾い上げられて保存されるようになったなどと言われてきました。
しかし、打ち捨てられたというのは少し違っていたようで、廃仏毀釈の際にこちらに移されたというのが正解のようです。
さてもう一つの法華寺の像はこの寺を建立した光明皇后の姿を模したとも言われており、女性的だ。


制作されたのは平安時代の9世紀前半と見られています。
さて、平安時代に多くの十一面観音像が制作され、現在も地元の方々により信仰され、大切に保存されている地域がある。
それが、比叡山と白山の中間にあたる琵琶湖の北東湖岸近くにある「己高山(こだかみやま)」周辺の長浜地区です。
「長浜観音の里」として注目を浴びているが、ここを代表する十一面観音像を少し紹介したい。
先ずは、渡岸寺観音堂(向源寺)の像を紹介しよう。
この像を見ると少し十一面観音像の持つイメージが変わるように思う。

この像は平安時代末期の12世紀頃の制作と見られ、どこかエキゾチックな顔立ちで正面から見ると素晴らしい慈悲深い観音様像と思われます。
しかし、背面の首の後ろ辺りに背後を向いた「暴悪大笑相」の顔は何とも不気味です。
一般の十一面観音にもこの暴悪大笑相像はあるのですが、拝観できるところは少なく、また隠れたりして良く見られない場合が多いのです。
それが、この渡岸寺観音堂では後ろ側も良く拝観できます。

どこか不気味な笑みを浮かべた顔です。
都から見て鬼門の方向(東北)を向いて都を守る(護国の)役割を担っていたでしょうか。
その他、ここ長浜観音の里には興味深い像がたくさんあります。
井上靖が小説「星と祭」(1972発売)にこの地域の十一面観音めぐりが紹介されています。
大雑把なあらすじは、「貿易会社社長の架山はある日、愛していた17歳の娘の突然の悲報に接します。
娘は年上の青年と二人で琵琶湖に漕ぎ出したボートが転覆し遭難してしまったのです。
しかも2人とも死体は見つからず行方不明のままのため、架山は娘の葬儀もできず、死を受け入れる気持ちにもなれませんでした。
そうした中、娘の死んだ琵琶湖には近づくことが出来ずに7年が経過しました。
そして同じボートに乗って遭難した青年の父親から琵琶湖周辺の十一面観音めぐりに誘われ、これに参加してみたのです。
そしてこの地方に安置されている十一面観音像に触れていくうちに、次第にこの仏像たちがいままで置かれてきた環境や、これらをずっと守り続けている村人たちの想いが胸にこみ上げるようになってきます。
しかし、まだ娘の死を心の奥底では受け入れられませんでした。
そうした中、友人からヒマラヤの麓「タンボチェ」への旅とそこに浮かぶ月を見る旅に誘われ、ヒマラヤを訪れました。ヒマラヤの過酷な環境で生活する人々の暮らしに接し、人の一生の暮らしをこえた人々の生き様に、ようやく娘の死を自分の心の中で受け入れられてきました。
日本に戻った架山は一緒になくなった青年の父親と満月の夜に琵琶湖に浮かぶ船の中で、娘とその青年のお別れの葬儀を行うのです。」
この小説の中で、この己高山近辺の石道寺(しゃくどうじ)を主人公が訪れます。
そしてそこで接した十一面観音像について、「うっすらと紅をさしたような観音さまの唇、優しいまなざしなどを見て、この像は素朴で優しくて、惚れ惚れするような魅力をもっておられる。野の匂いがぷんぷんするような・・・・。この十一面観音様は、村の娘さんの姿をお借りになってここに立っている・・・」と書いています。

石道寺 十一面観音立像【重文】(平安後期11世紀頃の作 像高173.2cm)
石道寺は川沿いにあり小さなお堂が一つあるだけの寺(無住)です。このお堂の中の厨子に三体の仏像(十一面観音像)と厨子の外側に多聞天と持国天の2体の像が安置されています。この中心の十一面観音像が井上靖の書いた村娘を想ったという像です。
唇に残されたひとすじの紅がとても印象的で、ふくよかな顔つきは、いかにも若い娘の素朴さを感じる観音様です。
応永14年(1407)、天台宗の法眼春全によって記された『己高山縁起』(鶏足寺蔵)によると、「この山は近江国の鬼門にあたり、いにしえより修行場であった。そこへ行基(668~749 )が訪れて仏像を刻んで寺を建て、また泰澄(682~767 )が修行場としたといい、のちに最澄(766~822)が訪れ”白山白翁”と名乗る老人の勧めによって再興した。」とあります。古代より霊山と崇められてきた己高山は、交通の要衡にもあたることから、奈良時代には中央仏教と並んで北陸白山十一面観音信仰の流入があり、さらに平安期に至っては比叡山天台勢力の影響を強く受け、これらの習合文化圏として観音信仰を基調とする独自の仏教文化が構築されたのです。
明治維新となり廃仏毀釈の嵐により、神仏習合の山岳信仰は大きな変革を迫られました。寺としての建物・仏像などが壊されてしまったのです。
白山においても同様でした。寺の要素が廃され、山上の社にあった多くの仏像は廃棄・破壊されたのです。しかしなんとか一部の仏像が山の下に運び出されました。
それが白山下山仏です。麓の白山市林西寺にはこれらの仏像が残され、下山仏として安置され拝観することができます。

泰澄は、奈良時代の山岳修験僧で、加賀国(当時は越前国)の白山を開山した(白山信仰の祖)として知られ、越(こし)の大徳とよばれている人物です。
でも私はあまりよくこの人の生い立ちや何故白山を開山したのかなどが理解できていませんので、ここに調べてみたいと思います。 これはあくまでも私の私的な調べ物を参考のために残しておくものです。
泰澄の伝記や伝聞などを書いたものは多く存在しますが、泰澄が実在したかどうかについてもまだ確定されていないようです。
(生誕とその時代背景)
682年(または691年)に越前国の麻生津(あそうず)(現:福井市麻生津)にて三十八社町の役人(川守との説あり)の三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれる。父の三神安角は高句麗からきた渡来人で、母は白山の麓の勝山市の出身と言われています。
高句麗からの渡来人家系というのですが、当時越前には高句麗からの渡来人が多く来ていたのでしょうか。
歴史的な記述を見ると和紙の製法技術も中国で始まり朝鮮半島を経て日本に伝わったと言われており、日本書紀には推古天皇18年(610年)に高句麗の僧・曇徴が日本に伝えたと記されています。
しかしそれより前の6世紀初めに福井県今立町では和紙製作が行われていたとも言います。
現在でもこの地域は和紙の生産量は全国1位です。
この頃から越前地方と高句麗は人の往来があったのかもしれません。
また後に泰澄の弟子となった浄定(きよさだ)は出羽から船で米を運んでいた船頭であったと言われ、このころすでに日本海沿岸では船で農産物などが運ばれていたようです。
その当時の朝鮮半島の歴史を調べてみましょう。朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の三国時代がしばらく続きましたが、西暦660年にまず百済が唐に滅ぼされました。
しかし百済は建てなおそうと日本にも支援を要請。
663年に日本・百済連合軍が白村江で唐と戦いますが破れてしまいました。
そして、大量の百済の人々(位の高い人)が日本にやってきました。
その後、唐は新羅と組んで高句麗を攻め、高句麗も668年に滅亡し、こちらも日本に逃れてきた人が多くいました。
朝鮮半島ではこの後、新羅が半島を統一して西暦900年まで続きました。
また、泰澄が682年の生まれとすると、奈良の行基(ぎょうき)より14歳年下となります。
(14歳で越知山に登り修業を始める)
14歳の頃から、夢のお告げを受け、夜中に起きて越知山(おちさん:612.8m)の洞窟へと行くようになり、次第に山に籠るようになりました。
山では十一面観音を念じて修業を続けたとされます。
越智山は福井県の海側に近い山ですが、古くから白山、日野山、文殊山、蔵王山とともに越前五山の一つに数えられ、泰澄が修業した場所であることから北陸最古の修験霊場(神仏混合の山岳霊場)といわれ、現在山頂付近には越知大権現(明治以降は越知神社)があります。
この社は718年に泰澄が仏像を作り、越知山頂に社堂を建て「越知山三所大権現(十一面観音菩薩・阿弥陀如来・聖観音菩薩)」を祀ったのが始まりと言われています。
(702年21歳 文武(もんむ)天皇から法師に任じられ、豊原寺を建立する)
大宝二年(702)に越知山の泰澄のもとに、文武天皇より勅旨として大伴安麻呂(やすまろ)が遣わされ「越の大徳」鎮護国家法師に任命されました。
泰澄は越知山から弟子の能登七尾生まれの行者「臥行者(ふせりのぎょうじゃ)」(小沙弥)を伴って豊原(福井県丸岡)へ移り豊原寺(とよはらじ)を建立し、自ら刻んだ十一面観音を刻んで本尊とし、その後、白山三所権現なども祀って、「豊原八社権現」といわれるようになった。豊原寺はその後白山信仰の拠点の寺の一つとして室町時代に栄え、豊原三千坊と言われるほどの僧兵を擁する寺となりました。
しかし、戦国時代末期には一向一揆などの襲撃(1531年)もあり、1575年に織田信長によりほとんどすべてが焼き払われてしまいました。
江戸時代には家康の傍にいた天海大僧正(天台宗)により擁護され復興しますが、明治維新になり廃仏毀釈で寺は無くなってしまいました。
山の上にあった仏像などは山を下り、麓で何とか保護され一部が残されています。
(717年 白山に登り妙理大菩薩(十一面観音)を感得し、平泉寺を建立する)
養老元年(717)4月1日、母のゆかりの地である白山の麓の大野隈、苔川東の伊野原に行き、そこで白山神と見られる女神から東の林泉に来るように夢のお告げがあった。そしてそれに従い、林泉に来て祈念しているとその女神が現れ、自分は伊弉諾尊(いざなみのみこと)の化身で妙理大権現であると言った。
さらに白山の頂上に登ると、緑碧池(翠ヶ池)のそばに九頭龍王が表れ、続いて白山神の本地仏である十一面観音が現れた。
また左弧峰で聖観音の現身である小白山別山大行事、右弧峰で阿弥陀の現身である大己貴を感得したという。
<白山三社権現>
・白山妙理権現 【十一面観音菩薩】
・大行事権現(菊理媛神(くすりひめのかみ)【聖観音菩薩】
(別名 白山比咩神:しらやまひめのかみ)
・大汝権現(大己貴命:おおなむち)【阿弥陀如来】
【 】内は本地垂迹思想によるもので、日本の神々は仏が化身して現れたもの(権現)とされる。
白山を開いてからは越前国を離れ、日本各地をまわり、仏教の布教活動を行っていきます。
(722年41歳 元正天皇の病気を祈祷で平癒する)
養老6年(722年)に元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜った。
(725年44歳 行基と白山で出会う)
7月に白山妙理大権現に参詣した行基と出会い極楽での再会を誓ったという伝承がある。
(736年55歳 唐から帰国した僧・玄肪より「十一面神呪心経」を伝授される)
「十一面神呪心経」は玄奘三蔵が訳し、それを玄肪が日本に持ち帰ったもの。
(737年56歳 疱瘡(ほうそう)の流行を収束させる)
天平9年(737年)に当時流行して大変困っていた疱瘡(ほうそう)の流行を収束させたことから、聖武天皇より「大和尚」の位を受け、「泰證」という名前を賜わりますが、この名前を、父を慕い「泰澄」と改めたいと申し出て許可されました。
この時から「泰澄」の名となりました。
(758年77歳 越知山に帰り山に籠る)
泰澄は隠居を決め、越知山に帰り大谷仙窟に篭る。
(767年86歳 死去)
一万基の三重木塔を勧進造立し(人々に与え)、3月18日に結跏趺坐し、大日の定印を結んで入定遷化した。
泰澄の伝記について細かく書かれたのは泰澄の死後200年ほど後の事です。
そのため、どこまでが事実であるかはよくわかりません。
室町時代になり、観音信仰や白山信仰が広まり、泰澄についてもいろいろな伝説が作られたとも考えられます。
<比叡山と白山>
泰澄は飛鳥時代に生れ、奈良時代に活躍した人ですが、修験道の祖といわれる役小角(えんのおづぬ)は亡くなったのが701年と言われていますので飛鳥時代に活躍した人物です。
役小角が亡くなったのは泰澄がまだ20歳くらいでした。
役小角が開いたのは主に奈良県吉野山であり、山岳信仰と仏教を融合させた日本における修験道の神として「蔵王権現」を祀りました。一方こちらの泰澄(たいちょう)は備前の白山にて白山三社権現を祀っています。
その中心となるのが十一面観音の化身とされる「白山妙理権現」です。
何故奈良の都から遠い白山なのでしょうか?
私が泰澄を調べ始めるきっかけとなったのは、琵琶湖の北東にある木ノ本駅周辺の十一面観音像の存在でした。
ここは「長浜観音の里」として知られる地で、現在も地元の方々によって十一面観音像が多く保存され、観音信仰が今も続いています。
この地には標高923mの己高山(こだかみやま)があり、ここには昔から多くの寺が点在していました。
ここに残された石道寺(しゃくどうじ)や鶏足寺(けいそくじ)の収納庫である己高閣・世代閣(ここうかく・よしろかく)などにたくさんの観音像が残されているのですが、この地の歴史をひも解いてみると、己高山(こだかみやま)に726年頃に行基(ぎょうき)僧正や泰澄(たいちょう)大師によって、たくさんのお堂や修験者の道場が建てられたといわれています。
これを805年に比叡山天台宗の祖といわれる最澄(さいちょう)が寺の建物などを再興して、ここに一大山岳仏教圏が形成され、観音寺・法華寺・石道寺・満願寺・安楽寺・松尾寺・円満寺の己高山七寺及び、観音寺の別院として飯福寺、鶏足寺、などがあったとされています。

この己高山と白山を繋ぐ直線を引いてみるとこの線上に天台宗の総本山のある比叡山や京都御所があり、さらに延長すると長岡京跡を通ります。
長岡京には平安遷都前の784年~794年に都が一時置かれたと見られています。
京都方面からみて、比叡山、己高山、白山は皆、東北にあたり、鬼門の方向なのです。
これが白山に霊場が開かれた理由なのでしょうか。
そして十一面観音が祀られた理由なのかもしれません。
泰澄などの山岳修行僧が唱えた思想は、当時病気に苦しんでいた人々を救うといった現世のご利益などを願ったものでした。
その観音信仰が都を中心に全国に広まって行ったのは奈良時代の中ごろからだと思われます。
そして平安時代になると浄土思想が入り、次第に来世のご利益を願うようになったものなのだと思われます。
比叡山延暦寺を開いたのは806年に唐から帰国した最澄です。
また比叡山の日吉山王神社に祀られる神(七社)の一つに白山社が加わったのは真言密教の宗叡(しゅうえい)により858年に移されました。
宗叡はその後862年~865年唐に渡っています。
そして白山寺白山本宮(加賀)、長滝寺白山中宮(美濃)、平泉寺白山中宮(越前)など白山の社寺が比叡山の末社となったのが1147年です。
このように比叡山と白山の関係は古くから続いて来たようです。
<十一面観音像>
頭に11個の顔を持つ十一面観音ですが、千手観音などと同じく顔が周りをぐるっと見渡すことができるので、多くの人を救うことができると言われています。
十一面は一般的には、東・西・南・北と東南・南西・西北・北東の四方八方に、天・地の二方を加えた十方と本面を加えて十一面(全宇宙を見渡せる)ですが、一段高くなったところに如来面がありますので十二面あります。

わが国で最も古いと言われるこの種の観音像は、養老三年(719)年頃に唐から請来した奈良法隆寺にある「九面観音菩薩像」(国宝)でしょう。
この像の製作年代はわかっていませんが、一説では5世紀半ば~後半頃とも言われています。

(法隆寺九面観音菩薩像 国宝 像高:38cm、白檀の一木造り)
十一面観音像として有名なのは奈良聖林寺と法華寺の像ではないでしょうか。
和辻哲郎が「古寺巡礼」の本の中で絶賛していたのを読んで、聖林寺を訪れたのはもう50年も前です。参拝者一人の私のためにコンクリートの収納庫の扉を開けてくださいました。


この聖林寺の十一面観音像は奈良時代の中ごろに三輪山の神宮寺・大御輪寺の本尊として祀られていた像であったと言われ、明治の廃仏毀釈で野に打ち捨てられていたのをこの聖林寺で拾い上げられて保存されるようになったなどと言われてきました。
しかし、打ち捨てられたというのは少し違っていたようで、廃仏毀釈の際にこちらに移されたというのが正解のようです。
さてもう一つの法華寺の像はこの寺を建立した光明皇后の姿を模したとも言われており、女性的だ。


制作されたのは平安時代の9世紀前半と見られています。
さて、平安時代に多くの十一面観音像が制作され、現在も地元の方々により信仰され、大切に保存されている地域がある。
それが、比叡山と白山の中間にあたる琵琶湖の北東湖岸近くにある「己高山(こだかみやま)」周辺の長浜地区です。
「長浜観音の里」として注目を浴びているが、ここを代表する十一面観音像を少し紹介したい。
先ずは、渡岸寺観音堂(向源寺)の像を紹介しよう。
この像を見ると少し十一面観音像の持つイメージが変わるように思う。

この像は平安時代末期の12世紀頃の制作と見られ、どこかエキゾチックな顔立ちで正面から見ると素晴らしい慈悲深い観音様像と思われます。
しかし、背面の首の後ろ辺りに背後を向いた「暴悪大笑相」の顔は何とも不気味です。
一般の十一面観音にもこの暴悪大笑相像はあるのですが、拝観できるところは少なく、また隠れたりして良く見られない場合が多いのです。
それが、この渡岸寺観音堂では後ろ側も良く拝観できます。

どこか不気味な笑みを浮かべた顔です。
都から見て鬼門の方向(東北)を向いて都を守る(護国の)役割を担っていたでしょうか。
その他、ここ長浜観音の里には興味深い像がたくさんあります。
井上靖が小説「星と祭」(1972発売)にこの地域の十一面観音めぐりが紹介されています。
大雑把なあらすじは、「貿易会社社長の架山はある日、愛していた17歳の娘の突然の悲報に接します。
娘は年上の青年と二人で琵琶湖に漕ぎ出したボートが転覆し遭難してしまったのです。
しかも2人とも死体は見つからず行方不明のままのため、架山は娘の葬儀もできず、死を受け入れる気持ちにもなれませんでした。
そうした中、娘の死んだ琵琶湖には近づくことが出来ずに7年が経過しました。
そして同じボートに乗って遭難した青年の父親から琵琶湖周辺の十一面観音めぐりに誘われ、これに参加してみたのです。
そしてこの地方に安置されている十一面観音像に触れていくうちに、次第にこの仏像たちがいままで置かれてきた環境や、これらをずっと守り続けている村人たちの想いが胸にこみ上げるようになってきます。
しかし、まだ娘の死を心の奥底では受け入れられませんでした。
そうした中、友人からヒマラヤの麓「タンボチェ」への旅とそこに浮かぶ月を見る旅に誘われ、ヒマラヤを訪れました。ヒマラヤの過酷な環境で生活する人々の暮らしに接し、人の一生の暮らしをこえた人々の生き様に、ようやく娘の死を自分の心の中で受け入れられてきました。
日本に戻った架山は一緒になくなった青年の父親と満月の夜に琵琶湖に浮かぶ船の中で、娘とその青年のお別れの葬儀を行うのです。」
この小説の中で、この己高山近辺の石道寺(しゃくどうじ)を主人公が訪れます。
そしてそこで接した十一面観音像について、「うっすらと紅をさしたような観音さまの唇、優しいまなざしなどを見て、この像は素朴で優しくて、惚れ惚れするような魅力をもっておられる。野の匂いがぷんぷんするような・・・・。この十一面観音様は、村の娘さんの姿をお借りになってここに立っている・・・」と書いています。

石道寺 十一面観音立像【重文】(平安後期11世紀頃の作 像高173.2cm)
石道寺は川沿いにあり小さなお堂が一つあるだけの寺(無住)です。このお堂の中の厨子に三体の仏像(十一面観音像)と厨子の外側に多聞天と持国天の2体の像が安置されています。この中心の十一面観音像が井上靖の書いた村娘を想ったという像です。
唇に残されたひとすじの紅がとても印象的で、ふくよかな顔つきは、いかにも若い娘の素朴さを感じる観音様です。
応永14年(1407)、天台宗の法眼春全によって記された『己高山縁起』(鶏足寺蔵)によると、「この山は近江国の鬼門にあたり、いにしえより修行場であった。そこへ行基(668~749 )が訪れて仏像を刻んで寺を建て、また泰澄(682~767 )が修行場としたといい、のちに最澄(766~822)が訪れ”白山白翁”と名乗る老人の勧めによって再興した。」とあります。古代より霊山と崇められてきた己高山は、交通の要衡にもあたることから、奈良時代には中央仏教と並んで北陸白山十一面観音信仰の流入があり、さらに平安期に至っては比叡山天台勢力の影響を強く受け、これらの習合文化圏として観音信仰を基調とする独自の仏教文化が構築されたのです。
明治維新となり廃仏毀釈の嵐により、神仏習合の山岳信仰は大きな変革を迫られました。寺としての建物・仏像などが壊されてしまったのです。
白山においても同様でした。寺の要素が廃され、山上の社にあった多くの仏像は廃棄・破壊されたのです。しかしなんとか一部の仏像が山の下に運び出されました。
それが白山下山仏です。麓の白山市林西寺にはこれらの仏像が残され、下山仏として安置され拝観することができます。


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