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鎌倉街道と呼ばれる道(1/2)

 かすみがうら市の北東部の東野寺と西野寺の間を通る街道は、昔から鎌倉街道と呼ばれていたといわれています。
日本各地に鎌倉時代に鎌倉を目指す街道に「鎌倉街道」と名付けた通りがたくさん残されています。

その中で、この石岡が常陸國の国府であった頃に国府と奈良などを結ぶ街道があったはずですが、あまりよく解説されている資料などは見かけません。

石岡に国府がおかれたのはいつ頃からでしょうか?
奈良時代始めに国分寺や国分尼寺が建てられ、またその北側に東北蝦夷への武器製造工場として「鹿の子遺跡」の建物群が建てられたのです。

ただもう少し前の飛鳥時代ころに石岡には茨城廃寺がありました。
人の出入りもあったはずです。
遠く奈良地方(畿内)からこの石岡の地には、どのルートを通ってやってきていたのでしょうか?

奈良時代になって道は整備し始められ、幅の広い道が作られたといわれています。
しかし、それが完成したかどうかも良くわからないのですが、一般の人の大来にはあまり利用されずに、各国府から中央政権への官道としてしか利用されなくなってしまい、その道が消えてしまったのではないかと考えられています。

常陸国は東海道に属する国の一番東端の国です。このとき整備していたであろう官道は「古東海道」と呼ばれていました。
10世紀に編纂された延喜式には古東海道(中路)には30里(当時の1里は約550m、30里≒16.km)、毎に設けられた駅家(うまや)の名前が書かれており、常陸国府(石岡)の手前は「曾弥」という名前でした。

ここがどこなのかについてははっきりしませんが土浦市の下高津あたりではないかと言われています。
そうすると、この下高津あたりから、当時まだ湿地や池などが多かったと思われる現在の土浦中心部は通っていないと思われますので、どこを通っていたのでしょうか?

また、奈良時代前や、初期のころは霞ケ浦を渡って国府に来ていたと思われる記録がたくさん残されています。
私は、現在の美浦村あたりから舟に乗りかすみがうら市の旧出島地区へわたり、陸路または川を遡ってこの石岡後にやってきていたと考えています。


現在鎌倉街道と呼ばれる道がどのような場所なのかを少し調べてみたいと思い立ちました。

鎌倉街道

地図に予想されるルートを記入してみました。

東野寺(子安神社)、西野寺(胎安神社:たやすじんじゃ)には八幡太郎にまつわる伝承が残されています。
前九年の役(蝦夷征伐)に源頼義と長男の八幡太郎こと源義家が戦いに参戦したときに通過したときの伝説です。

石岡の三村地区にある「正月平」という地名は、この源氏の親子がここで正月を迎え、わずかしかいなかった住民にたいそうなもてなしを受けたそうです。
戦い終わって都に戻ってから感謝の印として「黄金のはたし」が贈られたと当時の書物に書かれてあると、石岡市史などにも記されているがこれがどんなものであったかについては何も記されていません。

しかし、正月平を訪れて調べていると、昔黄金の機織り機が村に保管されていたそうで、それを歩崎にある古刹の「歩崎観音」に奉納したとされていたのです。

一方歩崎観音は、本尊として十一面観音を安置していますが、この観音は33年に1度のみの公開となっていたために、一生に1度くらいしか拝むこともできなかったのです。
また、ここには「黄金の機織り機」が残されており、これも33年に1度のみの公開でした。

さらにこの機織り機には「龍女伝説」が一緒に語られていたのです。

龍女は、お腹の子供の安産を歩崎観音に願掛けをし、「無事生まれた時には黄金の機織り機を奉納する」と約束します。
その後、龍女に無事子供が生まれたために、この黄金の機織り機を奉納したというのです。

この話はともかくとして、実際に小型の黄金で作られた機織り機が戦争中頃まで残されていたそうです。
しかし、現在は残されておらず、東京へ展示のために貸し出して、戻ってこなかったそうです。
東京大空襲などで焼けてしまったのでしょうか?

寺は無住となっていた時期も長く、詳細はわかりません。
ただ、この観音様は現在は毎年この地域で行われる夏のおまつり(あゆみ祭り)時に公開されています。

また、鎌倉街道と言われる横にある子安神社の話では、この正月平に滞在している時(正月)に、この神社の祭礼があり、この神社にお参りに訪れたそうです。
その時近くを流れる天の川にかかるちゃんとした橋がなく、住民が渡るのに苦労していたそうです。
そのため、八幡太郎は部下たちを使って橋を架けさせたといわれています。

八幡太郎伝説はいろいろありますが、この正月平の話と子安神社の話は少し信ぴょう性が高いように思っています。

八幡太郎の父「源頼義」は988年の生まれとされており、陸奥守として奥州赴任した1051年(前九年の役の始まり)は、60歳を過ぎていました。

しかし、記録としてはこの常陸国にやってきたときに現在のつくば市北条の多気山に城を構えていた常陸大掾であった「多気致幹」の娘との間に子供をもうけています。

このような事実を積み重ねて当時の様子を想像するしかないのですが・・・・・
なかなかわからないことが多いですね。

明日に続きます。
最後まで長々とお読みいただきありがとうございました。

古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/21 09:03
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