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鎌倉街道と呼ばれる道(2/2)

かすみがうら市の鎌倉街道と呼ばれている道を少し探っています。
昨日からの記事の続きです。

かすみがうら市の石岡に近い東野寺、西野寺には2つの対となる神社があり、それぞれ子安神社、胎安(たやす)神社とどちらも子育て、安産祈願などで知られている。
また神紋はどちらも源氏の紋である笹竜胆(リンドウ)が使われている。
この紋がいつ頃から使われだしたかは知らないが、佐竹氏が秋田へ転封となり、替りに秋田からかすみがうら市の志筑地方に進出してきた本堂氏が源氏の氏族を名乗り、この神社などの保護に尽力したことによるのかもしれない。

しかし、それより前の11世紀前半にやってきた八幡太郎などの伝説が多く残されているのも気になるところだ。
子安神社に伝わる話は、川に橋を架けたというもので昨日紹介した。

胎安神社に伝わる話は、神社HPによると
「天喜2年(1055年) 鎮守府将軍陸奥守・源頼義、義家父子が、奥州征討の時、隣村の下雫村(下志筑)在陣中に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の懐胎を遥想されて、神主を招き、安産祈願を執り行いました。
康平6年(1064年) 大任遂行の帰路、当社と子安神社に奉賽(ほうさい)すなわち、お礼参りをされました。この時の「太刀一振り」の奉納札が残っています。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。 
尚、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されました。」
となっています。

1055年となっていますが、他の歴史書では1051年もあります。
さて、この東野寺、西野寺という地名ですが、もともと室町~鎌倉時代頃は、このあたりは「野寺(郷)」と呼ばれていたようです。
そのため、野寺と呼ばれるような寺が大昔からあって、神仏分離などで、寺が廃れて神社が残ったのかもしれません。

また、胎安神社の創建を見ると創建は、奈良時代の763年とされ、初めは、下総国香取神宮の神(経津主命ふつぬしのみこと)を祀り、相殿(あいどの)に、山城国葛野郡(京都嵐山)梅宮大社の御分霊として、胎内安全の神(木花咲耶姫命・このはなさくやひめのみこと)を祀ったと書かれています。

また一方の子安神社は鹿島神宮の神を祀っています。

鎌倉初期頃には志筑には下河辺氏(後の益戸氏)がおり、南北朝時代などは、大掾氏がここを攻撃したなどの記録もあります。
この野寺地区もその頃は益戸氏が支配していましたが、その後大掾氏が志筑城を攻略して、この野寺には部下の野寺孫三郎の居館が今の西野寺の古館にあったとされています。

それでは、この2つの神社から土浦方面に行ってみましょう。
すぐ近くを流れる天の川には立派な橋がかかっていますが、この橋は10年ほど前に何年もかかって建て替えられた物もので、道路もまっすぐきれいになりました。

橋をわたってこの自動車道の左側の住宅にはさまれた所に旧道らしい細い道が残っています。
ここもいつ頃からあるかはわかりませんが、少なくとも昔をしのぶにはよい道です。
比較的大きな家々の間を抜けて、広い新しい道に合流する辺りに新しい道路を挟んで土浦方面を見て右手の少し高台に2つの鳥居があります。

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左右の鳥居の形が違いますね。
右がここではメインで「愛宕神社」と地図には在りますが、左の神社名はかかれていません。

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鳥居をくぐった先には左に比較的小さな社があります。

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手前にはキツネと思われる像が置かれていますので、稲荷神社のようです。

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社の内部を覗いてみました。
「創立明治元年 胡桃下稲荷神社」などと書かれた札が貼られていました。

日本三大稲荷の一つともされる笠間稲荷の別名がこの「胡桃下(くるみした)稲荷神社」ですので、明治元年にこの地に分霊して持ってきたのかもしれません。
今ではこの神社の周りはこの地の名物である梨園が多くありますので、昔はこの辺りにも胡桃の木が茂っていたのかもしれません。(笠間稲荷の場所にはクルミの木がたくさん生えていたそうです)

さて右側の火防の神様といわれる愛宕神社ですが、小山になっていますのでこの山は古墳であったのかもしれません。
コンクリートの上り階段の先に拝殿と思われる建物があります。
しかし、この建屋の内部には神棚も何もなく、ガランとした空家小屋でした。

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その裏手に神社の本殿がありました。

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また近くの木の根元には「山ノ神」などと彫られた石板が置かれていました。

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神社から降りて、通りに出ると、通りの反対側の小山にも昇る階段があります。

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地図では「二子塚古墳」となっています。ただ別な地図ではこの二子塚古墳の場所はもう少し石岡よりです。
でもここが古墳のことは間違いないようです。
(後で調べると、愛宕神社のある小山が愛宕古墳1号墳、こちらが3号墳というようです)

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階段を上った古墳の上には大きな古木と小さな社(やしろ)がありました。
説明がかかれた物はありません。

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頂上からの眺めはよい場所でした。

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二子塚古墳と名付けられた古墳は全国にたくさん在り、石岡柿岡の丸山古墳群の中にもあります。
しかし、このかすみがうら市の古墳については余り紹介されている記事が在りません。
しかし、名前からの連想か? この古墳にも八幡太郎伝説が在りました。
「八幡太郎義家の妻がこの地で双子を出産し、内一人がなくなり埋葬した」という他愛のない伝説です。

しかし、古東海道の官道はかなり広い幅であったようですので、この愛宕神社の西側高台を走っていたものかもしれません。
ただ官の道は一般通行人が歩く事ができなかったのかもしれません。
一般の旅人が歩くのはもっとくねくねした細い道だったのでしょう。

さて、鎌倉街道といわれた道は江後田へ通じていたとされていますので、江後田へ行ってみました。
現在の広い道路をそのまま土浦のほうに進むとコスモ石油GSとスーパーカスミなどのお店がある信号に出ます。
そこを左折します。

少し行くと、「笄(こうがい)崎」というバス停があります。

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笄(こうがい)というのは昔、女性が髪に差していた櫛のことです。
各地にこの笄崎という地名は存在し、そのほとんどで、ヤマトタケルの妻「弟橘姫」が横須賀の走水(はしりみず)から千葉県の富津岬に船でわたるときに、海が荒れて、それを沈めるために海にわが身を捧げたとされている神話により、このときの姫の笄が流れ着いた場所であるという伝承が多く残されています。
このかすみがうら市の笄崎もこの地から「菱木川」という川が旧出島村の先端の霞ヶ浦まで流れており、東京湾から霞ヶ浦(旧香取海、流れ海)を通ってこの地にまで笄が流されてきたという伝承があったのかも知れません。

ではこの笄崎から左に入る細い道を江後田(えごた)地区に行ってみましょう。

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入り口は狭いですが、入るとのどかな道が続いています。
しかし、しばらく行くと道は下に下がって田んぼの間をぬうような道になります。

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その田んぼの中にポツンと社と鳥居がたっています。

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地図では「厳島神社」となっています。
やはりここも昔は大きな池になっていたのでしょう。
その池の中の島のような所に、この厳島神社が建てられたものと考えられます。

いまでも地図を見ると、この辺りから高浜あたりにかけて何箇所も池や沼などの場所が在るようです。

「江後田(えごた)」という地名も、昔川などがあり、その近くに田を耕作してつけられた名前だと地形を見て想像できました。
東京西部池袋線の江古田(えごた(ちめい)、えこだ(駅名))も同じように付けられた名前だと思います。

この江後田には中世の戦国時代に鈴木源太左衛門が築いた「江後田屋敷」があったと記録されています。
ここから左に又昇っていくと前の広い道路に出ます。

この笄崎から先の昔の道はいろいろな説が在りそうです。

大昔はきっと菱木川を舟で下り、霞ヶ浦(流れ海)にでて、美浦村の方につながっていたのでしょう。
しかし、奈良時代になって作られた古東海道はここから真鍋の方に続いていたのかもしれません。

昨日の記事で教えていただいた土浦の「小松=駒津」であれば、ここに馬を止める湊があったのでしょう。
そこから先は信太郡衙といわれている下君山あたりから対岸の荒海(駅家)辺りに渡っていたのかもしれません。

この辺りはまた後に発掘調査で官道の遺稿の一部でも見つかるといいのですが、見つかるのを楽しみに待ちましょう。
それまでこの記事もお蔵入りですね。




古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/03/22 05:58
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