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三村の地名(三)羽成子と羽梨の話し

 訳のわからないタイトル名「羽成子」と「羽梨」の話しだが、いずれも「はなし」と読む。
以前から気になっている三村地区にある「羽成子」について何か書いておきたいと思い立った。
でも考えるだけで纏まらないので少しわかっていることだけを記載しておきたい。

石岡市高浜の高浜神社側から愛郷橋を渡ってそのまままっすぐ三村側に突き当たった辺りが「羽成子(はなし)」という地名である。
何故このような地名になったのか良くわかっていない。

羽成子

分っている事といえば、三村城(現三村小学校地)跡の近くの「須賀神社」とこの羽成子の少し高台にある「鹿島神社」の2つがこの地区の郷社で、須賀神社が上の宮、鹿島神社が下の宮と呼ばれたという。

またこの下の宮ではかなり古い縄文時代ころの遺跡も見つかっている。(下の宮遺跡)
また三村城が小田氏によって落城したときに大鷲と大鰻の決闘の話が麓の常春寺に伝わっているが、この鷲と鰻を埋葬したという鷲塚、鰻塚という名前の小山(塚)があったとされるのがこの羽成子の少し高台だという。
もっともこれは古墳で、中から2体を一つの石棺に埋葬していた埋葬方法がわかっている。
ただ、この二つの塚は堤防改修のために削掘されて今はない。

さて、羽成子の話に戻るが、天文年間(1532~1555年)に小川城主・園部宮内大輔が書いたとされる『新国誌』「園部状」という文書に、小田城主・小田政治が「羽梨之宮」に軍勢を集め、渡海して小川に着く・・・というような記載があるとされる。

そのため、この羽梨之宮はこの羽成子にある鹿島神社ではないかと考えられている。
また平安時代に書かれた延喜式の神社名簿には茨城郡に「羽梨山神社」が記されており、現在笠間市(旧岩間町)上郷にある「羽梨山神社」がこの延喜式の式内社として多くの書物に紹介されているが、本来の式内社「羽梨山神社」は、こちらにある神社ということも十分に考えられる。

この三村に大掾氏が小田氏側の守りを固めるための城を築いたのは、天正年間(1573~)の初期とみられ、この城に、府中(石岡)の城主大掾慶幹(のりとも)の次男常春を置いた。大掾氏は名前にほとんど「幹(とも)」の字を使っているので、常春は法号だと思われる。

一方小川には、現在小川小学校のある台地には、古くは鹿島神宮の社領で「小河郷」と呼ばれていたという。そこに鎌倉時代に藤原秀郷の後裔で下総国葛飾郡下河辺荘に住していた下河辺政平が「小河城」を築城し、小河氏を名乗ったのが始まりとされる。
その後、この小川(小河)氏が代々城を守ってきたが、室町時代に京都の室町幕府と関東の諸豪族とが争った結城合戦(1440-41年)で、結城方についた小河常陸介が討たれ、この小川(小河)城は小田方城として存続したようだ。享禄元年(1528)に、小田氏は、府中の大掾氏に備えるために園部兼泰を小川城に遣わし、その後小川城は「園部城」と呼ばれるようになります。

そして小田氏と敵対関係にあった府中の大掾氏とも敵対していきました。
しかし、園部兼泰の子の兼彦の代となり、大掾氏の圧力に屈して自分の娘を大掾慶幹の妻に差し出します。
これに小田正治は怒り、この小川の園部氏を攻撃しました。
そして、園部兼彦は城を追われ、小田正治の弟の左衛門尉が小川の城主となったが、城を追われた園部兼彦は、天文15年(1546)に江戸氏の援護を受け、園部城を奪回したのです。

「羽梨之宮」の記述がある小田氏の出陣の時期はこの天文年間の事であり、この小田氏による園部氏攻撃の時ではなかと思われます。

しかし、元亀2年(1571)に再度小田氏に攻められて園部城はまた小田氏の支配下になったとされています。
三村に常春の城が築かれたのは1573年頃ですので、この小田氏や園部氏、江戸氏などとの争奪戦がこの地で繰り返されていたのです。
佐竹氏は園部氏を見方につけて府中の大掾氏を攻略し1591年に大掾氏は滅亡します。

前に書いた羽成子の「鹿島神社(下の宮)の記事 ⇒ こちら


高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/04/02 12:28
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