羽梨山神社(笠間市上郷)
新型コロナウイルスはどうにか持ちこたえている状態のようです。
色々な不安はありますが冷静に対処したいと思います。
こうなれば少し長期戦での対応が必要かもしれないですね。
終息まで1年以上かかりそうですから・・・・・
まずは自分が感染せず、感染したとしてもその先に感染させずにはどういう行動をとるべきかを考えていきたいと思います。
このブログ記事もこのような神社紹介や歴史掘り起しなどの記事も何時書けなくなるかもしれません。
もし感染爆発が起こり、出かけられなくなれば気持ちの上でも通常記事は書けなくなりそうです。
さて、先日三村の地名の中で「羽成子(はなし)」について書いたのですが、平安時代に書かれた延喜式の式内社の茨城郡の中の「羽梨山神社」と考えられている古社が笠間市(旧岩間町)の上郷地区に鎮座しているので10日ほど前に見学・参拝に訪れた。
旧355号線を石岡側から岩間駅を過ぎてしばらく行くと「上郷」信号がある。
ここから西にしばらく走るとゴルフ場の手前の道がカーブしているあたりに神社はあった。

入口にはおおきな「延喜式式内社」の看板が掲げられていた。
どっしりとした趣のある鳥居、拝殿、本殿が一直線に並び、その裏手に大きな杉のご神木があった。



この説明の石碑に書かれている内容はどこまで信用してよいかわからない。
ただ良く読めないので書きだしてみます。
・・・・・・・・・・・
御祭神 木花咲耶姫命
木花咲耶姫命は容姿端麗に桜花の咲き匂うがごとき美女と讃えられ全山花に覆われ花白山とも称される羽梨山に相応しい御祭神として勧請されたものである
由緒 羽梨山神社は延喜式宝典(905)の式内社 常陸国二八社の中の一社であり 郷社に列せられた格式高い神社である
又、上古 、磐筒男・磐筒女の二神が磐麻に在って日本武尊の東征軍を援け給い 尊より羽梨山の尊称を戴き岩間朝日丘に鎮祭されたとも伝えられている
延歴22年(803) 坂上田村麻呂陸奥征討の大任遂行の報賽として神殿二宇を建立寄進する
中世(1200年代) 宍戸家政 当社を崇敬して社殿を造営し 宍戸33郷の鎮守と定める
天文11年(1542)兵火に罹り神殿悉く焼失し朝日丘より八町程下なる現在地に遷る
寛文8年(1668) 本殿及び拝殿造営(棟札)
元禄16年(1703) 明神石鳥居建立(現鳥居)
延享4年(1747) 本社(現社殿)新築竣工
明治6年(1873) 郷社に列せられる
鎮守の神様は地域の守護神であり 御神木の霊力と相俟って縁結び・家内安全・除災招福・五穀豊穣その他氏子崇敬者の願いを聞こし召して下さる
・・・・・・・・
このような内容が彫られています。
ただ中世までは伝承と言ったところでしょう。

もう一つの石碑には更級日記のことが書かれています。
こちらも書きだしてみましょう。
「羽梨山神社旧蹟地碑建立記念」
羽梨山神社は平安時代の初期に建立され 常陸の国式内二十八社の一に列する格式高い神社である
創建時は難台山麓にあり 国司巡拝を記した更級日記に記されている由緒ある神社である
中世宍戸家政公は当社を篤く崇敬して宍戸三三郷の鎮守と定め繁栄したが 天文十一年兵火に罹り神殿悉く焼失して八丁程下なる現在地に遷宮する
爾来五百年当時の社地はゴルフ場となり 痕跡の失われることを憂い 氏子総代相諮り旧跡地に碑を建立する
平成22年11月吉日
そうするとこの碑は少し先にある現在のゴルフ場の敷地に建てられたものか?
どうもスッキリしませんが調べながらまとめてみましょう。
1) 創建時(664年というが不明)はこの場所ではなく、もう少し(八丁:約880m)難台山(旧南台丈)の中腹(朝日丘)にあった。
2) 祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)というから子安神社などの神だ。現地では絶世の美女だとか・・・・
貞操を疑われて、自ら火をつけた燃え盛る小屋の中で子供を産んだとされる神話の神ですね。
3) 難台山の名前は往古は羽梨山と言ったようで、「羽梨」の由来は、桜の花が白くて「花白山」が「花志山」、「羽梨山」へと変化したのではないかとか、筑波山系の山が葉が茂って緑なのに対し、この山は葉がなく、「葉無し山」といわれ、それが羽梨山となったとなどともいわれていると。
また、社伝によれば、ヤマトタケルが東征のときにここに布陣した時に、、「磐筒男」と「磐筒女」という老翁・老媼が現れて山果(梨)を捧げた。これにより兵の飢渇が癒されたので、帰りの凱旋時に「朝日丘」(現難台山)の神に羽々矢と梨の実を捧げたので、「羽梨山」と呼ばれるようになったともいわれているらしい。
4) 1542年に朝日丘から社殿を麓(現在地)に遷した。
ただ、この地にはその前に熊野大権現が祀られており、この遷宮で合祀となった。
別当寺「普賢院」の管理であったようだが、明治の神仏分離令で管理は別れた。
境内石碑には更級日記のことが書かれていますので少し補足しておく必要がありそうです。
更級日記は平安時代に書かれた菅原孝標(たかすえ)の次女・菅原孝標女の書いた日記ですが、この神社については書かれていません。
菅原孝標は上総介(1017年~)となった時にはこの娘もつれて東国に来ていますが、その後京都に戻り、1032年に常陸介として赴任したときは家族は連れてきていません。そのため、日記では常陸国の父からの手紙が紹介されているのです。
あづまより人来たり。
「神拝といふわざして国のうちありきしに、水をかしく流れたる野の、はるばるとあるに、木(こ)むらのある、をかしき所かな、見せでとまづ思ひ出でて、『ここはいづことかいふ』と問へば、『子しのびの森となむ申す』と答へたりしが、身によそへられていみじく悲しかなりしかば、馬よりおりて、そこに二時なむながめられし、
とどめおきて わがごとものや 思ひけむ 見るにかなしき 子しのびの森
となむおぼえられし」
とあるを見る心地、いへばさらなり。返事(かえりごと)に、
子しのびを 聞くにつけても とどめ置きし ちちぶの山の つらきあづま路
(訳)
あづまより父の便りを持った人が来た。
「神拝という儀式をして、国のうちをまわっていたところ、水が趣深く流れている野がはるばるとある所に、木が群がっている所がある、趣深い所だなあ、見せてやれないのが残念だと、まずお前のことを思い出して、『ここは何というところですか』と聞くと、『子しのびの森と申します』と答えたのが、身につまされてたいそう悲しかったので、馬からおりて、そこに二時(四時間)ぼんやりしていた。
とどめおきて わがごとものや 思ひけむ 見るにかなしき 子しのびの森
お前もわが子をどこかに置いてきて、私のように悲しい気持ちなのか。見るも悲しい子しのびの森よ。
と思った」
むかしの国司は常陸国の国府(現石岡市)から国内の神社(鹿島神社や静神社などの主だった神社を遥拝して廻るのが習慣で、その途中でこここにある「子しのびの森」が、この言葉からこの付近の「押辺=おしのべ」ではないかと言われている。
そのため、当時のこの神社(羽梨山神社)に来たのではないかというのである。




しかし、この11世紀頃にこの神社(もう少し山の中腹にあった)が何と呼ばれていたかはあまりはっきりしない。
色々な文献に「羽梨之神」が出てくるが、少し考えてみたい。
1)「日本三代実録」(901年成立)に、「羽梨神」が貞観12年(870年)に従五位下から従五位上、仁和元年(885年)に従五位上から正五位下と階級が上がっている。
2)『神祇志料(じんぎしりょう)』(1873年成立)によると、『大同類聚方』』」(だいどうるいじゅうほう)に「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」とある。
この茨城郡拜師里は現在の石岡市上林・下林から染谷・村上の竜神山付近と考えられている。
3)『新国誌』園部状に、小田城(つくば市小田)の小田政治が羽梨之宮に集まって、軍を整え霞ケ浦を船で渡って小川(現小美玉市)に向かうとある。とする説。そこから、胎安神社か子安神社が羽梨山神社かもしれないと記されている。
やはりこれらの資料から延喜式の羽梨山神社は
1)石岡市(みむら)羽成子にある鹿島神社
2)かすみがうら市東野寺、西野寺にある子安神社・胎安神社
3)石岡市染谷、村上にある佐志能神社(2カ所)
がまず思い浮かぶ。
ただこの笠間市上郷の羽梨山神社も木花咲耶姫命を祀っていることを考えると、かすみがうら市の子安・胎安神がむかしは羽梨山神社としてあり、これが分かれてこちらの神社に名前として残ったのかもしれない。
子しのびの森もこちらの子安・胎安神社近くを流れる天の川付近の森ということも考えられる。
ただ一般には同じ茨城郡の式内社である「夷針(いはり)神社」の論社の中に子安神社、胎安神社、をいれており、佐志能神社は新治郡の式内社にある。

(難台山を反対側の石岡市八郷地区より眺める:この時季山は白く笑っているように見える)
色々な不安はありますが冷静に対処したいと思います。
こうなれば少し長期戦での対応が必要かもしれないですね。
終息まで1年以上かかりそうですから・・・・・
まずは自分が感染せず、感染したとしてもその先に感染させずにはどういう行動をとるべきかを考えていきたいと思います。
このブログ記事もこのような神社紹介や歴史掘り起しなどの記事も何時書けなくなるかもしれません。
もし感染爆発が起こり、出かけられなくなれば気持ちの上でも通常記事は書けなくなりそうです。
さて、先日三村の地名の中で「羽成子(はなし)」について書いたのですが、平安時代に書かれた延喜式の式内社の茨城郡の中の「羽梨山神社」と考えられている古社が笠間市(旧岩間町)の上郷地区に鎮座しているので10日ほど前に見学・参拝に訪れた。
旧355号線を石岡側から岩間駅を過ぎてしばらく行くと「上郷」信号がある。
ここから西にしばらく走るとゴルフ場の手前の道がカーブしているあたりに神社はあった。

入口にはおおきな「延喜式式内社」の看板が掲げられていた。
どっしりとした趣のある鳥居、拝殿、本殿が一直線に並び、その裏手に大きな杉のご神木があった。



この説明の石碑に書かれている内容はどこまで信用してよいかわからない。
ただ良く読めないので書きだしてみます。
・・・・・・・・・・・
御祭神 木花咲耶姫命
木花咲耶姫命は容姿端麗に桜花の咲き匂うがごとき美女と讃えられ全山花に覆われ花白山とも称される羽梨山に相応しい御祭神として勧請されたものである
由緒 羽梨山神社は延喜式宝典(905)の式内社 常陸国二八社の中の一社であり 郷社に列せられた格式高い神社である
又、上古 、磐筒男・磐筒女の二神が磐麻に在って日本武尊の東征軍を援け給い 尊より羽梨山の尊称を戴き岩間朝日丘に鎮祭されたとも伝えられている
延歴22年(803) 坂上田村麻呂陸奥征討の大任遂行の報賽として神殿二宇を建立寄進する
中世(1200年代) 宍戸家政 当社を崇敬して社殿を造営し 宍戸33郷の鎮守と定める
天文11年(1542)兵火に罹り神殿悉く焼失し朝日丘より八町程下なる現在地に遷る
寛文8年(1668) 本殿及び拝殿造営(棟札)
元禄16年(1703) 明神石鳥居建立(現鳥居)
延享4年(1747) 本社(現社殿)新築竣工
明治6年(1873) 郷社に列せられる
鎮守の神様は地域の守護神であり 御神木の霊力と相俟って縁結び・家内安全・除災招福・五穀豊穣その他氏子崇敬者の願いを聞こし召して下さる
・・・・・・・・
このような内容が彫られています。
ただ中世までは伝承と言ったところでしょう。

もう一つの石碑には更級日記のことが書かれています。
こちらも書きだしてみましょう。
「羽梨山神社旧蹟地碑建立記念」
羽梨山神社は平安時代の初期に建立され 常陸の国式内二十八社の一に列する格式高い神社である
創建時は難台山麓にあり 国司巡拝を記した更級日記に記されている由緒ある神社である
中世宍戸家政公は当社を篤く崇敬して宍戸三三郷の鎮守と定め繁栄したが 天文十一年兵火に罹り神殿悉く焼失して八丁程下なる現在地に遷宮する
爾来五百年当時の社地はゴルフ場となり 痕跡の失われることを憂い 氏子総代相諮り旧跡地に碑を建立する
平成22年11月吉日
そうするとこの碑は少し先にある現在のゴルフ場の敷地に建てられたものか?
どうもスッキリしませんが調べながらまとめてみましょう。
1) 創建時(664年というが不明)はこの場所ではなく、もう少し(八丁:約880m)難台山(旧南台丈)の中腹(朝日丘)にあった。
2) 祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)というから子安神社などの神だ。現地では絶世の美女だとか・・・・
貞操を疑われて、自ら火をつけた燃え盛る小屋の中で子供を産んだとされる神話の神ですね。
3) 難台山の名前は往古は羽梨山と言ったようで、「羽梨」の由来は、桜の花が白くて「花白山」が「花志山」、「羽梨山」へと変化したのではないかとか、筑波山系の山が葉が茂って緑なのに対し、この山は葉がなく、「葉無し山」といわれ、それが羽梨山となったとなどともいわれていると。
また、社伝によれば、ヤマトタケルが東征のときにここに布陣した時に、、「磐筒男」と「磐筒女」という老翁・老媼が現れて山果(梨)を捧げた。これにより兵の飢渇が癒されたので、帰りの凱旋時に「朝日丘」(現難台山)の神に羽々矢と梨の実を捧げたので、「羽梨山」と呼ばれるようになったともいわれているらしい。
4) 1542年に朝日丘から社殿を麓(現在地)に遷した。
ただ、この地にはその前に熊野大権現が祀られており、この遷宮で合祀となった。
別当寺「普賢院」の管理であったようだが、明治の神仏分離令で管理は別れた。
境内石碑には更級日記のことが書かれていますので少し補足しておく必要がありそうです。
更級日記は平安時代に書かれた菅原孝標(たかすえ)の次女・菅原孝標女の書いた日記ですが、この神社については書かれていません。
菅原孝標は上総介(1017年~)となった時にはこの娘もつれて東国に来ていますが、その後京都に戻り、1032年に常陸介として赴任したときは家族は連れてきていません。そのため、日記では常陸国の父からの手紙が紹介されているのです。
あづまより人来たり。
「神拝といふわざして国のうちありきしに、水をかしく流れたる野の、はるばるとあるに、木(こ)むらのある、をかしき所かな、見せでとまづ思ひ出でて、『ここはいづことかいふ』と問へば、『子しのびの森となむ申す』と答へたりしが、身によそへられていみじく悲しかなりしかば、馬よりおりて、そこに二時なむながめられし、
とどめおきて わがごとものや 思ひけむ 見るにかなしき 子しのびの森
となむおぼえられし」
とあるを見る心地、いへばさらなり。返事(かえりごと)に、
子しのびを 聞くにつけても とどめ置きし ちちぶの山の つらきあづま路
(訳)
あづまより父の便りを持った人が来た。
「神拝という儀式をして、国のうちをまわっていたところ、水が趣深く流れている野がはるばるとある所に、木が群がっている所がある、趣深い所だなあ、見せてやれないのが残念だと、まずお前のことを思い出して、『ここは何というところですか』と聞くと、『子しのびの森と申します』と答えたのが、身につまされてたいそう悲しかったので、馬からおりて、そこに二時(四時間)ぼんやりしていた。
とどめおきて わがごとものや 思ひけむ 見るにかなしき 子しのびの森
お前もわが子をどこかに置いてきて、私のように悲しい気持ちなのか。見るも悲しい子しのびの森よ。
と思った」
むかしの国司は常陸国の国府(現石岡市)から国内の神社(鹿島神社や静神社などの主だった神社を遥拝して廻るのが習慣で、その途中でこここにある「子しのびの森」が、この言葉からこの付近の「押辺=おしのべ」ではないかと言われている。
そのため、当時のこの神社(羽梨山神社)に来たのではないかというのである。




しかし、この11世紀頃にこの神社(もう少し山の中腹にあった)が何と呼ばれていたかはあまりはっきりしない。
色々な文献に「羽梨之神」が出てくるが、少し考えてみたい。
1)「日本三代実録」(901年成立)に、「羽梨神」が貞観12年(870年)に従五位下から従五位上、仁和元年(885年)に従五位上から正五位下と階級が上がっている。
2)『神祇志料(じんぎしりょう)』(1873年成立)によると、『大同類聚方』』」(だいどうるいじゅうほう)に「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」とある。
この茨城郡拜師里は現在の石岡市上林・下林から染谷・村上の竜神山付近と考えられている。
3)『新国誌』園部状に、小田城(つくば市小田)の小田政治が羽梨之宮に集まって、軍を整え霞ケ浦を船で渡って小川(現小美玉市)に向かうとある。とする説。そこから、胎安神社か子安神社が羽梨山神社かもしれないと記されている。
やはりこれらの資料から延喜式の羽梨山神社は
1)石岡市(みむら)羽成子にある鹿島神社
2)かすみがうら市東野寺、西野寺にある子安神社・胎安神社
3)石岡市染谷、村上にある佐志能神社(2カ所)
がまず思い浮かぶ。
ただこの笠間市上郷の羽梨山神社も木花咲耶姫命を祀っていることを考えると、かすみがうら市の子安・胎安神がむかしは羽梨山神社としてあり、これが分かれてこちらの神社に名前として残ったのかもしれない。
子しのびの森もこちらの子安・胎安神社近くを流れる天の川付近の森ということも考えられる。
ただ一般には同じ茨城郡の式内社である「夷針(いはり)神社」の論社の中に子安神社、胎安神社、をいれており、佐志能神社は新治郡の式内社にある。

(難台山を反対側の石岡市八郷地区より眺める:この時季山は白く笑っているように見える)
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