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子忍びの森

 最近はほぼ毎日家に籠るような生活をしていたので、現在の状態はあまり変化はないのですが、このコロナウイルスで多くの人が同じようになってしまった。

たまに外に来るまで出かけてみるが確かに車も少なくなった。
朝の9時~10時頃なども家の近くの通りにほとんど車が走っていない。

昔の正月はほとんどの店が休みだったので、そんな時の風景を思い出してしまった。

「家にいろ!」とばかり言われているとさて、人はどのくらいこの状態を続けられるのだろうか?
連休が近づき少し心配になる。

海外では学校も9月まで休校というところが増えてきた。
日本がどうなるか?
夏祭りなども続々中止が見え始めた。
東京三社祭、青森ねぶた祭り、仙台七夕まつり、秋田竿灯まつり、徳島阿波おどり、長岡花火大会・・・・・・・・・・
次々と中止が決まっています。やはり寂しいですね。
まあこの調子だと最低でも1年はやはり心配でしょう。 第2波もありますので。

私も家で籠って、とはいえいつものことですが、ふるさと風の会の重鎮の打田兄の歴史随筆などを集めて整理しています。
氏は歴史に対する造詣が深く、私もいろいろ教えていただいていますが、今までにたくさんの短い随筆を石岡市の市報、風の会の会報などに書かれています。

現在までに170件以上の話があり、これをまとめてみたいと思ったのです。
ここ3日ほどで今までの記事を抜き出しました。
本にしたいと思っていますが、詠みだしたら結構面白くて・・・・
その中の一つの記事を紹介します。

子忍の森    打田 昇三  (2011.2.1)

 石岡市史の文苑には更級日記と子忍の森の記事がある。
長元五年(一〇三二)二月八日に菅原孝標は常陸介(事実上の国司)に任命され、石岡に来た。
着任の行事で多分、二の宮の静神社へ参拝する途中に子忍びの森を見て神秘的な印象を娘に知らせた。
娘は、それを更級日記に記した…という内容である。

 森の場所は旧・西茨城郡南川根村押辺(おしのべ)であろうと考えられたが確定はされなかった。
明治初年に内務省が各地の沿革を調べた際には現地の古老が子忍びの森のことを申し出ており、その方が実は難台山落城の際に有明の松まで落ちのびて来た人たちの子孫である。

 「子忍びの森」は押辺と断定しても良さそうだが、なぜ子忍びなのか気になる。
調べてみると近辺の小字 に「稲荷」「喜恒多(きつねだ)」「出会」などがあるから、大阪の信田山や牛久の女化(おなばけ)原と同じように、助けられた狐が女性に変身して恩を返す。夫婦になり子供が生まれたが、正体を知られて家を出る。
森に帰った狐は子を忍んで泣き暮らす、その「子忍び」ではないのか…。

つまり菅原孝標が訪れた頃には消えてしまった狐伝説があった…。
何も証拠は無いが、勝手にそう思っている。

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これは2011年の2月に石岡市市報の市民随筆欄に載った記事である。
氏は2007年から2014年までほぼ毎月1回この市報に随筆記事を載せている。
このまま埋もれてしまってはもったいないので何とかしておきたい。

まだ少し時間はかかるが何とかまとめておきたいと思っている。
このキツネ伝説と子忍びの森がつながると笠間の話としてはとても面白くなってくる。


角川地名大辞典より下記抜粋

「子忍びの森(古代)」
平安中期に見える地名長元5年7月に常陸介として常陸国に下った菅原孝標が京に残した娘に送った手紙に
「神拝といふわざして国の内ありきしに,水おかしく流れたる野の,はるばるとあるに,木むらのある,おかしき所かな……こゝはいづことかいふと問へば,子忍びの森となむ申すと答へたりしが」と見え
「とゞめきてわがごと物や思ひけむ見るに悲しき子忍びの森」と詠んでいる(更級日記)
比定地は未詳
茨城郡押延【おしのべ】村の音が「こしのび」に近く,付近を蒜間川(または宍戸川)が流れ,広々とした野があることから同日記の記述に一致し,また往来の大道からも近いため,この付近の森を指すという説もあるが(新編常陸),確定しがたい

とある。




ことば座・風の会 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2020/04/22 08:36
コメント
ご苦労様です
編集作業大変でしょうが頑張ってください。

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