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新治・筑波を過ぎて

新治 筑波を過ぎて…       鈴木 健    第51号 (2010年8月)

 町村合併の話しの続き。
 県内には新治郡新治村(現土浦市(新治は消滅))、新治郡千代田町新治(旧新治村、現かすみがうら市新治)、真壁郡協和村新治(旧新治村、現筑西市新治)と、三ヵ所に新治があった。土浦市に合併した新治村は戦後の生まれ。千代田の新治は平安・鎌倉時代の荒張(アラハリ)にさかのぼる。協和町の新治は『常陸国風土記』(七二〇年)にその由来が載り、もっとも古く、しかもそれは、『古事記』(七一二年)にも、次のように書かれている。
 「倭建命(やまとたけるのみこと)」「荒夫琉蝦夷(あらぶるえみし・頭注=いまのアイヌの祖先とされる)等(ども)を言向(ことむ)け、亦山河の荒ぶる神等(かみども)を平和(やは)して、」「甲斐に出でまして、酒折宮(さかおりのみや)に坐(ま)しし時、歌日(うた)ひたまひしく、
  新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
とうたひたまひき、爾に其の御火焼(みひたき)の老人(おきな)、御歌に続きて歌日ひしく、
  かがなべて、夜には九夜 日には十日を
とうたひき。是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の国造(くにのみやつこ)を給ひき。」
 ヤマトタケルがオラホの新治や筑波を歌ったということ、茨城の人たちはこの一節が大のお気に入りのようだが、それで満足している。また、国文学者たちも、これが連歌のはじまりである。
連歌を「筑波の道」というのはこれによる。それにちなんで筑波を連歌岳という。悲劇を前にしたつかの間のやすらぎの語らいである。というようなことで、通り過ぎる。
しかし、どうも話しが変だ。タケルの歌に、十日たちましたと歌で答えるだけで、誉められて国造(今の県知事)に任命されたというのは理解しがたいし、それだけのことなら、わざわざ記事にすることもなかろうと思う。
これは単なる問答ではなく、クイズのやりとりではなかろうか。
『日本書紀』(七二〇年)を見ると、その疑問が確信になった。そこにはつぎのように載っている。
「是の夜、歌を以て侍者(さぶらひひと)に問ひて曰はく。
 新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
諸(もろもろ)の侍者、え答へ言(もう)さず。時に秉燭者(ひともせるもの)有り。
王(みこ)の歌(みうた)の末に続けて、歌(うたよみ)して曰(もう)さく、
 日日(かか)並べて 夜には九夜 日には十日を
即ち秉燭人の聡(さとり)を美め(ほめ)たまひて 敦(あつ)く賞(たまもの)す。」
 「歌を以って」「問ひ」を出したが、並み居る従者たちは「え答へ言さず」。

そこに一人だけ正解者があったので、その聡明さをほめてあつく賞を与えたという。
これはまぎれもなく懸賞クイズである。
ところで「幾夜か寝つる」という問いには、「○夜」とするのが正解であるはずなのに、「○夜○日」という答えが正解だという。
これはどうしたことか。じつは「幾夜か」の「か」にトリックがあった。「寝つる」という句を利かせておいて、「夜か」の「か」は疑問の助詞と思いこませ、「○夜」という方へ答えを誘導しておく。その実「幾夜か」の「か」は「五日」などの「日(カ)」。したがって「幾夜か」は「幾夜日」で「○夜○日」が正解になる。そこのところを原文で確かめてみる。『古事記』では、「伊久用加(イクヨカ)」「許許能加(ココノカ)」「登袁加(トヲカ)」。『書紀』では、「異玖用伽(イクヨカ)」「虚虚能伽(ココノカ)」「苔塢伽(トヲカ)」で、ともにイクヨカのヨカが見事にココノヨのヨとトヲカのカに一致している。だから、九夜十日が正解というわけだが、ではなぜ、九夜十日なのか。答えのヒントは「筑波」(原字は『古事記』都久波(ツクハ)、『書紀』莬玖波(ツクハ))の「波」に隠されていた。「ハ」は平安時代につくられたヒラカナでは「波」の行書体の「は」、カタカナは「八」の変形である「ハ」である。これは「波」と「八」がともに同音であることを示す。同時代の『和名抄』に見る地名では在所の違いで「波也之(ハヤシ)」「八也之(ハヤシ)」(林)、「加波乃倍(カハノベ)」「加八乃倍(カハノベ)」(川野辺)、写本の違いで「太奈波太(タナハタ)」「太奈八太(タナハタ)」(たなばた)「須波流(スバル)」「須八流(スハル)」(すばる)。奈良時代の『万葉集』には「四八津(シハツ)」「八多(ハタ)」等、「波」と「八」は同じ発音に使われていた。それによって「(筑)波を過ぎて幾夜か」は「八をすぎて幾夜日」ということなので、九夜十日になるわけだ。これはおそらく本邦最古のクイズであろう。だが、これまでえ、それがクイズであることに気づいた人はいなかったようだ。前にも同じようなことを書いたが、某紙の共鳴的な書評以外にはめぼしい反応はなかった。こんなものを書いたり考えたりするのは、烏滸(ヲコ)の沙汰というものか。しかし、『古事記』等にはほかにも同じようなクイズがはめこまれている気配がある。千三百年たってもそれに気づかないのでは、太安万呂大人もアイソが尽きるのではなかろうか。


【特別寄稿】    第52号 (2010年9月)

「新治・筑波を過ぎて…」を読んで 太田尚一
 本紙第五十一号、鈴木健氏の独自の視点からの古代史解釈、大変興味深く拝読させていただきました。
これを古代史研究の泰斗志田諄一先生にお送りいたしましたところ、左記に掲げますコメントをいただきました。先生のご承諾をいただきましたので、寄稿いたすことにしました。

 『火焼(ひたき)の老人(おきな)の性格』志田諄一
火焼の老人、クイズ解答者と論ずる鈴木健氏説はおもしろいが、問題は火焼の老人の性格である。
火焼の老人が酒折の宮の祭儀の場で火をたいたのは、浄めのためであり、火は神と人との媒介をなすものと信じられ、神降しの目的から火をたいたのである(竹野長次「古事記の民俗学的研究」)。
折口信夫は「おきな・おみなの古義は、国邑の神事の宿老の上位にある者を言うたらしい」と説いている(「翁の発生」折口信夫全集第二巻)。
火焼の老人は酒折の宮の司霊者で「物知り」であったから倭建命の問いに対し、旅程の日数答えたのである。火焼の老人が任じられたという「東の国造」は行政者ではなく東国の神を祀る司霊者的性格を帯びていたのであろう。
本居宣長は「常陸より甲斐までの程、昼夜懈(おこた)らず勤(いそ)しく仕へ奉りて、当方の国々を経来りたる勢を賞めて、東国造と云称号を賜へるにもあらむか」とするが(『古事記伝』第二)、誤りである。宣長はさらに続けて「此老人、今御火を焼きて夜庭に伺候(さむら)ふにつきて、新治筑波より此処までに、夜昼伺候ひ勤めたる、己が労を以て答へ奉りたらむ」と述べているが、火焼の老人は、倭建命に従って行を供にしたのではなく、酒折の宮にはじめからいたのである。
 「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」は、倭建命が酒折の宮までの苦労を訴えた言葉であり、「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」は火焼の老人が神の言葉として、その苦労をねぎらったのであろう。
『古事記』では、甲斐から信濃を越えて尾張の国に還った倭建命は美夜受比売(みやずひめ)のもとに逗留したとある。美夜受比売が酒づきを捧げて献ずるとき、打掛(うちかけ)の裾に月の物がついているのを見た倭建命が

久方の 天之香具山 利鎌(とかま)に さ渡る
鵠 (くび) 弱細(ひぼそ) 手弱腕を枕かむとは
吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 
汝が着せる襲(おすい)の裾に 月立ちにけり

と問いかけの歌をよむと、美夜受比売は

高光る 日の御子 安見しし わが大君
あらたまの 年が来経(ふ)れば あらたまの
月は来経往(へゆ)く うべな うべな
君待ち難(がた)に わが着ける 襲の裾に
月立たなむよ

と答えている。
美夜受比売は草那芸剱(くさなぎのつるぎ)に宿る神霊に奉仕した司霊者である。したがって倭建命は、ここでも司霊者に問いかけ、答えの言葉をうけているのである。

▽しだ じゅんいち 文学博士
 元茨城キリスト教大学学長・元市制三十周年記念『石岡の歴史』市史編纂専門委員委員長・元『石岡市史』下巻(通史編)監修者・日立市郷土博物館館長。


【風の談笑室】  白井 啓治
 今月号は、思いがけない投稿が、崙書房の太田尚一さんからあり、特別寄稿にご紹介しました。
 当「ふるさと風」も50号を越え、最近では、色々な方からの御意見・御感想などを頂けるようになり、会員の大きな励みにもなっております。
八月号には、これまで風の会としては、取り上げてこなかった太平洋戦争、原爆の話しについて、無記名の投稿を頂き、掲載させていただきました。大層に嬉しいことです。
 この春から、鈴木健さんより継続して投稿頂けるようになりましたが、その早速の反応を頂き、編集事務局としては大喜びです。
 さて、鈴木さんの「新治 筑波を過ぎて」の文に対してのご指摘を頂きましたのは、茨城県の古代史研究ではご高名な志田諄一先生ですが、この御指摘に関係して、小生も編集者を離れて、一脚本家として参加させてもらいたいと、以下に誌させてもらおうと思います。
      ×   ×   ×
 火焼き老人の性格については、志田氏の述べることに反論はない。鈴木氏の文において重要なのは、最後の『古事記等にはほかにも同じようなクイズがはめこまれている気配がある。千三百年たってもそれに気づかないのでは、太安万侶大人もアイソが尽きるのではないだろうか』である。
脚本家、物語作家としたら、太安万侶の書いた文中の人物の性格以上に、重要なことである。何故なら、ここの最後の文に鈴木氏の物語が存在するからである。
古事記は、暦を記すがごとく、事実を正確・忠実に書かれたものではない。現政権を正当化する為に書かれた物語である。太安万侶が説話等を編纂する様な形で書いていったのであろうが、そこに書かれてあるのは歴史としての事実ではなく、太安万侶の物語といってよいだろう。勿論、古事記が歴史的意味がないと言っているのではない。物語であってもそこに登場してくる人物には、その当時の性格があるので、火焼き老人の性格は志田氏の御指摘の通りなのであろう。
 最近テレビでよく韓流ドラマをみる。脚本家としてそのドラマをみると、実に展開の構成が乱暴なのである。あれッ、昨日居たあの人物は何所へ行ってしまったんだ? そんな事が頻繁である。しかし、それだからと言ってドラマとして滅茶苦茶かというとそうではない。むしろその支離滅裂に近い展開が観客の心を捉えてぐいぐい引っ張っていく。日本映画全盛の頃の作品をみると、今の韓琉ドラマと似た展開が沢山あった。少しでも面白く、楽しい映画を、という情熱が乱暴な構成を許す力を持っていたのだろうと思う。実際の所、名作といわれる文芸小説でも、乱暴な構成が沢山ある。しかし、その乱暴さは、既成を打ち破る強い力となって発揮している例も少なくない。
 鈴木氏の文を読んで注目すべきは、クイズではなく、「太安万侶大人もアイソが尽きるのではないだろうか」である。そこに太安万侶が考えたのかもしれない発展のドラマ、物語の発展性が存在するのである。火焼きの老人が神の言葉として言ったのであれば、国造を給ひき、などの事は詰らなく、「あッ、そう」ということになるのではないだろうか。神の言葉として言ったとしても、それがクイズの回答であったとすれば、太安万侶の洒脱なドラマとして新しい発展をみることになる。もし古事記が完全な暦的な歴史の記録であったとすれば、古事記をこんなに面白く読むことはできない。それはやはり、鈴木氏の言う太安万侶もアイソが尽きる、に尽きるのではないだろうか。

ことば座・風の会 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/14 10:49
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