日本語と縄文語(17) 原、開く(開墾)
九州や沖縄の地名には原を「バル」「ハル」と読む地名がたくさん存在している。
では、全国の郵便番号簿から「原」を「バル」と読む地名を検索してみよう。
・福岡県北九州市・・・中原(ナカバル)、黒原(クロバル)、道原(ドウバル)、夕原(ユウバル)
・福岡県福岡市・・・・下原(シモバル)、塩原(シオバル)、桧原(ヒバル)、屋形原(ヤカタバル)、北原(キタバル)、女原(ミョウバル)
・福岡県その他・・・大牟田市平原(ヒラバル)、久留米市城島町六町原ロクチョウバル)など38箇所
・佐賀県佐賀市・・・中原(ナカバル)、鎌原(カマバル)、藤原(フジバル)、八反原(はったばる)
、田原町・佐賀県その他・・・唐津市中原(ナカバル)など 14箇所
・長崎市佐世保市・・・上原(ウワバル)町、小佐々町田原(タバル)、平原(ヒラバル)、世知原(セチバル)町、田原(タバル)町、吉井町下原(シモバル)、田原(タバル)
・長崎市その他・・・長崎市小江原(コエバル)など11箇所
・熊本県・・・熊本市東区西原(ニシバル)など31箇所
・大分県・・・大分市机張原(キチョウバル)、大分市久原(クバル)など42箇所
・宮崎県・・・宮崎市糸原(イトバル)、柏原(カシワバル)など20箇所
・鹿児島県・・・桜島赤生原(アコウバル)町、鹿児島市紫原(ムラサキバル)など17箇所
・沖縄県・・・那覇市宇栄原(ウエバル)、那覇市首里桃原(トウバル)町、南風原(ハエバル)町など28箇所
また「ハル」と読む地名もほとんどが九州に存在し、北九州市八幡区の上の原(ウエノハル)、福岡市東区唐原(トウノハル)を始め、福岡県28箇所、佐賀県4箇所、長崎県5箇所、熊本県11箇所、大分県24箇所があった。
しかし、宮崎県は高原(タカハル)町1箇所、鹿児島県もいちき串木野市大原(オオハル)町の1箇所のみであった。
沖縄にはなかった。
これを見ると、原を「バル」「ハル」と読むところは沖縄のみならず、九州にも数多く存在し、本州にはほとんどなかった。
また「原」を普通に「ハラ」と読む地名も九州・沖縄にはたくさん存在していて、この区別にどのような意味があるのかは良く判断が出来なかった。
沖縄県の(中頭郡)西原(ニシハラ)町に焦点を当ててみたい。
地図を見ると那覇市首里城から見て東北方向にある。
市のHPやWikipediaによると、この名前のいわれとして
「沖縄方言でニシは「北」を意味する言葉であり、西原とは琉球王国の中心であった首里の北に位置することに由来する。
西原間切(ニシハラマギリ)と呼ばれていたときには、現在の那覇市泊、天久、末吉、石嶺も当間切に含まれており、かなり広い範囲を占めていたが、後に那覇市に編入され、1920年にはほぼ現在のような領域となった。 」と書かれています。
どの説明も「ニシ」=「北」であると説明されていますが、地図を見ても首里城から東北方面(但し昔の間切区分時は泊地区なども含まれていたというので北ともいえる)であり、前回書いた通り、北ではなくやはり、森や山のある方向を意味したのではないだろうか。
地形図を見ても首里城から北方面は平野が広がっており、この現在の西原(にしはら)方面には山(森)があります。
地名の「西原(ニシハラ)」はかなり古い言葉で、新しく付けられた名前ではありません。
従って、沖縄や九州では「原」を「バル」「ハラ」を使い分けているように感じてなりません。
同じ意味ではないとするとその違いはどこにあるのでしょうか?

アイヌ語(縄文語)から探ってみましょう。
【para 広い・・・川下の低い場所 扇状地、沖積平野】⇒ 原(ハラ)
【haru 自然からの食べ物の恵み、豊漁猟】⇒ 原(ハル、バル)、畑(ハタケ)
この2つの違いで意味が違っているのではないかと考える。
「原(ハラ)っぱ」は今の本州の文字通り広い場所を意味し、
「原(バル)」は【haru kamuy】を「恵みの神」というように穀物など収穫の取れる場所を意味したのだろう。
このことからも、沖縄では畑のことを「ハル」「バル」といい、広い広場などを「ハラ」と表現していたのではないかと思う。
まあ、これはあくまでも想像でしかないが・・・。
「新治」を「ニイハリ」と読む場所と「ニイハル」などと読む場所も日本列島の各地に混在している。
これもこの「ハラ」と「ハル」と似たような感覚の違いがあったのかもしれない。
paraパラ については ヒラ(平)、ヒロ(広)などに変化したと考えられ、
【para-ke-i 広く あらしめる 所】⇒【haraki ハラキ、バラキ 開墾する】 となったと推察される。
日本書紀に「開、此れを波羅企(ハラキ、バラキ)と云う」と出てくる。
茨城の県名についても「バラキであり、開墾する意味があったのだろうといえる。
石岡市に「茨城台」と書いて、「バラキダイ」と読む地名がある。
ここは昔、国分寺より古い「茨城廃寺(バラキハイジ)」があった場所でもある。
これ以上は書くつもりもないが、【ibaraki:イバラキ は 広く有らしめたところ=開拓地】を意味していた。
もっとも、茨城の名前は、石岡で始まったものではなく、涸沼川の上流の笠間市小原辺りが発祥だろうから、その昔はこのオバラ周辺が茨城で開拓地であったものと考えられる。
今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから
では、全国の郵便番号簿から「原」を「バル」と読む地名を検索してみよう。
・福岡県北九州市・・・中原(ナカバル)、黒原(クロバル)、道原(ドウバル)、夕原(ユウバル)
・福岡県福岡市・・・・下原(シモバル)、塩原(シオバル)、桧原(ヒバル)、屋形原(ヤカタバル)、北原(キタバル)、女原(ミョウバル)
・福岡県その他・・・大牟田市平原(ヒラバル)、久留米市城島町六町原ロクチョウバル)など38箇所
・佐賀県佐賀市・・・中原(ナカバル)、鎌原(カマバル)、藤原(フジバル)、八反原(はったばる)
、田原町・佐賀県その他・・・唐津市中原(ナカバル)など 14箇所
・長崎市佐世保市・・・上原(ウワバル)町、小佐々町田原(タバル)、平原(ヒラバル)、世知原(セチバル)町、田原(タバル)町、吉井町下原(シモバル)、田原(タバル)
・長崎市その他・・・長崎市小江原(コエバル)など11箇所
・熊本県・・・熊本市東区西原(ニシバル)など31箇所
・大分県・・・大分市机張原(キチョウバル)、大分市久原(クバル)など42箇所
・宮崎県・・・宮崎市糸原(イトバル)、柏原(カシワバル)など20箇所
・鹿児島県・・・桜島赤生原(アコウバル)町、鹿児島市紫原(ムラサキバル)など17箇所
・沖縄県・・・那覇市宇栄原(ウエバル)、那覇市首里桃原(トウバル)町、南風原(ハエバル)町など28箇所
また「ハル」と読む地名もほとんどが九州に存在し、北九州市八幡区の上の原(ウエノハル)、福岡市東区唐原(トウノハル)を始め、福岡県28箇所、佐賀県4箇所、長崎県5箇所、熊本県11箇所、大分県24箇所があった。
しかし、宮崎県は高原(タカハル)町1箇所、鹿児島県もいちき串木野市大原(オオハル)町の1箇所のみであった。
沖縄にはなかった。
これを見ると、原を「バル」「ハル」と読むところは沖縄のみならず、九州にも数多く存在し、本州にはほとんどなかった。
また「原」を普通に「ハラ」と読む地名も九州・沖縄にはたくさん存在していて、この区別にどのような意味があるのかは良く判断が出来なかった。
沖縄県の(中頭郡)西原(ニシハラ)町に焦点を当ててみたい。
地図を見ると那覇市首里城から見て東北方向にある。
市のHPやWikipediaによると、この名前のいわれとして
「沖縄方言でニシは「北」を意味する言葉であり、西原とは琉球王国の中心であった首里の北に位置することに由来する。
西原間切(ニシハラマギリ)と呼ばれていたときには、現在の那覇市泊、天久、末吉、石嶺も当間切に含まれており、かなり広い範囲を占めていたが、後に那覇市に編入され、1920年にはほぼ現在のような領域となった。 」と書かれています。
どの説明も「ニシ」=「北」であると説明されていますが、地図を見ても首里城から東北方面(但し昔の間切区分時は泊地区なども含まれていたというので北ともいえる)であり、前回書いた通り、北ではなくやはり、森や山のある方向を意味したのではないだろうか。
地形図を見ても首里城から北方面は平野が広がっており、この現在の西原(にしはら)方面には山(森)があります。
地名の「西原(ニシハラ)」はかなり古い言葉で、新しく付けられた名前ではありません。
従って、沖縄や九州では「原」を「バル」「ハラ」を使い分けているように感じてなりません。
同じ意味ではないとするとその違いはどこにあるのでしょうか?

アイヌ語(縄文語)から探ってみましょう。
【para 広い・・・川下の低い場所 扇状地、沖積平野】⇒ 原(ハラ)
【haru 自然からの食べ物の恵み、豊漁猟】⇒ 原(ハル、バル)、畑(ハタケ)
この2つの違いで意味が違っているのではないかと考える。
「原(ハラ)っぱ」は今の本州の文字通り広い場所を意味し、
「原(バル)」は【haru kamuy】を「恵みの神」というように穀物など収穫の取れる場所を意味したのだろう。
このことからも、沖縄では畑のことを「ハル」「バル」といい、広い広場などを「ハラ」と表現していたのではないかと思う。
まあ、これはあくまでも想像でしかないが・・・。
「新治」を「ニイハリ」と読む場所と「ニイハル」などと読む場所も日本列島の各地に混在している。
これもこの「ハラ」と「ハル」と似たような感覚の違いがあったのかもしれない。
paraパラ については ヒラ(平)、ヒロ(広)などに変化したと考えられ、
【para-ke-i 広く あらしめる 所】⇒【haraki ハラキ、バラキ 開墾する】 となったと推察される。
日本書紀に「開、此れを波羅企(ハラキ、バラキ)と云う」と出てくる。
茨城の県名についても「バラキであり、開墾する意味があったのだろうといえる。
石岡市に「茨城台」と書いて、「バラキダイ」と読む地名がある。
ここは昔、国分寺より古い「茨城廃寺(バラキハイジ)」があった場所でもある。
これ以上は書くつもりもないが、【ibaraki:イバラキ は 広く有らしめたところ=開拓地】を意味していた。
もっとも、茨城の名前は、石岡で始まったものではなく、涸沼川の上流の笠間市小原辺りが発祥だろうから、その昔はこのオバラ周辺が茨城で開拓地であったものと考えられる。
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