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日本語と縄文語(22) 国譲り神話に隠された地名の謎

 武甕槌(タケミカヅチ)神と経津主(フツヌス)神の最強の武人が出雲に派遣され、降り立った場所が「五十田狹之小汀(いたさのおはま)」である。
ここは今は「稲佐(いなさ)の浜」と呼ばれる場所として神話観光の場所となっています。
弁天島が昔は岸からかなり離れていたといわれていますが、今では砂浜が続いています。

inasanohama.jpg
(稲佐の浜)

この浜は古事記の表現では「伊那佐の小浜(いなさのおはま)」と表現され、日本書紀には「五十田狹之小汀(いたさのおはま)」と書かれています。
しかし、少彦名(スクナヒコナ)がガガイモの舟に乗ってやってきた浜の名前は、日本書紀に「五十狭狭の小汀(いささのおはま)」となっています。

日本書紀では国譲りの話になると「五十狭狭(いささ)」⇒「五十田狹(いたさ)」に変わっているのです。
この表記の違いにどういう意味が隠されているのかは今の人たちにはわからなくなっているのです。
間違いなのではないかとか、もっと別な場所なのではないかとか・・・・

稲佐の浜
(Flood Mapsで海面を+3mとしたときの出雲)

これを鈴木健さんは縄文語で解いてしまいました。

まず、古事記の「伊那佐(いなさ)」と日本書紀の「五十狭狭(いささ)」は、
日本書紀でイサゴの表現があり、砂(石子 ⇒ 砂)をさし、関東でも砂のことをイナゴという地がある。
これから「イサ・イナ」とも石を意味し、「サ」は細かいとという意味で使われているので 共に「細かい石・砂」を指していると思われる。
すなわち、「伊那佐(いなさ)の小浜」「五十狭狭(いささ)の小汀」は共に ⇒ 『細かい小さな砂浜』となります。

では、これが国譲りの浜の名前になると何故「五十田狹(いたさ)」」に変わったのかを縄文語と解釈して解き明かしています。

【itasa イタサ : 渡す、与える】

国を 渡すか、渡さぬか・・・いたす【itasa 渡す】か、いたさぬ【itasa 渡さぬ】かと詰め寄った場所という意味が込められていたのでしょう。

このように奈良時代初め頃は土地に残る縄文人たちの言葉が、ある程度理解する人たちがいた、またはいくらかはまだ残されていたと考えられます。
それから1300年で言葉はほとんどわからなくなってしまったといってよいでしょう。


もう一つ古事記には、この国譲りの力比べの後、「多芸志之小浜(たぎしのおばま)」に天の御舎(あめのみあらか)を建てたと書かれています。

このて、多芸志の浜がどこなのか? 意味はどういう意味があるのか?
この「天の御舎」は何だったのか? 出雲大社との関係は?
などよくわかっていません。
本居宣長も古事記伝では「名ノ義いまだ思イ得ず」となっています。

古事記の研究者などもたくさんいますが、あまりこの「多芸志(たぎし)」については多岸ではないかとか、地名の似た場所を探してかなり離れた場所を提唱しているものも見かけます。
一般には上の地図に載せた「出雲市武志(たけし)町」であると地名から考えているものが多いようです。
ただ、現在は浜があるとすれば武志町の東側を宍道湖へ流れ込む斐伊川沿いを思い浮かべるようです。
しかし、当時の地形を海面を3mほど上げただけで大社側から大きな湖(内海)が出現します。
この内海の浜とみてもよさそうです。

この「多芸志(たぎし)」について鈴木健さんが縄文語としてついた地名とみて解説しています。

常陸国風土記に「倭武(やまとたける)の天皇、巡り行でまして、此の郷を過ぎたまうに、」「車駕(みくるま)の経ける道狭く地深浅(つちたぎたぎ)しかりき。悪しき路の義(こころ)を取りて、当麻(たぎま)と謂ふ。俗(くにひと)、多支多芸斯(たぎたぎし)といふ。」
と書かれています。
ここには「俗(くにひと)、多支多芸斯(たぎたぎし)といふ」となっていますので、この「タギタギシ」が昔から土着していた縄文系住民の言葉だということがわかります。

それをアイヌ語で考えてみると
【tak 塊、川の中のごろた石】/【taktak 玉、玉石、ごろた石】
【se 擬声或いは擬容の動詞をつくる語尾。もと’という’の意の動詞】
このことから【tak-tak-se ごろた石がゴロゴロしている】となる

日本語への変化を考えると
【taktakse ⇒ tagitagisi 多支多芸斯(タギタギシ)】となったと推論しています。

この裏付けとして、古事記に、ヤマトタケルが東国巡行の帰途、「当芸野(たぎの:美嚢国多芸郡の野のあたり)の上に到りましし時、」「吾が足得(え)歩く(あゆ)まず、当芸当芸斯玖(たぎたぎしく)成りぬ」と書かれており、解説ではこのタギタギシは「足もとがトボトボしてはかどらなくなった」とされています。
しかしアイヌ語から解釈すると「ゴロゴロした石の上を歩き、膝がガクガクする」ということを表したということになります。

このことから、出雲の「多芸志(たぎし)の小浜」は、

【tak-se】は石がゴロゴロした浜を意味し、「タギつ瀬」という言葉があり、原義はごろた石がある浅瀬であろう。

としています。

辞書を見ても、タギツ瀬も「滾瀬」「滝つ瀬」などの字を当て、滝のように激しくさかまき流れる瀬を意味していると書かれています。
(万葉(8C後)三・三一四「さざれ波磯越路なる能登湍(のとせ)河音のさやけさ多芸通(タギツ)瀬ごとに」)

でもこれも石のゴロゴロしている浅瀬の意味だったのかもしれません。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/23 08:17
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