日本語と縄文語(27) 少し振り返って息抜き
この「日本語よ縄文語」シリーズは新型コロナウイルスでの外出自粛が始まり、少しはそれに乗っかって動き回るのは辞めたいとはじめたもの。
緊急事態宣言も解除され、学校も始まった。
まだ正規の時間や日にちとはなっていないようで、昼前には学校帰りの小中学校生が街中を帰宅する姿が見られるようになった。
やはり賑やかになった気がするし、学校給食はナシのようでまだまだ不安は残るが、気分は少しだけだけれど明るくなる。
そろそろこのシリーズもネタ切れと、こちらが始めなければならない用事も出てきたので、どこかで終らせなければならない。
読んでいただいて少し面白いと感じていただけたのなら、鈴木健さん以外にも縄文語の本はいろいろ出ているので捜してみてください。
私は、このシリーズを書き始める前は、この「縄文語」というものには半分懐疑的な気持がありました。
しかし、調べながら書いていくうちに徐々に理解が進むと、大変面白い世界だとの認識に変わってきました。
まったくの素人の私が、あまり理解もせずに本に書かれている内容を自分なりに調べ、興味深そうな内容のみを自分の視点として捉えて書くようにしたつもりです。
でも人のご本を勝手に引用させていただいたのには訳もあります。
ふるさと風の会の創設者で脚本家でもあった白井啓治さんが、東京からこの石岡にやって来て、こちらの書店で鈴木健さんの「常陸国風土記と古代地名」の本を偶然見つけました。

地元の方で、こんな本を書く方がおられるのだととても興味をもたれたようです。
そして、あるときに連絡を取られて、風の会にも時々原稿を投稿いただけるようになった。
2010年5月よりほぼ毎月のように原稿を頂き、2012年1月からはり「茨城の縄文語地名」というタイトルで10回に亘って原稿を頂いた。
あの「新治筑波を過ぎて…」の記事で議論を巻き起こしたのは2010年8月であった。
しかし、私がこの風の会に入ったのは、2012年11月号からなので、この原稿を頂いていた時はあまり知らずにいた。
また直接お会いする機会はなかった。
それから1年半ほど鈴木氏は風の会とはブランクがあったが、、今からおよそ6年程前の、風の会100号記念展覧会(2014年9月)にて、私は始めて鈴木健さんとお会いしました。
100号記念特集号では【『水戸藩史料』成立の経緯】というタイトルの記事を頂いた。当時私も未熟でなかなか読みきる力もなかったのだが、偉い方だと緊張していたが、比較的ざっくばらんな気さくな方だった。
それからまた暫くはご無沙汰だったのだが、約2年後の2016年10月より「落穂拾い」とのタイトルで、6回にわたり投稿された。
最後が2017年4月。
そして本会の白井先生が昨年突然の他界。
鈴木健さんも最近は原稿を書くことはなくなり、自宅より施設の方に移られたと聞いた。
また本や風の会の会報を読むのもままならないと・・・・。
今思うに、現行のタイトルも「落穂ひろい」であり、ご自身のお調べになって残しておきたい事を本会に投稿してくださったのだと思う。
私は以前頂いた「日本語になった縄文語」の本読み、こうして紹介させていただくのも鈴木先生の「落穂拾い」のタイトルに後ろを押されたような気持ちがしているからです。
私の知識ではとても紹介は無理なのですが、今までいろいろな記事を書いてきて、歴史や文学、言語学などに縁のない人達へ少しでもこのような解釈がある事を伝えられればと願っているのです。
この縄文語の解釈も、日本語の真実に近ずくヒントになるように思います。
私は、文学、歴史学、言語学などどれをとっても直接勉強されてきた方には遠く及びません。
しかし、科学や物理学、工学、数学などの方が好きであった私の目には現状の歴史学(古代)は権力者が捻じ曲げた噓の上にのっており、いまにも土台が崩れそうな岩の上にすわっているようでとても落ち着きません。
まあ、そんな見方をしている私はきっと天邪鬼なのかもしれませんね。
現状の住んでいる町も、私はよそ者ですから、ふるさとというにはあまりにも冷たく感じます。
まあ、自分からわだかまりを捨てて、この都市の同じ地元の学校出の仲間同士で楽しくやっている中に、飛び込めばきっと変ってくるとは思いますが・・・・
わたしが「石岡地方のふるさと昔話」という本を出した時に、常陽新聞でとり上げていただきました。
そのときに、「わたしにはふるさとがない。そのため、ふるさとを求め続けているのです」と申し上げたことを今も思い出します。
緊急事態宣言も解除され、街の子供たちがまた学校に行き始めました。
まだ給食は無いのでお昼前には下向する子供たちの笑顔が見れ、うれしく思います。
今日は朝からまた銚子へ出かけます。
しばらくは三密をさけ、あまりあちこちへはいけませんが、そのうちまた地方の歴史散策へ出かけたいと思っています。
緊急事態宣言も解除され、学校も始まった。
まだ正規の時間や日にちとはなっていないようで、昼前には学校帰りの小中学校生が街中を帰宅する姿が見られるようになった。
やはり賑やかになった気がするし、学校給食はナシのようでまだまだ不安は残るが、気分は少しだけだけれど明るくなる。
そろそろこのシリーズもネタ切れと、こちらが始めなければならない用事も出てきたので、どこかで終らせなければならない。
読んでいただいて少し面白いと感じていただけたのなら、鈴木健さん以外にも縄文語の本はいろいろ出ているので捜してみてください。
私は、このシリーズを書き始める前は、この「縄文語」というものには半分懐疑的な気持がありました。
しかし、調べながら書いていくうちに徐々に理解が進むと、大変面白い世界だとの認識に変わってきました。
まったくの素人の私が、あまり理解もせずに本に書かれている内容を自分なりに調べ、興味深そうな内容のみを自分の視点として捉えて書くようにしたつもりです。
でも人のご本を勝手に引用させていただいたのには訳もあります。
ふるさと風の会の創設者で脚本家でもあった白井啓治さんが、東京からこの石岡にやって来て、こちらの書店で鈴木健さんの「常陸国風土記と古代地名」の本を偶然見つけました。

地元の方で、こんな本を書く方がおられるのだととても興味をもたれたようです。
そして、あるときに連絡を取られて、風の会にも時々原稿を投稿いただけるようになった。
2010年5月よりほぼ毎月のように原稿を頂き、2012年1月からはり「茨城の縄文語地名」というタイトルで10回に亘って原稿を頂いた。
あの「新治筑波を過ぎて…」の記事で議論を巻き起こしたのは2010年8月であった。
しかし、私がこの風の会に入ったのは、2012年11月号からなので、この原稿を頂いていた時はあまり知らずにいた。
また直接お会いする機会はなかった。
それから1年半ほど鈴木氏は風の会とはブランクがあったが、、今からおよそ6年程前の、風の会100号記念展覧会(2014年9月)にて、私は始めて鈴木健さんとお会いしました。
100号記念特集号では【『水戸藩史料』成立の経緯】というタイトルの記事を頂いた。当時私も未熟でなかなか読みきる力もなかったのだが、偉い方だと緊張していたが、比較的ざっくばらんな気さくな方だった。
それからまた暫くはご無沙汰だったのだが、約2年後の2016年10月より「落穂拾い」とのタイトルで、6回にわたり投稿された。
最後が2017年4月。
そして本会の白井先生が昨年突然の他界。
鈴木健さんも最近は原稿を書くことはなくなり、自宅より施設の方に移られたと聞いた。
また本や風の会の会報を読むのもままならないと・・・・。
今思うに、現行のタイトルも「落穂ひろい」であり、ご自身のお調べになって残しておきたい事を本会に投稿してくださったのだと思う。
私は以前頂いた「日本語になった縄文語」の本読み、こうして紹介させていただくのも鈴木先生の「落穂拾い」のタイトルに後ろを押されたような気持ちがしているからです。
私の知識ではとても紹介は無理なのですが、今までいろいろな記事を書いてきて、歴史や文学、言語学などに縁のない人達へ少しでもこのような解釈がある事を伝えられればと願っているのです。
この縄文語の解釈も、日本語の真実に近ずくヒントになるように思います。
私は、文学、歴史学、言語学などどれをとっても直接勉強されてきた方には遠く及びません。
しかし、科学や物理学、工学、数学などの方が好きであった私の目には現状の歴史学(古代)は権力者が捻じ曲げた噓の上にのっており、いまにも土台が崩れそうな岩の上にすわっているようでとても落ち着きません。
まあ、そんな見方をしている私はきっと天邪鬼なのかもしれませんね。
現状の住んでいる町も、私はよそ者ですから、ふるさとというにはあまりにも冷たく感じます。
まあ、自分からわだかまりを捨てて、この都市の同じ地元の学校出の仲間同士で楽しくやっている中に、飛び込めばきっと変ってくるとは思いますが・・・・
わたしが「石岡地方のふるさと昔話」という本を出した時に、常陽新聞でとり上げていただきました。
そのときに、「わたしにはふるさとがない。そのため、ふるさとを求め続けているのです」と申し上げたことを今も思い出します。
緊急事態宣言も解除され、街の子供たちがまた学校に行き始めました。
まだ給食は無いのでお昼前には下向する子供たちの笑顔が見れ、うれしく思います。
今日は朝からまた銚子へ出かけます。
しばらくは三密をさけ、あまりあちこちへはいけませんが、そのうちまた地方の歴史散策へ出かけたいと思っています。
コメント