千葉の難読地名(8) 虫生
≪虫生≫ むしょう 横芝光町

文禄3年(1594)の検地帳に「佐倉領之内虫生」とある。(平凡社 郷土歴史辞典)
この少し変った地名「虫生」(むしょう)というのは結構全国にあります。
読み方は「むしょう」むしゅう」「むしう」などです。
・新潟県上越市虫生岩戸 むしょういわと
(江戸時代中頃までは、虫生村と岩戸村に分かれていた)
・長野県下高井郡野沢温泉村虫生 むしう
・静岡県磐田市虫生 むしゅう
(古代には「蒸湯(ムシユ)」と呼称していたとも伝わる)
・滋賀県甲賀市水口町虫生野 むしょうの
・滋賀県野洲市虫生 むしゅう
・兵庫県豊岡市但東町虫生 むしゅう
・兵庫県川西市虫生 むしゅう
・福岡県遠賀郡遠賀町虫生津 むしょうづ
(その他)
千葉県山武市武勝 むしょう
福井県三方上中郡若狭町武生 むしゅう
(地名は「虫生」、「虫尾」とも表記したという)
この地名由来はどこにもはっきりした事はかかれていませんが、恐らく麻糸原料の草「苧麻(からむし)」が繁茂する土地という意味だと思われます。
衣料品に主に使われている麻の繊維は、亜麻(リネン)、苧麻(ラミー)、大麻( ヘンプ)の三つがありますが、苧麻(カラムシ)(別名、マオ・チョマ)はどこにでも生えている多年草の草です。
それぞれの植物の茎のじん皮部から採取される植物繊維を使うのですが、苧麻は昔から日本にも自生していた植物だと言われています。
大変強く繊維としての価値は非常に高かったようです、現在は福島県会津と沖縄県くらいでしか生産されていません。
この会津(昭和村)の苧麻から作られた糸が新潟県小千谷市で有名な「小千谷縮み」に使われています。
苧麻の呼び名は、昔からちょま、まお、からそなどと呼ばれてきましたが、中国から品種改良された品種が入ってきて「からむし」と呼ばれるようになったのではないかと思われます。
そのため、古来からある草でしたが、外国から渡って来た意味で「から(唐)」がついたのではないでしょうか。
現在は一般的には麻製品としては、苧麻は「ラミー」と呼ばれ、「リネン(亜麻)」と並んでアパレル界の麻繊維の代名詞になっています。
また、虫(むし)とつくのは、蚕の絹とどこかでイメージがつながって呼ばれたか。または途中に「蒸す」工程があることも呼び名に影響があったかもしれません。
この麻糸を作るための集団が前回の地名(生実)に出てきた「麻績部(おみべ、おみのむらじ)」といわれています。
千葉県の「生」の字が使われている地名を紹介してきましたが、とりあえず今回でこの「生」は終わりにします。
残された名前には次のものがあります。
<ウ>地名:植物や穀物などの採れた場所?
千葉県南房総市富浦町丹生 にゅう
千葉県印旛郡栄町麻生 あそう
千葉県山武市麻生新田 あそうしんでん
千葉県市原市朝生原 あそうばら
千葉県千葉市稲毛区園生町 そのうちょう
千葉県成田市大生 おおう
千葉県富津市萩生 はぎう
千葉県君津市釜生 かもう
<その他>
千葉県千葉市若葉区愛生町 あいおいちょう
千葉県木更津市菅生 すごう
千葉県野田市座生 ざおう
千葉県香取市神生 かんのう
千葉県千葉市稲毛区弥生町 やよいちょう
千葉県柏市弥生町 やよいちょう
また、山武市松尾町八田の小字名に「生子宿」という地名があります。
読み方は「はだかじゅく」です。
現在は総武線の松尾~横芝間に「生子宿踏切」という名前が残されています。
最後にこの横芝光町の「虫生の里」につたわる<鬼来迎>の昔話を紹介します。
<鬼来迎>は鬼舞とも呼ばれ、地獄を再現した劇で、仏教の因果応報の理法を説いた大変珍しい仏教劇である。
この由来は、鎌倉時代の初期、後鳥羽院の時代に遡る。薩摩の国の禅僧石屋が、衆生済度のため諸国を遊行の途中、虫生の里に立ち寄り、この地の辻堂を仮寝の宿としたとき、妙西信女という十七歳の新霊が鬼どもに責められている様を見た。翌日、墓参に来た妙西の父・椎名安芸守と、妻・顔世と言葉をかわすことになったが、新霊は、この地の領主・安芸守の一人娘とわかった。請われるままに真夜中に見た地獄絵さながらの様子を話すと、安芸守は自分の悪行を悔い、娘の法名、妙西を広西と改め、彼女の墓堤を弔うために建久七年(1196年)仲夏、慈士山地蔵院広西寺を建立し、その開山となった。
ところが、その年の仲夏六日、虫生の里に突然雷雨が起こり、寺の庭に青・黒・赤・白の鬼面と、祖老母の面等が天降ってきた。不思議に思った石屋は、これを寺内にとどめておいた。
一方、当時鎌倉に居住していた運慶・湛慶・安阿弥の三人の彫刻師が、ある時偶然に、石屋と安芸守夫婦が亡き娘の卒塔婆をたてて、菩薩に済度されたという情景を夢に見て感動し、はるばる虫生の里を訪ねて石屋に逢った。石屋は三人にかつて辻堂で見た地獄の呵責のの様子と、それを救われた菩薩の大悲のありさまを詳しく話し、その姿を来世に残して、大衆の教化をはかりたい意向をのべたので、三人は早速、閻魔大王、倶生神、祖老母、黒鬼、赤鬼等の面象を彫刻し、出来上がった面をそれぞれ顔に当て、石屋もまた僧徒を集めて鬼に扮して、八月十六日に演じてみせた。そしてその後も、地獄の相・菩薩の威力を示す「鬼来迎」は、毎年八月十六日に行われるようになったといわれている。(横芝光町商工会HP)
千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

文禄3年(1594)の検地帳に「佐倉領之内虫生」とある。(平凡社 郷土歴史辞典)
この少し変った地名「虫生」(むしょう)というのは結構全国にあります。
読み方は「むしょう」むしゅう」「むしう」などです。
・新潟県上越市虫生岩戸 むしょういわと
(江戸時代中頃までは、虫生村と岩戸村に分かれていた)
・長野県下高井郡野沢温泉村虫生 むしう
・静岡県磐田市虫生 むしゅう
(古代には「蒸湯(ムシユ)」と呼称していたとも伝わる)
・滋賀県甲賀市水口町虫生野 むしょうの
・滋賀県野洲市虫生 むしゅう
・兵庫県豊岡市但東町虫生 むしゅう
・兵庫県川西市虫生 むしゅう
・福岡県遠賀郡遠賀町虫生津 むしょうづ
(その他)
千葉県山武市武勝 むしょう
福井県三方上中郡若狭町武生 むしゅう
(地名は「虫生」、「虫尾」とも表記したという)
この地名由来はどこにもはっきりした事はかかれていませんが、恐らく麻糸原料の草「苧麻(からむし)」が繁茂する土地という意味だと思われます。
衣料品に主に使われている麻の繊維は、亜麻(リネン)、苧麻(ラミー)、大麻( ヘンプ)の三つがありますが、苧麻(カラムシ)(別名、マオ・チョマ)はどこにでも生えている多年草の草です。
それぞれの植物の茎のじん皮部から採取される植物繊維を使うのですが、苧麻は昔から日本にも自生していた植物だと言われています。
大変強く繊維としての価値は非常に高かったようです、現在は福島県会津と沖縄県くらいでしか生産されていません。
この会津(昭和村)の苧麻から作られた糸が新潟県小千谷市で有名な「小千谷縮み」に使われています。
苧麻の呼び名は、昔からちょま、まお、からそなどと呼ばれてきましたが、中国から品種改良された品種が入ってきて「からむし」と呼ばれるようになったのではないかと思われます。
そのため、古来からある草でしたが、外国から渡って来た意味で「から(唐)」がついたのではないでしょうか。
現在は一般的には麻製品としては、苧麻は「ラミー」と呼ばれ、「リネン(亜麻)」と並んでアパレル界の麻繊維の代名詞になっています。
また、虫(むし)とつくのは、蚕の絹とどこかでイメージがつながって呼ばれたか。または途中に「蒸す」工程があることも呼び名に影響があったかもしれません。
この麻糸を作るための集団が前回の地名(生実)に出てきた「麻績部(おみべ、おみのむらじ)」といわれています。
千葉県の「生」の字が使われている地名を紹介してきましたが、とりあえず今回でこの「生」は終わりにします。
残された名前には次のものがあります。
<ウ>地名:植物や穀物などの採れた場所?
千葉県南房総市富浦町丹生 にゅう
千葉県印旛郡栄町麻生 あそう
千葉県山武市麻生新田 あそうしんでん
千葉県市原市朝生原 あそうばら
千葉県千葉市稲毛区園生町 そのうちょう
千葉県成田市大生 おおう
千葉県富津市萩生 はぎう
千葉県君津市釜生 かもう
<その他>
千葉県千葉市若葉区愛生町 あいおいちょう
千葉県木更津市菅生 すごう
千葉県野田市座生 ざおう
千葉県香取市神生 かんのう
千葉県千葉市稲毛区弥生町 やよいちょう
千葉県柏市弥生町 やよいちょう
また、山武市松尾町八田の小字名に「生子宿」という地名があります。
読み方は「はだかじゅく」です。
現在は総武線の松尾~横芝間に「生子宿踏切」という名前が残されています。
最後にこの横芝光町の「虫生の里」につたわる<鬼来迎>の昔話を紹介します。
<鬼来迎>は鬼舞とも呼ばれ、地獄を再現した劇で、仏教の因果応報の理法を説いた大変珍しい仏教劇である。
この由来は、鎌倉時代の初期、後鳥羽院の時代に遡る。薩摩の国の禅僧石屋が、衆生済度のため諸国を遊行の途中、虫生の里に立ち寄り、この地の辻堂を仮寝の宿としたとき、妙西信女という十七歳の新霊が鬼どもに責められている様を見た。翌日、墓参に来た妙西の父・椎名安芸守と、妻・顔世と言葉をかわすことになったが、新霊は、この地の領主・安芸守の一人娘とわかった。請われるままに真夜中に見た地獄絵さながらの様子を話すと、安芸守は自分の悪行を悔い、娘の法名、妙西を広西と改め、彼女の墓堤を弔うために建久七年(1196年)仲夏、慈士山地蔵院広西寺を建立し、その開山となった。
ところが、その年の仲夏六日、虫生の里に突然雷雨が起こり、寺の庭に青・黒・赤・白の鬼面と、祖老母の面等が天降ってきた。不思議に思った石屋は、これを寺内にとどめておいた。
一方、当時鎌倉に居住していた運慶・湛慶・安阿弥の三人の彫刻師が、ある時偶然に、石屋と安芸守夫婦が亡き娘の卒塔婆をたてて、菩薩に済度されたという情景を夢に見て感動し、はるばる虫生の里を訪ねて石屋に逢った。石屋は三人にかつて辻堂で見た地獄の呵責のの様子と、それを救われた菩薩の大悲のありさまを詳しく話し、その姿を来世に残して、大衆の教化をはかりたい意向をのべたので、三人は早速、閻魔大王、倶生神、祖老母、黒鬼、赤鬼等の面象を彫刻し、出来上がった面をそれぞれ顔に当て、石屋もまた僧徒を集めて鬼に扮して、八月十六日に演じてみせた。そしてその後も、地獄の相・菩薩の威力を示す「鬼来迎」は、毎年八月十六日に行われるようになったといわれている。(横芝光町商工会HP)
千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから
コメント