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千葉の難読地名(29) 丁子

≪丁子  ようろご≫ 香取市、香取市大倉

『丁』という漢字を「ヨウロ」と読む地名が全国に数件ある。
これはかなり古いもので、律令制の始まり頃にあったようだ。

千葉難読地名29


もともとの「丁」は象形文字で、釘を垂直に立てた形状を文字にしたものといわれている。
また読み方も「ちょう」「てい」などは普通に使われるが、それ以外に
・「ひのと」(火の弟)・・・、十干の4番目で、陰陽五行説では火性の陰に割り当てられているため。
・「よぼろ」「よほろ」「ようろ」・・・漢字では「膕」(ひかがみ、よほろ)と書き、膝の裏のくぼんだところを指す言葉だった。

現在朝鮮語で、「ねえあなた」というような言い方を「ヨボ」というが、古代朝鮮語の「ヨボ」は、若者を呼ぶ言葉であったようだ。(注1)

日本でも防人(さきもり)の時代の階級には

1、【國造丁 こくぞうのてい】:軍団長とされていたが、従軍神職(神官)ではないかとされている
2、【助丁 すけよぼろ】:福軍団長とされていたが、おそらくは一番上。
3、【主帳 しゅちょう】:文章の伝達が役目の官職。防人の中で選ばれた者。
4、【火長 かちょう】:10人ほどのリーダー的な存在。
5、【上丁 かみつよぼろ】:一般兵士。
とあった。
昔は「よぼろ 丁」は若者をさした言葉であったようだが、次第にこの「上丁(かみつよぼろ)」をいうようになり、令制では課役負担者となる成年男子(21~60歳)を指した言葉となった。


≪丁子  ようろご≫ 香取市、香取市大倉

古くは鎌倉時代の1300年頃に確認される村名で「丁古村」と書かれていた。香取社神領の一つだった。

地名は香取神宮祭に御輿を担ぐ若者(丁)を出す地域で、本来は神主(大宮司)の職領であったと考えられます。
(香取郡誌)(角川 日本地名大辞典)

現在の京都市左京区八瀬に「八瀬童子(やせどうじ)」と呼ばれる人々が住んでいたが、これらの人々は比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めていた。そして室町時代にはいると天皇の駕輿丁とか、棺を担ぐ役なども行っていたという。
この輿を担ぐ役を駕輿丁(かよちょう)といったのだ。駕輿丁は課役免除の特権が与えられたという。


さて、江戸時代からたくさんある屋号に「丁子屋(ちょうじや)」があるが、これは、丁子(ちょうじ)という香料を扱う店であった。
丁子(ちょうじ)は、フトモモ科の木であるチョウジノキの開花前の蕾を乾燥させたもので、その形状が釘に似ていることから丁子という名が付いた。現在では一般的な呼び名は「グローブ」と呼ばれる。

この丁子屋は、丁子に由来する商号で、丁子の絵柄が含まれる家紋を持つ商家が名乗った。
とろろ汁・丁子油・香料・漢方薬など)の丁子に関する商売を行う者が屋号として使うケースもあったという。
そこから広がって、植物に関係する職業(藍染屋)などでも、丁子屋の屋号が使われ出して各地に広まったものだ。

石岡(茨城県)にも江戸時代の商屋「丁子屋」がのこされており、この建物の元は染物屋だった。
現在は観光用の「まち蔵藍」として利用されている。

また江戸時代には日本刀の手入れに「丁子油」が使われた。そのため、刃物の町とも言われた大阪市堺市にもこの屋号の店が残されている。

その他「丁」=「ようろ」地名を探すと、
福井県大野市上丁 かみようろ
福井県大野市下丁 しもようろ
福井県大野市中丁 なかようろ
滋賀県長浜市小谷丁野町 おだにようのちょう

がありました。
福井県大野市の「ほたるの里」といわれる3つの「ようろ」地名には、次のような話がついていました。

<丁(ようろ)の由来>

「昔、昔、お嶽山(飯降(いふり)山)の山上で、美人の尼さんが、三人、姉妹同様仲よく修行を積んでいたそうです。この三人の尼さんの、仏道への熱心な修業、精進ぶりに、天の神様が毎日、三度三度、三箇の大きなおにぎりを降らして下さったということです。
このことから、この山を「飯降山」と呼び、麓の村を飯降村と、呼ぶようになったのだそうです。

ところが、ある時のこと、三人の意見が、幾度話し合ってもくいちがって、そのことがもとで、一緒に暮らすことにひびが入り、毎日の修行にも差しつかえが出るようになりました。そうするうちに、どうしたことか、ピタリと天からおにぎりが降らなくなり、三人は飢えと、寒さに耐えられなくなって、よろよろとよろけながら、山を降りることになりました。

途中の急な坂では、三人が三人とも、ころころと転んで、すべり落ちたという場所が、今でもあります。「尼転ばし」と呼ばれる坂がそれです。 大へんな苦労をしながら、三人の尼僧は手足をすりむいて、血だらけになり、膝頭やお尻を思いきり木や岩角に打ちつけて、着ていた着物がさけたり、破られて、ぼろぼろになって、空腹と疲労で、よろよろと倒れんばかりに杖にすがって、お嶽山の北の方へ下山してきたのでした。

この麓の地名が「丁(ようろ)」といわれるのは、この三人の尼僧が、T形の杖をつき、よろよろ、よろよろ、よろよろと、よろめきながら降りついてきた土地だからだという言い伝えがあります。 そして、一番年上の尼僧が上丁に、次の尼僧が中丁に、一番若い尼僧が下丁に、それぞれ住みついて、上・中・下の丁の村の御先祖様になられたそうです。
三人の尼様は、下山してきてからはまた仲よくなって、行き来はされていたらしいのですが、三人一しょに仲よく住むことは、もうなかったということです。」

どうですか。地名由来もこうなるのですね。


<丁=マチ>地名

千葉県夷隅郡大多喜町新丁 しんまち
千葉県夷隅郡大多喜町田丁 たまち

(注1) 読者の方より「韓国人をさげすんで読んだ呼び名といわれる「ヨボ」について、古代韓国語での言葉として使われていたという根拠はない」とのご指摘を受けました。
確かにこれを示す根拠はなく、この言葉と古代朝鮮を結びつけるものは見つかりません。
この表現は現段階では適切ではなく、ここに訂正させていただきます。(2020.11.26 by Roman)


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千葉の難読地名 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/06/25 20:00
コメント
No title
「千葉の難読地名(29)丁子」を拝見させて頂きました。このブログがきっかけの一つとなり「よほろ」の名の由来について興味を持ち調べてきた者です。そうしてまず「よほろ」の語源が「ヨボ」であるとする説が紹介されていましたのでその説の発案者である斎藤喜一氏に連絡を取りなぜこのような説を考えるに至ったかをお伺いしました。結論から言いますと古代日本語の「よほろ、よぼろ」と現代韓国語の「ヨボ」は全く無関係のようです。斎藤喜一氏によりますと古代韓国語に「ヨボ」が存在するとする資料もなくまた存在すると主張する韓国研究者も居らず実際私も見つけられませんでした。ではなぜ現代韓国語「ヨボ」と古代日本語の「よほろ」が結びついたのか伺ったところ

①戦前日本人が韓国人がヨボと呼び合う様を揶揄して差別的な韓国人名称として用いた例を挙げて
②古代韓国語においても「ヨボ」という語が存在しただろうと無根拠に推測し(これは本人も言う通り資料も研究者も存在しない)
③また古代日本においても戦前と同じように「ヨボ」と呼び合う韓国人集団が存在し戦前と同じように古代日本人も彼らを「ヨボ」と呼んだとし
④「ヨボ」と呼び合っていた集団が労働していた為に労働自体を「ヨボ」と呼ぶようになったと仮定し
⑤更に律令制度の「丁」の移入時に大和言葉の訓として韓国語を取り言えれて「ヨボ=ヨボロ」とした
こういうほぼ空想に近い仮定の話で実際の話ではないようです。
実際の「丁=よほろ」の語源は京都大学の論文「<ノート>防人「国造丁」についての考察 : 律令時代における氏姓国造の遺制に関わって」において「丁はヨボロと訓む。ヨボロは脚のヒカガミ。人夫は脚力を要したので、丁はヨボロという」と記されている通りで、また平安時代の辞書「倭名類聚抄」においても「労働において足を曲げ伸ばしすることから」として「和名与保呂」として「よほろ」という響きが登場しています。どうやら「よぼろ、よほろ」は古代日本語のひかがみを指す名称又はそれに関連する語としてもともと存在し、そこに唐から律令を移入するに当たって「丁」の字を訓じるに際しよほろをよく使う役目である為に「よほろ」という訓が当たられたという事らしいです。
私も「よほろ」に関係する者で無根拠な説が流布されるのは気持ちの良いものではありません。ブログ主様におかれましては「よほろ」の語源を「ヨボ」とする部分について訂正を行って頂けないでしょうか。よろしくお願いします
Re: No title
コメントありがとうございます。
丁寧なご指摘、感謝いたします。

一部訂正させていただきました。

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