千葉の難読地名(30) 求名 墨名
≪求名 ぐみょう≫ 東金市
≪墨名 とな≫ 勝浦市

≪求名 ぐみょう≫ 東金市
室町期にすでに郷名として『郡名(ぐみょう)郷』と出ている。
文禄3年(1594)の上総国村高帳には「求石村」とあり、寛永2年(1625)には「公名村」とある。
求名村(ぐみょうむら)の名前のいきさつについては次のような話が伝わっている。
「徳川家康が鷹狩りの際に付近を訪れ、「この地はなんという所か?」と問いかけた。
とっさに家来が、名を求められたのだから、求名にしようと「求名と申します」と答えたので「求名」になった。
または、家康の鷹狩り時に、村に名前がなかったことから、村人は家康公に村名を付けくれるように依頼した。
その時に家康は即座に「求名」と名付けたという。」
この家康の命名説についてはもう一つ別な地名もあります。
この九十九里に来る前(慶長19年(1614)1月)に家康は、船橋御殿で休憩した後、東金に向かった時です。
途中立ち寄った村で、出迎えを受けたのですが、村人は、何を献上して良いか迷い、自分の土地で獲れた「籾」を恐る恐る家康に差し出したのです。これを受け家康は、この地の人たちが農業に精出していることに感心し、この地を「実籾(みもみ)」と名付けたといわれています。(習志野市)
まあこの名前由来はどこまで信じてよいか迷うところですが、新しく新田開発をして、その昔の郷名=郡名(ぐみょう)を別な字で置き換えて考え出されたものなのかも知れません。
同じ「求名=ぐみょう」という地名が別に1箇所あります。
鹿児島県薩摩郡さつま町求名 ぐみょう
こちらの地名の由来も良くわかりません。
≪墨名 とな≫ 勝浦市
勝浦湾に南面する丘陵上に位置する。
慶長6年(1601)の検地帳に伊保庄夷隅郡新官之郷墨名村とある。
地名は「黒土名(くろとな)」が転化したものといい、黒土の浦がつづまったものとも言う。(角川 日本地名大辞典)
その他、昔、この地に春部直黒生賣(はるべあたえくろうめ)という者がいたこと「くろとな」となり、「とな」と変化した。
などもありました。
(「とな」 地名を探すと)
千葉県千葉市中央区仁戸名町 となちょう
沖縄県国頭郡国頭村辺土名 へんとな
がありました。やはり地形が関係する言葉だったのかもしれません。
千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから
≪墨名 とな≫ 勝浦市

≪求名 ぐみょう≫ 東金市
室町期にすでに郷名として『郡名(ぐみょう)郷』と出ている。
文禄3年(1594)の上総国村高帳には「求石村」とあり、寛永2年(1625)には「公名村」とある。
求名村(ぐみょうむら)の名前のいきさつについては次のような話が伝わっている。
「徳川家康が鷹狩りの際に付近を訪れ、「この地はなんという所か?」と問いかけた。
とっさに家来が、名を求められたのだから、求名にしようと「求名と申します」と答えたので「求名」になった。
または、家康の鷹狩り時に、村に名前がなかったことから、村人は家康公に村名を付けくれるように依頼した。
その時に家康は即座に「求名」と名付けたという。」
この家康の命名説についてはもう一つ別な地名もあります。
この九十九里に来る前(慶長19年(1614)1月)に家康は、船橋御殿で休憩した後、東金に向かった時です。
途中立ち寄った村で、出迎えを受けたのですが、村人は、何を献上して良いか迷い、自分の土地で獲れた「籾」を恐る恐る家康に差し出したのです。これを受け家康は、この地の人たちが農業に精出していることに感心し、この地を「実籾(みもみ)」と名付けたといわれています。(習志野市)
まあこの名前由来はどこまで信じてよいか迷うところですが、新しく新田開発をして、その昔の郷名=郡名(ぐみょう)を別な字で置き換えて考え出されたものなのかも知れません。
同じ「求名=ぐみょう」という地名が別に1箇所あります。
鹿児島県薩摩郡さつま町求名 ぐみょう
こちらの地名の由来も良くわかりません。
≪墨名 とな≫ 勝浦市
勝浦湾に南面する丘陵上に位置する。
慶長6年(1601)の検地帳に伊保庄夷隅郡新官之郷墨名村とある。
地名は「黒土名(くろとな)」が転化したものといい、黒土の浦がつづまったものとも言う。(角川 日本地名大辞典)
その他、昔、この地に春部直黒生賣(はるべあたえくろうめ)という者がいたこと「くろとな」となり、「とな」と変化した。
などもありました。
(「とな」 地名を探すと)
千葉県千葉市中央区仁戸名町 となちょう
沖縄県国頭郡国頭村辺土名 へんとな
がありました。やはり地形が関係する言葉だったのかもしれません。
千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから
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