千葉の難読地名(61) 太田学 天津 天面 天羽田
≪太田学 おだがく≫ 鴨川市
≪天津 あまつ≫ 鴨川市
≪天面 あまつら≫ 鴨川市
≪天羽田 あもうだ≫ 市原市

≪太田学 おだがく≫ 鴨川市
加茂川支流銘川の左岸に位置する。
場所は加茂川沿いに長狭街道が走るが、その川の支流(銘川)が北に延びており、この支流に沿った川洲地帯に「廻塚」「打墨」の集落が続き、だいぶ奥まった山の麓付近だ。
「おだがく」地名は、「あう(合)・た(処)・かけ(欠)」の転訛で川が合流する地辷り地という意味という。
確かに川が合流するような地形に見えるが、アイヌ語の【ota 砂】もあるが、川砂地帯ではなさそうだ。
ただ、学問を連想させるような施設等はなさそうだ。
太田学村は、寛文元年に池田村から分村して成立。
元禄郷帳に「池田太田学村」と記されており、江戸時代は頭に「池田」を付していた。
≪天津 あまつ≫ 鴨川市
内房線「安房鴨川駅」から先が外房線になるが、その1つ先の駅が「安房天津駅」である。
この外房入口の海岸付近が「天津」である。
そして、すこし湾になっており、天津漁港がある。
鎌倉期にすでに、天津の地名があった。
江戸期は天津村といった。
1)「天=あま=海士=海人族」+「津=湊=みなと」 というのが最も地名として連想しやすい。
2)その他、山側にも「あま」と付く地名はたくさんあり、それらが崩壊した丘陵などにつけられていることから、「地崩れ地」との解釈もある。
3)また、【a ア:上 +mum 草】などで草の多い台地などとも考えられる。
やはりこの鴨川の地名は1)であろう。
・京都府福知山市下天津 しもあまづ
こちらは山に囲まれた谷地形の由良川沿いの地名で、やはり津は「湊」であると思われるが、「天」は「地崩れ地」などが語源であろう。
≪天面 あまつら≫ 鴨川市
内房線の安房阿持側駅より手前、「江見」と「太海」駅の間の海岸沿いの集落である。
海岸近くまで山が迫っており、細長い集落を形成している。
江戸期から天面村であり、また天津良村とも書いた。
やはり「天=海士」で海人族が住んだところ、または、水辺の側の崩壊した丘陵が連なっている地形を指したのではないかと思われる。
≪天羽田 あもうだ≫ 市原市
養老川下流左岸の丘陵上に位置する。
江戸初期には姉ヶ崎村の枝郷であったと思われる。
元禄14年(1701)の日記に「天羽田新田」と見える。明治初年に姉ヶ崎村に合併される。
現在の地名としては昭和52年に大字名となった。
地区の西側台地は大正初期頃から開墾がなされ、落花生・スイカ・里芋・大根などが栽培されている。
地名は、「天=崩壊した丘陵 + 羽=埴=粘土のとれる + 田」で、崩れやすい粘土質の土地ではないかという。
その他の千葉で、天を「あま」とよむ地名には
・ 天戸町 あまどちょう 千葉市花見川区
・ 天辺 あまべ 佐倉市
がある。
千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから
≪天津 あまつ≫ 鴨川市
≪天面 あまつら≫ 鴨川市
≪天羽田 あもうだ≫ 市原市

≪太田学 おだがく≫ 鴨川市
加茂川支流銘川の左岸に位置する。
場所は加茂川沿いに長狭街道が走るが、その川の支流(銘川)が北に延びており、この支流に沿った川洲地帯に「廻塚」「打墨」の集落が続き、だいぶ奥まった山の麓付近だ。
「おだがく」地名は、「あう(合)・た(処)・かけ(欠)」の転訛で川が合流する地辷り地という意味という。
確かに川が合流するような地形に見えるが、アイヌ語の【ota 砂】もあるが、川砂地帯ではなさそうだ。
ただ、学問を連想させるような施設等はなさそうだ。
太田学村は、寛文元年に池田村から分村して成立。
元禄郷帳に「池田太田学村」と記されており、江戸時代は頭に「池田」を付していた。
≪天津 あまつ≫ 鴨川市
内房線「安房鴨川駅」から先が外房線になるが、その1つ先の駅が「安房天津駅」である。
この外房入口の海岸付近が「天津」である。
そして、すこし湾になっており、天津漁港がある。
鎌倉期にすでに、天津の地名があった。
江戸期は天津村といった。
1)「天=あま=海士=海人族」+「津=湊=みなと」 というのが最も地名として連想しやすい。
2)その他、山側にも「あま」と付く地名はたくさんあり、それらが崩壊した丘陵などにつけられていることから、「地崩れ地」との解釈もある。
3)また、【a ア:上 +mum 草】などで草の多い台地などとも考えられる。
やはりこの鴨川の地名は1)であろう。
・京都府福知山市下天津 しもあまづ
こちらは山に囲まれた谷地形の由良川沿いの地名で、やはり津は「湊」であると思われるが、「天」は「地崩れ地」などが語源であろう。
≪天面 あまつら≫ 鴨川市
内房線の安房阿持側駅より手前、「江見」と「太海」駅の間の海岸沿いの集落である。
海岸近くまで山が迫っており、細長い集落を形成している。
江戸期から天面村であり、また天津良村とも書いた。
やはり「天=海士」で海人族が住んだところ、または、水辺の側の崩壊した丘陵が連なっている地形を指したのではないかと思われる。
≪天羽田 あもうだ≫ 市原市
養老川下流左岸の丘陵上に位置する。
江戸初期には姉ヶ崎村の枝郷であったと思われる。
元禄14年(1701)の日記に「天羽田新田」と見える。明治初年に姉ヶ崎村に合併される。
現在の地名としては昭和52年に大字名となった。
地区の西側台地は大正初期頃から開墾がなされ、落花生・スイカ・里芋・大根などが栽培されている。
地名は、「天=崩壊した丘陵 + 羽=埴=粘土のとれる + 田」で、崩れやすい粘土質の土地ではないかという。
その他の千葉で、天を「あま」とよむ地名には
・ 天戸町 あまどちょう 千葉市花見川区
・ 天辺 あまべ 佐倉市
がある。
千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから
コメント