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小松二十三夜尊(土浦)

 今週始めに、土浦の小松で人に会うことになった。
125号線沿いの三夜下に近い場所だった。

ここも昔は良く車で通っていたが、最近は数年ご無沙汰となっていた。
近くに工房を構えている人(芸術家)としばらく歓談した後、帰る前にこの二十三夜尊を訪ねてみる事にした。

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霞ヶ浦沿いを走る国道125号線沿いに上に登る階段がある。
通称100段階段というらしい。

入口には左右に大きな石柱が立てられ、右には「奉 二十三尊」、左には「納 勢至岡遊」と彫られている。


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紫陽花の季節にはもう遅いのだが、遅咲きのアジサイが彩りを添え、雨でぬれた石段を登るのも苦にならない。


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石段を登った上は広く台地となっていて、正面に勢至菩薩を祀る勢至堂の拝殿と本堂がその奥に続いていた。

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石段を登って後ろを振り向くと霞ヶ浦(土浦入り)とその向こうに土浦やかすみがうら市(旧出島)の町などが手に取るようにわかる。

なかなか素晴らしい景色だ。この台地が勢至ヶ岡と呼ばれているのだろう。
ここから霞ヶ浦の方から登る月の出を眺めたのだろう。

横には芭蕉の句碑「春も漸けしきとゝのふ月と梅」がある。
そして、隣の石像には、頭と下の前垂れにピンクの被いがかけられていた。
お顔が隠れてしまっていたので、少したくり上げて拝顔してきました。
右手に宝剣、左手に宝珠を持っているようなので、虚空蔵菩薩でしょうか。

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そして、霞ヶ浦を望む方向にもう一つ句碑があった。
土浦には八景と呼ばれる景色の良い場所があるが、これが一つではなく幾つかあるという。
その中の江戸末期の国文学者の色川三中が選んだ八景に、この勢至岡(せいしがおか)=「勢至岡秋月」が選ばれている。

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(みほとけに恋ひつゝのぼる女坂 往きこそ通ふ勢至ヶ岡へ?  歌子)

脇には、ベンチも置かれていた。
湖側とは反対の岡にはたくさんの石碑、石仏、二十三尊塔などが置かれていた。

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二十三夜の月待講は江戸時代から明治時代頃まで盛んに行われていたようだ。

旧暦の毎月23日の夜が二十三夜で、月齢では22になる。
これは十五夜の満月から順に欠けて来てほぼ半分の下限の月の頃となる。
時刻はまあ真夜中で月により変るが真夜中の10時頃から翌朝の2時頃の間になる。
旧暦8月の23夜の月の出は真夜中の日付が変わる少し前で、山のほうなどでは山からのぼれば当然日付が変ってしまう。

二十三夜尊の石塔などが各地に残されているが、ここでも夜の7時頃から村の女集が集まって真夜中の月の出を待ったのだろうか。

勢至菩薩(月読命)が信仰されるのは多くは女性講であろう。
庚申塔などの信仰は男性陣が多いように思う。

一般に二十三夜は遅すぎるので、女性は十九夜で、男性が二十三夜ではないかと思っていたが、どうやら此処では23日に昼間から講が行われていたようだ。
明治からも結構続いていたようなので途中から夜ではなく昼間から講中の集まりとなったものかもしれない。
話しによると朝から三々五々集まり、参拝ののち茶菓で談笑し、昼食用のお赤飯を持ち帰り散会するのだという。
私の理解している二十三夜講とは少し趣が違っている。

ただここから霞ヶ浦に上る月はおそらく左側の少し鋭くなった先端が最初に現われるのだろう。
真夜中に登る凛とした月の出(下弦の月)を一度見てみたいものだ。

お堂は向かって正面に勢至堂(拝殿+本殿(奥))、左に土浦市文化財となっている仏像が安置された薬師堂がある。
こちらはガラス越しに仏像を眺め拝む事が出来る。

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・薬師如来と日光・月光菩薩(向かって右)
・阿弥陀如来(向かって左)

ともに、鎌倉時代の作で、寄木造(日光、月光は一木造)

手前には十二神将像?が置かれている。

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月読尊(勢至菩薩)やこの薬師如来像などは23日の講のときに開帳されているらしい。(昼頃に終わり?)



少し歴史が気になったので、この勢至岡を調べてみた。
三年前の常陽リビング(2017.5.2)によると、

「(土浦八景は、)土浦藩でも1752年(宝暦2)、藩主・土屋篤直が小松村の高台に「垂松亭」という庵を建て、「霞浦帰帆」「高津晴嵐」「田村夜雨」などを選定したことが、近年見つかった『垂松亭八景詩巻』で明らかになった。
『詩巻』によれば、垂松亭は「ふきはれて月そすミ行岡の辺の雲ハあとなき松のあらしに」とあるように暴風で壊れ、江戸後期の土浦で書画や天文学など多彩な分野に才能を発揮した沼尻墨僊が著した『小松峯記』にも「のち幾ばくもなくして暴風破壊するところとなる」と記されている。

時は流れ1853年(嘉永6)。ペリー来航に国中が揺れる中、小松村では45歳で逝った藩主の思いを残そうと「小松秋月」の舞台となった高台に勢至堂を建設。堂内に飾られた「霞浦八景扁額」は村人からの依頼で墨僊が手掛けたもので、「誰もが見られる場所に風流な藩主が選んだ八景を残そうと奔走した村人がいたということ。
この扁額の歴史的意味はそこにあります」と土浦市立博物館学芸員の堀部猛さん・・・・」
と書かれていた。

古くはこの高台を「勢至ケ岡」と呼んだ。江戸時代には土浦藩の垂松亭という庵が現在の三夜様の隣にあって、四季の風情を楽しむ宴やお茶会が催されていたという。
そのため、石段入り口左側にあった「勢至岡遊」は、この場所が文人墨客の来遊が絶えなかった公園ということで「勢至岡遊園」の名がついたのだという。

やっとなんとか歴史が見えてきました。




筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/07/28 12:43
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