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天妃尊

 小美玉市小川の天聖寺で、保管中の天妃尊像がこのお盆に公開されていると fbf の投稿記事で知り、早速飛んでいってきました。

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天妃(てんぴ)尊は中国における海洋の女神で、中国の「宋」の時代(西暦970年から1100年前半頃)に媽祖(まそ)という実在した娘が仙人により神となったとか、父を探しに船で出て遭難したとかいろいろな説があるようです。

中国福建連江県の海岸付近で特にこの媽祖信仰が広まり、船の航海の守り神と信じられるようになりました。
その後、皇帝からも信奉されてきたとされますが、文化大革命(1966年~1976年)によりこの媽祖信仰が禁止され、その信仰となっていた廟祠の殆んどが破壊されたといわれています。

しかし、奥深く根付いた信仰は今も続いており、台湾などには中国本土から逃れてきた航海の安全神話もあり、広く信仰が広まっているようです。

さて、中国が17世紀前半に、「明」から「清」の時代に移り変わっていくと中国国内の僧侶たちも迫害を受けるようになりました。
このため、この迫害から逃れるために日本に逃れてきた中国の僧侶たちがおりました。

その中に「東皐心越(とうこう しんえつ)」がおります。
1639年に明国浙江省浦江県に生れた心越は若くして仏門で名を馳せ、地位も高く居ましたが、清の迫害が強まり、1676年に中国から船で日本の薩摩に渡ってきました。

それより13年ほど前にやって来ていた澄一道亮(ちんいどうりょう)の招きで、1681年より長崎の興福寺に住しましたが、日本国内各地を旅して歩いたため、中国の密偵と疑われ、長崎に幽閉されてしまいました。

これを助けたのが、水戸黄門(光圀)で、1683年に水戸に移り住みます。
心越禅師は水戸の天徳寺に住しました。

心越禅師の死(1695年)後、1712年に天徳寺を河和田村に移して、ここに祇園寺を建て、心越禅師を開祖としました。

光圀は心越禅師が日本に渡ってくるときに船の安全を祈って持ってきたという天妃尊(媽祖)像を模して3つ作らせたといわれています。
そして茨城での海難事故防止や漁業の繁栄を祈願して、一つは北茨城市磯原のこんもりとした海岸の山に天妃山神社を建て、この像を祀りました。(現在の弟橘神社)

天妃山(磯原)
(天妃山<標高21m> : 北茨城市観光協会HPより)

もう一つは、大洗の川の南側、現在の願入寺の近くですが、ここにも港、漁業の安全を祈願して天妃山神社を建立しました。(現在の弟橘比売神社)
ここは祝町といわれ、当時、妓楼などが置かれ水戸の歓楽街としてにぎやかにされていましたが、これには理由があるといいます。
それは、この天妃山のお祭りに、あるとき心越禅師がきて、「どうもここの地形が良くないので、ここをもっと華やかな町にしたらいいだろう」と光圀に申しあげたという。その結果、妓楼や馬市も置いて、賑やかにしたのだという。
(昭和59年11月に開催された大洗町の「第一回郷土史講演会」で、名越時正氏の話し)

もう一つがここ小川の天聖寺に残された天妃尊像ですが、宝永4年(1707)に水戸光圀の計らいで、この寺が建てられ、水戸祇園寺の第三世和尚である蘭山和尚に与えたのが始まりです。このとき蘭山和尚は88歳の高齢でした。
そしてもう一つ天妃尊像を持ってきて、この寺に祀ったのです。

この蘭山和尚は元々は京都の名僧であったが、江戸に出てきた時に水戸光圀に認められて、僧籍のままで光圀の大日本史編纂を助けていたそうです。

この小川の天聖寺は明治3年6月に天狗党の拠点ともなり、焼き討ちにあい、寺の建物は焼失してしまったようです。
しかし、当時この尊像を天聖寺檀頭であった寺前の長谷川氏宅にかくまわれました。
そして、昭和51年にこの天聖寺斎場が出来た時に、この像をまたこの地に戻したのです。

たの磯原、大洗の2箇所の尊像についてはよくわかりません。
幕末に水戸藩の徳川斉昭(なりあき)は天妃神を廃して、やはり東京湾で入水してヤマトタケルを助けたという弟橘媛命を勧請(かんじょう)したのです。
山に名前には天妃山として残りますが、神社は日本古来の神に変わってしまいました。

 水戸の祇園寺には穢積(えしゃく)金剛尊天堂という建物があります ⇒ 記事こちら

また、この天聖寺の末寺(江戸時代)に茨城町の慈雲寺がありますが、こちらにも祇園寺とおなじような形の「穢跡金剛堂」があります。
汚れを排除するという意味でしょうが、あまり他では見かけません。
また、この慈雲寺の住職が天狗で、天聖寺と行き来していたなどという昔話も存在します。


調べてみると、媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神を脇に付き従えているといいます。
そして、この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され改心し、以降媽祖の随神となったとされています。

この「天妃尊像には手前に2童子、更にその手前に2童子らしき姿の像がおかれています。
千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神は役小角が従えた二鬼神と同様に、鬼といわれる風貌であるのが一般的のようですので、この像はあくまで童子でしょう。 ではいったい何者なのか?

まだ調べてみる必要がありそうです。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/08/16 11:14
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