実際にあった話し(外川の伝説)
先日銚子電鉄の終点である外川(とかわ)に行って、ランチを食べたのですが、この食事処「見晴」の店の前に石の供養塔が建っていました。

「外川港 大納屋阿姫供養塔」と彫られており、背後には塔婆が数本置かれていました。

裏になにやら謂れが書かれていますが、よく読むことが出来ません。
塔婆は令和2年のものもありましたので、今年も供養が行われたようです。
内容が気になりネットで調べて見ました。
コトバンクより
大納屋おさつ(おおなや おさつ)
「紀伊(きい)湯浅(和歌山県)の人。
力持ちで,常陸(ひたち)(茨城県)飯貝根(いがいね)でイワシ漁船の水手(かこ)をしていたが,下総(しもうさ)外川(とかわ)(千葉県)の網元大納屋次郎右衛門の後妻となる。
不漁がつづいた安永3年,故郷の紀州にかえる夫に置き去りにされ,精神異常となる。
漁師たちに迷惑がられ,享和2年3月8日大桶にいれられて沖に流されたとも,生き埋めにされたともいう。」
とかなり物騒な事が書かれています。
これが、銚子妖怪伝説「海んばおさつ」となって語られているようです。
享和2年(1802)ですから、今から200年以上前の江戸時代の話です。
説明に出てくる飯貝根(いがいね)というのは地名というより、「大きな岩礁」の場所を指す言葉のようです。
銚子では利根川河口を望む領域を一般には言っているようです。
常陸の飯貝根ですから、川口の向こう側の波崎地区でしょうか?
言い伝えによれば、力持ちで女相撲取りのような女性(おさつ)が網元「大納屋次郎右衛門」の後妻となった。
外川は銚子で一番早く港ができたところであり、これを開発したのは1656年に紀州からやってきた崎山次郎衛門で、紀州からたくさんの人をこちらに呼び、町を築いて、イワシ漁で栄えたといわれています。
そんな港でも不良の年があったのでしょうね。
それを嫌ったかどうか分らないが、大納屋次郎右衛門は紀州に帰ってしまったようです。
夫が紀州に帰ってしまってから3年。
そして、残された「おさつ」は半狂乱となり酒を飲んでは暴れ、誰の手にも負えなくなった。
そこでそこの両師たちが相談して桶に入れて砂浜に埋めて殺害してしまった。
しかし、それからこの亡くなった命日(3月8日)は決まって海は大時化となり漁がまったくできなくなったともいわれ、地元の両師たちがこの供養塔を建て、毎年供養を続けてきたのだといいます。
伝説では桶に入れられて海に流され、死体が波崎の海岸に打ち上げられ、哀れの持った地元の人達で波崎にある「(常葉山)宝善寺」に葬られたともいう。
この寺には、今もお墓が残されているそうです。
近くは時々行くので、今度一度お墓参りをしておきましょう。
何か伝説と実話が合わさり、その後の人達に語り継がれてきたようです。
銚子の伝説は安倍晴明と延命姫伝説などがあるが、この外川に残されたお話が悲しい話しが、伝説として数百年後にはどのように変化していくのでしょうか。

「外川港 大納屋阿姫供養塔」と彫られており、背後には塔婆が数本置かれていました。

裏になにやら謂れが書かれていますが、よく読むことが出来ません。
塔婆は令和2年のものもありましたので、今年も供養が行われたようです。
内容が気になりネットで調べて見ました。
コトバンクより
大納屋おさつ(おおなや おさつ)
「紀伊(きい)湯浅(和歌山県)の人。
力持ちで,常陸(ひたち)(茨城県)飯貝根(いがいね)でイワシ漁船の水手(かこ)をしていたが,下総(しもうさ)外川(とかわ)(千葉県)の網元大納屋次郎右衛門の後妻となる。
不漁がつづいた安永3年,故郷の紀州にかえる夫に置き去りにされ,精神異常となる。
漁師たちに迷惑がられ,享和2年3月8日大桶にいれられて沖に流されたとも,生き埋めにされたともいう。」
とかなり物騒な事が書かれています。
これが、銚子妖怪伝説「海んばおさつ」となって語られているようです。
享和2年(1802)ですから、今から200年以上前の江戸時代の話です。
説明に出てくる飯貝根(いがいね)というのは地名というより、「大きな岩礁」の場所を指す言葉のようです。
銚子では利根川河口を望む領域を一般には言っているようです。
常陸の飯貝根ですから、川口の向こう側の波崎地区でしょうか?
言い伝えによれば、力持ちで女相撲取りのような女性(おさつ)が網元「大納屋次郎右衛門」の後妻となった。
外川は銚子で一番早く港ができたところであり、これを開発したのは1656年に紀州からやってきた崎山次郎衛門で、紀州からたくさんの人をこちらに呼び、町を築いて、イワシ漁で栄えたといわれています。
そんな港でも不良の年があったのでしょうね。
それを嫌ったかどうか分らないが、大納屋次郎右衛門は紀州に帰ってしまったようです。
夫が紀州に帰ってしまってから3年。
そして、残された「おさつ」は半狂乱となり酒を飲んでは暴れ、誰の手にも負えなくなった。
そこでそこの両師たちが相談して桶に入れて砂浜に埋めて殺害してしまった。
しかし、それからこの亡くなった命日(3月8日)は決まって海は大時化となり漁がまったくできなくなったともいわれ、地元の両師たちがこの供養塔を建て、毎年供養を続けてきたのだといいます。
伝説では桶に入れられて海に流され、死体が波崎の海岸に打ち上げられ、哀れの持った地元の人達で波崎にある「(常葉山)宝善寺」に葬られたともいう。
この寺には、今もお墓が残されているそうです。
近くは時々行くので、今度一度お墓参りをしておきましょう。
何か伝説と実話が合わさり、その後の人達に語り継がれてきたようです。
銚子の伝説は安倍晴明と延命姫伝説などがあるが、この外川に残されたお話が悲しい話しが、伝説として数百年後にはどのように変化していくのでしょうか。
初めて知りました。
おっしゃる通り、飯貝根(いがいね)は大きいを「いがい」という方言から来たものかもしれませんね。
桶に入れられて海に流されたという伝説も波崎という場所もあり「うつろ船」の伝説と重なってしまいました。
「うつろ船」の話をお知りませんでした。紹介ありがとうございます。
とても興味深いですね。 金色姫伝説で神栖の神社とお寺へ行きましたが、この話は分かりませんでした。
江戸時代に馬琴?がこの寺を調べていたと聞いていましたが、このうつろ船と金色姫などの関連性なども調べていたのかもしれません。