古代製塩
これは今から8年ほど前に、「ふるさと風の会」に入会して間もなく書いた記事です。
いろいろいらべものも多く、ブログも毎日書いていた時代です。
少し懐かしくなり、こちらにのも載せさせて下さい。
古代製塩 木村 進 (2012年12月 ふるさと風 第79号)
4年ほど前に長年勤めていた会社で停年を迎えました。
完全リタイヤはもう少し先と考えてはいますが、当然他の暇な年寄りの仲間入りをしたわけですから、この余った時間の処し方を思案するうちに、カメラ片手に身近なところに眠る神社や石仏、古びた家屋などを見て回ることが好きになりました。
そして、2年前の夏からこの周辺に眠る埋もれた歴史を掘り起こすことをテーマに、ブログ「まほらに吹く風に乗って」を立ち上げ、毎日欠かさず記事を書いてきました。
このブログのタイトルを決めたのも「ふるさとに吹く風や香り」を読む人にも感じて欲しいとの思いを込めたものです。
一方、こちらの会のテーマも「ふるさとの歴史・文化の再発見と創造を考える」であり、同じ方向性を持っていると思っています。
この会報に記事を書くことは大変うれしいことですし、諸先輩方の記事を見習って書いてみようと書き始めてみました。
しかし、とても読むに耐えない無味乾燥な文章になってしまいました。
そこで、賢明な読者の皆様には申し訳ないのですが、背伸びをしてもしかたがないので、暫らくは今までブログに書いてきた内容などから面白そうなところを拾い出し、書き足りないことなどを加えて、私なりの書き方で書かせていただこうと思っています。
自分で感じた興味あるテーマなどを感じるままに書いてみたいと思います。
今回はまず「古代製塩」についてです。
これは昨年から霞ヶ浦の南側にある阿見町、美浦村などの探索をある程度終え、今年1月に小野川に架かる古渡(ふっと)橋を渡り浮島へ行った時のことです。車の窓越しに「広畑貝塚」という案内立札に目が止まりました。
私は良く事前調査などせずに出かけ、何か日常と少し異なる何かを見つけると立ち寄ってみることが散策時の習慣になっているのです。そこで何の気無しにその貝塚へ立ち寄りました。

そこは霞ヶ浦の水面からそれ程高くない場所ですが、ただの草原が広がっているだけでしが、そこに書かれていた説明文を読んで衝撃を受けました。
書かれていたことを要約すると、「この貝塚は標高1.5~2 mの比較的低地にあり、明治29年の発掘調査で、縄文式土器と弥生式土器が層位的に発見された。そして特に注目されたのが出土された土器片から多量の炭酸カルシウムが検出され、これが縄文期の土器だったことからここが縄文期における土器製塩の遺跡であると認定され、国の史跡に登録された」という内容でした。
これには二つの驚きがありました。
一つはそれまで抱いていた縄文期の水面の高さが私の思っていたより低かったのではないかということ。
もう一つが縄文期にすでに塩がこのような場所で作られていたということでした。
少し話は飛びますが、常陸国風土記の信太郡のところに、
「昔、倭武の天皇が海辺を巡幸して、乗浜に至ったとき、浜にはたくさんの海苔が干してあった。そのことから「のりはまの村」と名付けられた。
(中略)
乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる。また九つの社があり、口も行ひもつつしんで暮らしてゐる。」(口訳・常陸国風土記より)と書かれています。
ここ浮島は、名前にあるように、昔は今の霞ヶ浦に浮かぶ島だったと言われています。
それまで私は、いろいろな文献で縄文海進という言葉を目にしており、古代に流れ海と呼ばれていた霞ヶ浦の湖面(当時は海面)が縄文時代には今より4~5m程高かったものと推測しておりました。
そして、津波などの影響を考えるのに有効なFlood Mapsというソフトを使って、現在の水面を5m程上昇させ、古代の地形を推測して楽しんできました。
このような地形を想像すると、貝塚の分布や昔の地名や言い伝えなどが想像しやすくなり、それまで不明だった多くの事が見えてくることを知って喜んでいたのです。
しかし、この貝塚の標高は1.5~2 m程度しかないのです。これはひとつの驚きでした。即ち、三千年ほど前の水面でも私が思っていたよりも低く、せいぜい+1~2mくらいではないか考えられるということです。
もっとも縄文海進のピークは今から六千年ほど前といわれていますので、三千年前には1~2m程高かったというのもおかしなことではないかもしれません。
こちらの方は今回の話のテーマではありませんのでこれくらいにします。
さて本題は、もう一つ驚きである「縄文時代に製塩が行われていた」ということです。
霞ヶ浦が昔は海であったということですから、この場所に大昔から縄文人がたくさん住んでいたことには陸平(おかだいら)貝塚などを知っていましたので、特に驚きはありません。
しかし、驚いたのはこの製塩が弥生時代や縄文時代晩期ではなく縄文時代後期だということなのです。
そして調べてみると、この付近が日本で一番古い製塩土器の発掘場所(広畑付近では前浦遺跡(稲敷市)や法堂遺跡(美浦村)などでも発見されている)だということがわかったのです。
常陸風土記に書かれているのは今から千五百年ほど前のことであり、三千年以上前の縄文期に塩造りが行われていたとは思ってもいなかったのです。
これは私の知識の無さの所以でもあると思いますが、それまで、日本で海水から塩を作ったのは、稲作が始まるようになって塩が必要になったからだと思ってきました。
常陸国でも鹿島灘の塩田で作られた塩を府中など内陸部に運ぶ塩の道と呼ばれる道があったといいます。
敵である信玄に塩を送った上杉謙信の話などが思い浮かびます。
このように塩はなくてはならないものと考えられますが、大昔には塩を必要とはせず、稲作の始まりで必要性が高まったものと思っていました。
もちろん稲作もかなり昔からあったようですので、これもあながち間違った解釈でもないかもしれませんが、知識不足で分かりません。
私たちが塩作りといって思い浮かべるのは、砂浜に作られた塩田に海水を何度も撒いて天日で乾かす方法で、昔は大変な重労働な作業とされて、一種の身分の低い人を奴隷のようにこき使って行っていた時代が長く続いたような記録が見られます。
例えば、説話「安寿と厨子王」(山椒大夫)では安寿が人買いの手で汐汲をさせられ苦労した話があります。
また、美浦村に残る伝承話し「信太小太郎伝説」では平将門の曾孫である小太郎が陸奥国の塩商人のところで潮汲をさせられる話も残されています。
では、古代の塩作りはどのように行われていたのでしょうか。これを調べてみると結構面白いことがわかってきました。
まず、淡路島の神戸寄りの海岸に「松帆の浦」という場所があります。万葉集にこの場所の情景を歌った歌があります。
名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕なぎに “藻塩”焼きつつ 海人娘子 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ 丈夫の 心はなしに 手弱女の 思ひたわみて 俳徊り 我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ(万葉集巻六)
(訳)名寸隅の船着場から見える淡路島、その松帆の浦では朝凪の時には玉藻を刈り、夕凪の時には藻塩を焼いたりしている美しい漁師の少女たちがいるとは聞く。しかしその少女たちを見に行く手だてもないので、雄々しい男子の心も、手弱い女のように思いしおれて、徘徊し、私はただ恋い焦がれてばかりいる。舟も櫓もないので
そして、これを基にしたと思える歌が小倉百人一首に選者「藤原定家」の歌として載っています。
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや 藻塩の身もこがれつつ
(訳)松帆の浦の 夕凪の時に焼いている藻塩草のように 私の身は 来てくれない人を想って 恋焦がれているのです。
このように、海に生える海草である玉藻(ホンダワラなど)を刈ってきて、夕方の風が凪いでいる時に藻を焼いて塩を作っていたことが歌われています。その他にも万葉集には、この藻塩に関していくつも歌が残されています。
草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人娘子らが 〝焼く塩〟の 思ひぞ焼くる 我が下心 (巻一‐5)
志賀の海女は 藻刈り〝塩焼き〟暇なみ 櫛笥の小櫛 取りも見なくに (巻三‐278)
須磨人 海辺常去らず〝焼く塩〟の 辛き恋をも 吾はするかも (巻十七‐3932)
など、藻塩を焼いて塩を作っていた事が歌われています。
では、この藻塩焼き製塩とはいったいどんな方法だったのでしょうか。
この製法については宮城県塩釜の御釜(おかま)神社で毎年7月に行われている「藻塩焼神事」がその方法を伝えています。
大きな鉄製平釜の上に竹を編んだ棚を設け、海藻(ホンダワラ)を広げます。その上から海水を注ぎ、これを煮詰めてかん水を作り、それを煮詰めて塩を作ります。これも今では鉄の平釜を使っていますが、古代は薄手の土器が使われていたようです。また、藻塩焼くという言葉のように、海藻を焼いた灰にまた海水かけて、煮詰めて固めたなどの説もあると言われ、藻塩製塩の方法も一つとは限らないようです。
この塩釜周辺も古くから藻塩による塩作りが行われていたといわれ、里浜貝塚などから縄文時代晩期の製塩土器が発見されているそうですが、時期的にはこの霞ヶ浦の製塩よりもかなり後の時代といわれているようです。またこの塩釜で藻塩を焼く煙を歌った鎌倉初期の歌が残されています。
見し人の 煙となりし 夕より 名ぞむつましき 塩がまの浦(『新古今集』巻八)
このように古代の藻塩製塩方法は豊臣秀吉の朝鮮出兵により韓国からもたらされたという入浜式塩田による製塩方式にとって替わるまで一般的な方法だったようです。
前述した安寿と厨子王の説話には安寿は朝晩に海水汲みをさせられ、昼間時間がある時は、藻塩焼きの手伝いをさせられたことが書いてあります。
藻塩焼くのは海女の仕事で万葉集ではこの海女が「塩を焼く」と「恋焦がれる」などを想像して歌われているものが多いので、どのような労働になっていたのかは推察するのみですが、歌にうたわれたほど甘い世界ではないと思います。
一方、塩田法はさらに過酷で塩商人などが暗躍していたようですので、とても歌になど読めない世界だったのでしょう。
話を最近の話題に戻しますが、この藻塩製塩はミネラル分も豊富でおいしいそうです。復活して作っているところもあるようですので試してみるのも良いかもしれません。
しかし日本の塩も今では自給率は12%程度で、ほとんどを輸入に頼っているそうです。また世界を見ると、「塩は岩塩を採掘するもの」という考え方がほとんどで、海から塩を造るという日本の常識は、世界の常識では無いそうですのでいろいろな考え方を知らなければならないようです。塩の使い道も食塩というよりは、身近なものでは石鹸、化学薬品、紙やパルプなどの原料になる苛性ソーダなどに多くが使われているといいます。
さて、最近のニュースで知ったのですが、海藻がたくさんある海中の場所を「藻場(もば)」というそうですが、この藻場が海水温の上昇で大変なことになっているのだそうです。
九州南部の沿岸に広がっていた藻場の消滅が、今は九州沿岸全域に及び、四国や山陰沿岸にも影響が出始めているようです。
これは藻塩などの問題よりはるかに深刻な問題です。
藻場は魚の卵を産み付ける場でもあり、くらげなどのえさにもなってきましたが、海水温の上昇で死滅するはずのくらげが大量に発生してどんどん北上し始めているのです。
このような古代製塩法も、古き縄文時代に思いを馳せるだけではなく、自然環境の変化などにも関心を持つきっかけになればうれしい事です。
いろいろいらべものも多く、ブログも毎日書いていた時代です。
少し懐かしくなり、こちらにのも載せさせて下さい。
古代製塩 木村 進 (2012年12月 ふるさと風 第79号)
4年ほど前に長年勤めていた会社で停年を迎えました。
完全リタイヤはもう少し先と考えてはいますが、当然他の暇な年寄りの仲間入りをしたわけですから、この余った時間の処し方を思案するうちに、カメラ片手に身近なところに眠る神社や石仏、古びた家屋などを見て回ることが好きになりました。
そして、2年前の夏からこの周辺に眠る埋もれた歴史を掘り起こすことをテーマに、ブログ「まほらに吹く風に乗って」を立ち上げ、毎日欠かさず記事を書いてきました。
このブログのタイトルを決めたのも「ふるさとに吹く風や香り」を読む人にも感じて欲しいとの思いを込めたものです。
一方、こちらの会のテーマも「ふるさとの歴史・文化の再発見と創造を考える」であり、同じ方向性を持っていると思っています。
この会報に記事を書くことは大変うれしいことですし、諸先輩方の記事を見習って書いてみようと書き始めてみました。
しかし、とても読むに耐えない無味乾燥な文章になってしまいました。
そこで、賢明な読者の皆様には申し訳ないのですが、背伸びをしてもしかたがないので、暫らくは今までブログに書いてきた内容などから面白そうなところを拾い出し、書き足りないことなどを加えて、私なりの書き方で書かせていただこうと思っています。
自分で感じた興味あるテーマなどを感じるままに書いてみたいと思います。
今回はまず「古代製塩」についてです。
これは昨年から霞ヶ浦の南側にある阿見町、美浦村などの探索をある程度終え、今年1月に小野川に架かる古渡(ふっと)橋を渡り浮島へ行った時のことです。車の窓越しに「広畑貝塚」という案内立札に目が止まりました。
私は良く事前調査などせずに出かけ、何か日常と少し異なる何かを見つけると立ち寄ってみることが散策時の習慣になっているのです。そこで何の気無しにその貝塚へ立ち寄りました。

そこは霞ヶ浦の水面からそれ程高くない場所ですが、ただの草原が広がっているだけでしが、そこに書かれていた説明文を読んで衝撃を受けました。
書かれていたことを要約すると、「この貝塚は標高1.5~2 mの比較的低地にあり、明治29年の発掘調査で、縄文式土器と弥生式土器が層位的に発見された。そして特に注目されたのが出土された土器片から多量の炭酸カルシウムが検出され、これが縄文期の土器だったことからここが縄文期における土器製塩の遺跡であると認定され、国の史跡に登録された」という内容でした。
これには二つの驚きがありました。
一つはそれまで抱いていた縄文期の水面の高さが私の思っていたより低かったのではないかということ。
もう一つが縄文期にすでに塩がこのような場所で作られていたということでした。
少し話は飛びますが、常陸国風土記の信太郡のところに、
「昔、倭武の天皇が海辺を巡幸して、乗浜に至ったとき、浜にはたくさんの海苔が干してあった。そのことから「のりはまの村」と名付けられた。
(中略)
乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる。また九つの社があり、口も行ひもつつしんで暮らしてゐる。」(口訳・常陸国風土記より)と書かれています。
ここ浮島は、名前にあるように、昔は今の霞ヶ浦に浮かぶ島だったと言われています。
それまで私は、いろいろな文献で縄文海進という言葉を目にしており、古代に流れ海と呼ばれていた霞ヶ浦の湖面(当時は海面)が縄文時代には今より4~5m程高かったものと推測しておりました。
そして、津波などの影響を考えるのに有効なFlood Mapsというソフトを使って、現在の水面を5m程上昇させ、古代の地形を推測して楽しんできました。
このような地形を想像すると、貝塚の分布や昔の地名や言い伝えなどが想像しやすくなり、それまで不明だった多くの事が見えてくることを知って喜んでいたのです。
しかし、この貝塚の標高は1.5~2 m程度しかないのです。これはひとつの驚きでした。即ち、三千年ほど前の水面でも私が思っていたよりも低く、せいぜい+1~2mくらいではないか考えられるということです。
もっとも縄文海進のピークは今から六千年ほど前といわれていますので、三千年前には1~2m程高かったというのもおかしなことではないかもしれません。
こちらの方は今回の話のテーマではありませんのでこれくらいにします。
さて本題は、もう一つ驚きである「縄文時代に製塩が行われていた」ということです。
霞ヶ浦が昔は海であったということですから、この場所に大昔から縄文人がたくさん住んでいたことには陸平(おかだいら)貝塚などを知っていましたので、特に驚きはありません。
しかし、驚いたのはこの製塩が弥生時代や縄文時代晩期ではなく縄文時代後期だということなのです。
そして調べてみると、この付近が日本で一番古い製塩土器の発掘場所(広畑付近では前浦遺跡(稲敷市)や法堂遺跡(美浦村)などでも発見されている)だということがわかったのです。
常陸風土記に書かれているのは今から千五百年ほど前のことであり、三千年以上前の縄文期に塩造りが行われていたとは思ってもいなかったのです。
これは私の知識の無さの所以でもあると思いますが、それまで、日本で海水から塩を作ったのは、稲作が始まるようになって塩が必要になったからだと思ってきました。
常陸国でも鹿島灘の塩田で作られた塩を府中など内陸部に運ぶ塩の道と呼ばれる道があったといいます。
敵である信玄に塩を送った上杉謙信の話などが思い浮かびます。
このように塩はなくてはならないものと考えられますが、大昔には塩を必要とはせず、稲作の始まりで必要性が高まったものと思っていました。
もちろん稲作もかなり昔からあったようですので、これもあながち間違った解釈でもないかもしれませんが、知識不足で分かりません。
私たちが塩作りといって思い浮かべるのは、砂浜に作られた塩田に海水を何度も撒いて天日で乾かす方法で、昔は大変な重労働な作業とされて、一種の身分の低い人を奴隷のようにこき使って行っていた時代が長く続いたような記録が見られます。
例えば、説話「安寿と厨子王」(山椒大夫)では安寿が人買いの手で汐汲をさせられ苦労した話があります。
また、美浦村に残る伝承話し「信太小太郎伝説」では平将門の曾孫である小太郎が陸奥国の塩商人のところで潮汲をさせられる話も残されています。
では、古代の塩作りはどのように行われていたのでしょうか。これを調べてみると結構面白いことがわかってきました。
まず、淡路島の神戸寄りの海岸に「松帆の浦」という場所があります。万葉集にこの場所の情景を歌った歌があります。
名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕なぎに “藻塩”焼きつつ 海人娘子 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ 丈夫の 心はなしに 手弱女の 思ひたわみて 俳徊り 我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ(万葉集巻六)
(訳)名寸隅の船着場から見える淡路島、その松帆の浦では朝凪の時には玉藻を刈り、夕凪の時には藻塩を焼いたりしている美しい漁師の少女たちがいるとは聞く。しかしその少女たちを見に行く手だてもないので、雄々しい男子の心も、手弱い女のように思いしおれて、徘徊し、私はただ恋い焦がれてばかりいる。舟も櫓もないので
そして、これを基にしたと思える歌が小倉百人一首に選者「藤原定家」の歌として載っています。
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや 藻塩の身もこがれつつ
(訳)松帆の浦の 夕凪の時に焼いている藻塩草のように 私の身は 来てくれない人を想って 恋焦がれているのです。
このように、海に生える海草である玉藻(ホンダワラなど)を刈ってきて、夕方の風が凪いでいる時に藻を焼いて塩を作っていたことが歌われています。その他にも万葉集には、この藻塩に関していくつも歌が残されています。
草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人娘子らが 〝焼く塩〟の 思ひぞ焼くる 我が下心 (巻一‐5)
志賀の海女は 藻刈り〝塩焼き〟暇なみ 櫛笥の小櫛 取りも見なくに (巻三‐278)
須磨人 海辺常去らず〝焼く塩〟の 辛き恋をも 吾はするかも (巻十七‐3932)
など、藻塩を焼いて塩を作っていた事が歌われています。
では、この藻塩焼き製塩とはいったいどんな方法だったのでしょうか。
この製法については宮城県塩釜の御釜(おかま)神社で毎年7月に行われている「藻塩焼神事」がその方法を伝えています。
大きな鉄製平釜の上に竹を編んだ棚を設け、海藻(ホンダワラ)を広げます。その上から海水を注ぎ、これを煮詰めてかん水を作り、それを煮詰めて塩を作ります。これも今では鉄の平釜を使っていますが、古代は薄手の土器が使われていたようです。また、藻塩焼くという言葉のように、海藻を焼いた灰にまた海水かけて、煮詰めて固めたなどの説もあると言われ、藻塩製塩の方法も一つとは限らないようです。
この塩釜周辺も古くから藻塩による塩作りが行われていたといわれ、里浜貝塚などから縄文時代晩期の製塩土器が発見されているそうですが、時期的にはこの霞ヶ浦の製塩よりもかなり後の時代といわれているようです。またこの塩釜で藻塩を焼く煙を歌った鎌倉初期の歌が残されています。
見し人の 煙となりし 夕より 名ぞむつましき 塩がまの浦(『新古今集』巻八)
このように古代の藻塩製塩方法は豊臣秀吉の朝鮮出兵により韓国からもたらされたという入浜式塩田による製塩方式にとって替わるまで一般的な方法だったようです。
前述した安寿と厨子王の説話には安寿は朝晩に海水汲みをさせられ、昼間時間がある時は、藻塩焼きの手伝いをさせられたことが書いてあります。
藻塩焼くのは海女の仕事で万葉集ではこの海女が「塩を焼く」と「恋焦がれる」などを想像して歌われているものが多いので、どのような労働になっていたのかは推察するのみですが、歌にうたわれたほど甘い世界ではないと思います。
一方、塩田法はさらに過酷で塩商人などが暗躍していたようですので、とても歌になど読めない世界だったのでしょう。
話を最近の話題に戻しますが、この藻塩製塩はミネラル分も豊富でおいしいそうです。復活して作っているところもあるようですので試してみるのも良いかもしれません。
しかし日本の塩も今では自給率は12%程度で、ほとんどを輸入に頼っているそうです。また世界を見ると、「塩は岩塩を採掘するもの」という考え方がほとんどで、海から塩を造るという日本の常識は、世界の常識では無いそうですのでいろいろな考え方を知らなければならないようです。塩の使い道も食塩というよりは、身近なものでは石鹸、化学薬品、紙やパルプなどの原料になる苛性ソーダなどに多くが使われているといいます。
さて、最近のニュースで知ったのですが、海藻がたくさんある海中の場所を「藻場(もば)」というそうですが、この藻場が海水温の上昇で大変なことになっているのだそうです。
九州南部の沿岸に広がっていた藻場の消滅が、今は九州沿岸全域に及び、四国や山陰沿岸にも影響が出始めているようです。
これは藻塩などの問題よりはるかに深刻な問題です。
藻場は魚の卵を産み付ける場でもあり、くらげなどのえさにもなってきましたが、海水温の上昇で死滅するはずのくらげが大量に発生してどんどん北上し始めているのです。
このような古代製塩法も、古き縄文時代に思いを馳せるだけではなく、自然環境の変化などにも関心を持つきっかけになればうれしい事です。
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