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鹿島灘の七釜

 前回の「古代製塩」記事の続きです。
これも以前書いたブログ記事とダブりますが、ここに少し訂正して再度掲載します。

前回は霞ヶ浦の南岸近くの広畑貝塚で縄文時代後期の海草を焼いたと見られる土器のかけらが見つかっているという話をさせていただきました。
この方法は、奈良時代ころまでは各地で続けられてきたようです。

常陸国風土記には、浮島(稲敷市)で「山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる」という記述があります。この風土記が書かれたのは8世紀初頭ですが、記述の内容は4~5世紀頃に浮島で製塩で生業を立てる者がいたことになります。

また陸奥国一宮である宮城県塩竈市の「塩釜(鹽竈)神社」には今でも昔からの塩の製法を伝承する行事も行われていますが、この神社の創建についても謎が多くはっきりとはしていません。
ただ、伝承によれば「鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。」と書かれており、祀られているのも「塩土老翁神 、武甕槌神、経津主神」
の3柱です。
これから考えれば創建は奈良時代の少し前くらい(6~7世紀頃)ではないかとも考えられます。

 今回はこの藻塩焼きではなく、海の水を汲んできて塩田と呼ばれる砂浜に何度も撒いて、天日で、水分を飛ばし、最後に釜で焼いて塩を作るいわゆる「揚げ浜式塩田法」についてです。

ではこれから、この歴史をひも解いていきましょう。

常陸国は鹿島神宮から北の大洗磯前(いそさき)神社との間の海岸線は一般には鹿島灘と呼ばれ、砂浜は続いていますが、比較的波が高いことでも知られています。

この鹿島灘の海岸に「釜」という名前の付く地名が7つあります。
北から「上釜・別所釜・武与釜・高釜・京知釜・境釜・武井釜」の七つです。
この釜が実は塩焼きの釜(鉄釜)であったことは意外に知られていません。
また汲上(くみあげ)などという地名も塩(海水)汲みから来ているに違いないでしょう。

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鹿島灘は、昔から砂鉄の産地で、鹿島神宮が武人の神を祀っているのもこの地が鉄の産地であったことが大きいのではないかとも言われています。
海水と鉄の産地という事で日本でも早期に「揚げ浜式塩田法」による製塩が行われたのではないかと思われます。

さて、記録を調べてみると、平安時代の文徳実録(貞観13年:871年)の記述の中に、大洗の磯前神社近くの海岸で「海を煮て塩を作る者有り(856年12月の条)」と書かれています。恐らく記録としてはこれが最古ではないかとも思います。

また、鎌倉時代後期から室町時代に成立したとされる物語(昔話)を江戸時代に23編集めて大坂の渋川清右衛門が「御伽草子(おとぎぞうし)」を編集しました。

ここには、有名な一寸法師、浦島太郎、鉢かつぎ、物ぐさ太郎などの話が載っていますが、この最初に載っている話に「文正草子(ぶんしょうそうし)」があります。

 内容は、『むかし、鹿島の大宮司の下男であった文太という男が、主家から追い出されて「つのをかが磯(角折?)」に住みついて、塩焼きを始めます。 しかし、追い出されても自分で塩焼きを始め、そしてこの塩が味もよく、病にも効くと評判になり通常の相場の倍の高値で飛ぶ様に売れたのです。
そしてこの塩焼きで長者になっていきました。しかし子宝に恵まれず、鹿島大明神に願掛けして2人の娘ができました。

 ある日姉は旅の商人と結ばれてしまうが、実はその商人は姉妹の美しさを伝え聞いた関白の息子(中将)であった。
この姉は中将に伴われて上洛すると、今度はその評判を聞いた帝によって文正夫妻と妹が召し出された。
そして妹は中宮となり、姉も夫の関白昇進で北政所となってそれぞれ子供に恵まれ、宰相に任ぜられた文正とその妻も長寿を保ったという。』

「文正草子」はこの文太が出世して「文正つねをか」と名乗ったことでつけられた名前であり、卑賤の身分であったものが立身出世をしていく話として室町時代に大いに語られたようで、江戸時代の草紙にも最初にとり上げられたものだ。

しかし中世の説話には「山椒大夫」や「信太の小太郎」など地方の塩焼きの悪徳屋敷にこき使われて苦しむ話も多い。
それを考えると、この文正草子の立身出世話は、世間ではどのように受け止められてきたのだろうか。

この「文正つねをか」が塩汲み・塩焼きをしていたとされる場所が「角折(つのおれ)」と考えられており、現在ここには、ハマナスの花の南限とされる場所ということで、「はななす公園」があります。 またこの公園の名前に「長者ヶ浜潮騒」と名前を頭に冠しています。この長者というのが伝説で伝わる塩で大もうけをした長者(文太長者)というのです。

角折の浜は常陸国風土記には
「昔、大きな蛇がゐて、東の海に出ようとして、浜に穴を掘って通らうとしたが、蛇の角が折れてしまったといふ。そこから名付けられた。また別の伝へに、倭武の天皇がこの浜辺にお宿りになったとき、御饌を供へるに、水がなかった。そこで鹿の角で地を掘ってみたら、角は折れてしまった。ここから名付けられた。」
と書かれています。

この角のある蛇というのは、常陸国風土記にはもう一箇所(行方)出てきます。こちらも面白い話ですね。角がある蛇がいたのでしょうか?

江戸時代前期には、満潮の時の海面と干潮の時の海面との中間の高さに塩田が造る「入浜式塩田法」が開発されましたが、このあたりは波が高く、結構長い間、揚げ浜式塩田法が採用されていたようです。

記録によると、波打ち際から30間(54m?)離れたところに塩田を作り、海の水を桶で運んだようです。上記の釜のつく場所の集落もこの塩田近くに作られていったものと考えられます。


地域振興 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/09/30 11:59
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