塩の道
ここまで2回にわたって、古代製塩から中世の製塩を見てきましたが、この先を少し紹介したい事があります。
私は常陸国国府があった石岡に住んでいますが、前回書いた鹿島灘の塩をこの地に運んでいた記録があります。
あまりこのルートも今ではよくわからなくなっていますが紹介します。
まず、私のふるさと風の会の主査で昨年亡くなられた脚本家の白井啓治(ひろぢ)さんがかかれた「潮の道余話」から一部を抜粋します。
『大洋村の汲上浜では古くから製塩が行なわれていました。
しかしその起源はというと、確かな記録もなくはっきりとしたことは分りません。
日本文徳実録の元慶三年(879年)の条に「大洗磯前に海水で塩をつくる翁」という記事が出ており、これが現在最古の文献のようです。
大洋村に製塩が最も盛んだった時代は天保年間(1830~1844年)のことで、塩釜が八基あり、土地の人は八釜と言っていたそうです。
製塩に従事していたのは比較的小農に属する農家で、汲上・幡木・上沢・大同地区あわせて五六戸であったといいます。
大洋村に作られた塩は叺に詰め、馬の背で汲上から石岡府中に運ばれましたが、この運搬道を「潮の道」と呼ばれていました。
潮の道は、新旧二つのルートがあり、旧ルートは、汲上→鎌田→鉾田→小船津→両宿→小貫→中山→芹沢→倉数(中継所)→与沢→小川→高浜→府中。新ルートは、汲上→鎌田→鉾田→仮宿→上山→倉数(中継所)→与沢→小川→四箇村→府中。
倉数は汲上と府中の往復一日の距離に当たる中間地点で、中継所として塩蔵があり、当時は大層な賑わいを見せていました。
往時を偲ばせる糸ひば(樹齢四~五百年)が今も保存されています。
塩蔵の近くには、塩に関係する神社として潮宮神社あり、御神木の大杉が大地に確りと根を下ろし、時代の移ろいを見守っています。
大杉に耳を当てて、心澄まして聞くと地中から吸い上げる水の音に重なって、大杉の見てきた潮の道にまつわるいろいろな話を語り聞かせてくれます。』
これは創作物語の始めに述べられていますが、調べられて書かれていますので、ここまでは殆んど事実のようです。
そこで鹿島灘に面した汲上~府中(現石岡)との中間地点である倉数(小美玉市)へ行って見ました。
ここに通りから少し奥まった所に鎮座している「潮宮神社」を訪ねてみました。
この潮宮神社(いたみやじんじゃ)は、高倉下命(たかくらじのみこと)を祀り、創建は古く、かつては鹿島神宮の潮宮(いたみや)として祭られていたが、992年にこの地に移されたとされる。
このため鹿島神宮との関係が深く、12世紀にはこの倉数地区が鹿島神宮の知行地となっていたとの記録もあるようだ。
また中臣氏の領有地であったともいわれている。
江戸時代始めに徳川光圀が「板来(板久)」の地に来て、鹿島で古く潮宮(いたみや)があったことを聞き、常陸国風土記に「板来(いたこ)」の名前由来が、現地人たちを「痛く殺した」ことから名前が付けられたと書かれているため、この名前を「潮来(いたこ)」に変更させたというのは結構有名である。
この「潮=いた」という鹿島神宮に昔あったと言う潮宮がこの地の「潮宮神社」となっている事はあまり知られていない。
最初に私が、この地を訪れたのは今から10年前のことでした。

昔はこの参道を多くの人が踏みしめたためだろう、長く伸びた参道は土が下に深く沈んで、木の根は浮き出てしまっている。
また、多くの木が右に傾いて伸びていた。
訪れた人は、きっと不思議な想いにとらわれるに違いない。
私も古木が話しかけてくるような不思議な感覚におそわれた。
これらの古木はいったいいつからここでの生活を見てきたのであろうか。
しかし、それから5年以上経って又訪れたが、メインの参道を避けて通れる道が脇に作られており、木の数も減ってしまっていた。
やはり歴史は消えていくのだろうか?
もう今の姿では昔の塩の道としての面影を感じることは出来なくなっている。
また、汲上地区へも行ってみた。
ここは神社なども鹿島灘から吹く風に飛ばされた砂が境内や道路などを覆い、年月で姿を変えてしまっているようだ。
汲上地区の上島東小学校のわきには「汲上観音堂」があるが、ここには県指定の観音像(如意輪観音)が安置されていた。
像は高さ85cmほどの比較的小さな像ですが、このあたりではかなり古い仏像で、平安時代初期(11世紀末頃)の作と見られています。
扉が開くのは年2回です。
どのようないわれでこの地に運ばれてきたのでしょうか?
古に夢が膨らんでいきます。

仏像といえば、時代的にはもう少し後(鎌倉時代後期)になるが、同じ旧太陽村の大蔵という所にある福泉寺(通称穴寺)には、国宝の釈迦如来立像が安置されている。
これは清凉寺式(生身の仏の姿を表わしたと伝えられる像)の像で、県内でも珍しいものです。
真偽は不明ですが、この像は、つくばの麓に(三村山)極楽寺を建てた忍性がこの像をもたらしたと言い伝えられています。
こちらはお釈迦様の誕生日(4月8日)のみ公開されています。
それにしても思いがけないような場所にこのようなものが伝わって残っているのは嬉しい事ですね。
私は常陸国国府があった石岡に住んでいますが、前回書いた鹿島灘の塩をこの地に運んでいた記録があります。
あまりこのルートも今ではよくわからなくなっていますが紹介します。
まず、私のふるさと風の会の主査で昨年亡くなられた脚本家の白井啓治(ひろぢ)さんがかかれた「潮の道余話」から一部を抜粋します。
『大洋村の汲上浜では古くから製塩が行なわれていました。
しかしその起源はというと、確かな記録もなくはっきりとしたことは分りません。
日本文徳実録の元慶三年(879年)の条に「大洗磯前に海水で塩をつくる翁」という記事が出ており、これが現在最古の文献のようです。
大洋村に製塩が最も盛んだった時代は天保年間(1830~1844年)のことで、塩釜が八基あり、土地の人は八釜と言っていたそうです。
製塩に従事していたのは比較的小農に属する農家で、汲上・幡木・上沢・大同地区あわせて五六戸であったといいます。
大洋村に作られた塩は叺に詰め、馬の背で汲上から石岡府中に運ばれましたが、この運搬道を「潮の道」と呼ばれていました。
潮の道は、新旧二つのルートがあり、旧ルートは、汲上→鎌田→鉾田→小船津→両宿→小貫→中山→芹沢→倉数(中継所)→与沢→小川→高浜→府中。新ルートは、汲上→鎌田→鉾田→仮宿→上山→倉数(中継所)→与沢→小川→四箇村→府中。
倉数は汲上と府中の往復一日の距離に当たる中間地点で、中継所として塩蔵があり、当時は大層な賑わいを見せていました。
往時を偲ばせる糸ひば(樹齢四~五百年)が今も保存されています。
塩蔵の近くには、塩に関係する神社として潮宮神社あり、御神木の大杉が大地に確りと根を下ろし、時代の移ろいを見守っています。
大杉に耳を当てて、心澄まして聞くと地中から吸い上げる水の音に重なって、大杉の見てきた潮の道にまつわるいろいろな話を語り聞かせてくれます。』
これは創作物語の始めに述べられていますが、調べられて書かれていますので、ここまでは殆んど事実のようです。
そこで鹿島灘に面した汲上~府中(現石岡)との中間地点である倉数(小美玉市)へ行って見ました。
ここに通りから少し奥まった所に鎮座している「潮宮神社」を訪ねてみました。
この潮宮神社(いたみやじんじゃ)は、高倉下命(たかくらじのみこと)を祀り、創建は古く、かつては鹿島神宮の潮宮(いたみや)として祭られていたが、992年にこの地に移されたとされる。
このため鹿島神宮との関係が深く、12世紀にはこの倉数地区が鹿島神宮の知行地となっていたとの記録もあるようだ。
また中臣氏の領有地であったともいわれている。
江戸時代始めに徳川光圀が「板来(板久)」の地に来て、鹿島で古く潮宮(いたみや)があったことを聞き、常陸国風土記に「板来(いたこ)」の名前由来が、現地人たちを「痛く殺した」ことから名前が付けられたと書かれているため、この名前を「潮来(いたこ)」に変更させたというのは結構有名である。
この「潮=いた」という鹿島神宮に昔あったと言う潮宮がこの地の「潮宮神社」となっている事はあまり知られていない。
最初に私が、この地を訪れたのは今から10年前のことでした。

昔はこの参道を多くの人が踏みしめたためだろう、長く伸びた参道は土が下に深く沈んで、木の根は浮き出てしまっている。
また、多くの木が右に傾いて伸びていた。
訪れた人は、きっと不思議な想いにとらわれるに違いない。
私も古木が話しかけてくるような不思議な感覚におそわれた。
これらの古木はいったいいつからここでの生活を見てきたのであろうか。
しかし、それから5年以上経って又訪れたが、メインの参道を避けて通れる道が脇に作られており、木の数も減ってしまっていた。
やはり歴史は消えていくのだろうか?
もう今の姿では昔の塩の道としての面影を感じることは出来なくなっている。
また、汲上地区へも行ってみた。
ここは神社なども鹿島灘から吹く風に飛ばされた砂が境内や道路などを覆い、年月で姿を変えてしまっているようだ。
汲上地区の上島東小学校のわきには「汲上観音堂」があるが、ここには県指定の観音像(如意輪観音)が安置されていた。
像は高さ85cmほどの比較的小さな像ですが、このあたりではかなり古い仏像で、平安時代初期(11世紀末頃)の作と見られています。
扉が開くのは年2回です。
どのようないわれでこの地に運ばれてきたのでしょうか?
古に夢が膨らんでいきます。

仏像といえば、時代的にはもう少し後(鎌倉時代後期)になるが、同じ旧太陽村の大蔵という所にある福泉寺(通称穴寺)には、国宝の釈迦如来立像が安置されている。
これは清凉寺式(生身の仏の姿を表わしたと伝えられる像)の像で、県内でも珍しいものです。
真偽は不明ですが、この像は、つくばの麓に(三村山)極楽寺を建てた忍性がこの像をもたらしたと言い伝えられています。
こちらはお釈迦様の誕生日(4月8日)のみ公開されています。
それにしても思いがけないような場所にこのようなものが伝わって残っているのは嬉しい事ですね。
この寺の清凉寺仏は写真鹿見たことがありませんが、確かに足の形などがわかるつくりで清凉寺仏でした。
ただ、体内に清凉寺のように内臓模型が入っているかはわかりません。
京都清凉寺の仏像は確か中国由来だったと思いますが、石岡にも清凉寺はあるのですが本尊を見たことがありません。
まあ、茨城でも珍しいものだと思います。(鎌倉時代に、真似ていくつもつくられたかもしれません)
ブッタ(確か年令も決まっていた?)が生きていたときにつくられた仏像のために「生のブッタ」と呼ぶのが由来だったと思います。
http://blog.livedoor.jp/liveokubo/archives/52295773.html
西大寺へは良くいっているようですね。何度かブログでみかけたようです。
今、今東光の「弓削道鏡」を読んでいるところ。
忍性もいましたね。皇族の流れと逆になって寺もあまり知られないでいるのでしょうか。
道鏡も皇族最大の危機だったなどと言われていますね。
清凉寺も数年前に日本の100寺と仏像などを2年くらいにわたって調べたことがあります。