FC2ブログ

手奪橋(その4)

【手奪橋(その4)】

茨城県行方市の梶無川に架かる河童伝説の残された「手奪橋」を少し調べています。
わかったことなどを少しずつ書いていきます。今回は4回目です。

<常陸国風土記と行方地方>

 物語の背景を理解するために、8世紀の前半に纏められたという常陸国風土記に書かれている行方郡について調べておきます。

常陸国風土記は天智天皇の皇女である元明天皇が藤原京から平城京に遷都を行い、全国に『風土記』編纂の詔勅を出した事により、各地で編纂されたものです。

その中で、出雲国と常陸国の風土記が比較的欠落が少なく、内容もすぐれているとされています。
常陸国風土記は藤原不比等の三男であり常陸国守であった藤原宇合(うまかい)と万葉集などにも多くの歌が残されている高橋虫麻呂の二人によって713年に編纂され、721年に成立したと考えられています。

内容は、当時の古老などから聴取したことをまとめたもので、地名のいわれなども、必ずしも真実という事ではなく、当時言い伝えられていた事などをそのまま書いたとされています。(多少は大和朝廷の意向を反映している箇所もありますが・・・)

行方(なめかた)郡についての記述から関係しそうな事を抜粋します。
また、以下の内容は「神話の森、口訳・常陸国風土記」の訳を使わせていただきました。

1) 白雉四年(653年)に、茨城と那珂の郡からそれぞれ八里と七里(面積)、合計十五里(七百余戸)の土地を提供して、郡家を置いて、行方郡とした。

2) 昔、倭武の天皇(ヤマトタケルのこと)が、霞ケ浦より北を言向けられたとき、槻野の清泉(いづみ)に出たとき、清水で手を清め、玉をもって井戸をお褒めになった。これが玉の清井といはれ、今も行方の里にある。
 ⇒現在も玉清井(泉+神社)としてある

tamakiyoi.jpg
(現在も国道355線近くの田んぼに囲まれて、池と神社がこんもりとした木々に覆われている)

3) (倭武の天皇は)車駕で国を巡り、現原(あらはら)の丘で神に御食を供へた。そのとき天皇は、四方を望み、侍従におっしゃった。「車を降りて歩きつつ眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねってゐる。峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)ゐて、繊細な(くはしい)美しさがある。だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」。行細の名は、後には、行方(なめかた)といふやうになった。
この丘は、周囲からひときは高く顕はれて見える丘なので、現原と名付けられた。
 ⇒ここでは行方(なめかた)という名前の由来と、現原(あらはら)の丘の名前由来が書かれている。
この現原(あらはら)の丘の場所は、この手奪橋のすぐ上である。

arahara03_20201013092206ed7.jpg
(現原小学校をめざして、芹沢地区で梶無川を渡るとすぐ右に入る案内板がある。少し下ってからゴルフ場の間を抜けるように道が続いており、少し登って開けた田圃が出る。そこにこの看板がある。今は木々が邪魔して周りを眺める事ができない。)

4) この丘(現原)を下り、大益河(おほや がは)に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまった。よってその川を無梶河(かぢなしがは)といふ。茨城、行方二郡の境を流れる川である。
 ⇒この手奪橋の下を流れる川が梶無川(かじなしがわ)である。
梶無川(かじなしがわ)はこの手奪橋から下流(南)へ4~5kmで霞ヶ浦に注ぎます。また上流は小美玉市の旧美野里地区の石岡ゴルフクラブの方から流れてきています。

kajinasi01_202010130922091a8.jpg
(国道355号線の橋近くに設置された川名板)

kajinasi02_20201013092208261.jpg
(霞ヶ浦から白鳥がよくこちらに来て泳いでいます。また、この近くに昔の鹿島参宮鉄道(後の鹿島鉄道、現在廃線)の玉造駅ができました。この川沿いに桟橋が出来、ここから鹿島神宮に参拝するための船が出たのです。)

5) 無梶河をさらに上って郡境まで至ると、鴨が飛び渡らうとしてゐた。天皇が弓を射るや、鴨は地に堕ちた。その地を鴨野といふ。土は痩せ、生ふ草木もない。
⇒ 鴨が落ちた場所に祠が建てられ、

kamonomiya01.jpg

現在の「鴨の宮」は、旧玉造駅側から県道116号線を北の方に進み、玉造第一保育園の少し先を右に入ってすぐこの標識が見える。

kamonomiya02.jpg

この神社がここに建てられたのは昭和50年のこと。
その前にあった場所は、大山守をしていた「大塲家(おおばけ)」屋敷の隣の裏山に残されているの玉造郷校跡から200mほど離れた山の端の方です。

tamatsukurigoukou.jpg

 この場所に、昭和2年に鹿島鉄道が玉造から鉾田へ路線を広げた為、この敷地の山の一部が掘削されてしまいました。
そして、その場所に「鴨の宮再建」という碑が立てられていたという。
そしてやっと昭和50年になって現在の鴨の宮が建てられたようです。
玉造郷校は天狗党の乱のときに焼けてしまったようです。

どうでしょう。少し背景が見えてきたでしょうか?

これによれば、この川の名前は「大益河」(おおやがわ)と昔は呼ばれていたらしく、その後、梶無川(かじなしがわ)と呼ばれていて、この名前の由来が、ヤマトタケルの話として書かれている。

また、この行方地方にヤマトタケル(風土記では倭武の天皇と記載)が多く登場しているが、これは行方郡が、その廻りの茨城郡や鹿島(香島)郡、那珂郡などへの大和朝廷の進出に比べて、少し遅れてから征圧が始まったと考えてもよさそうだです。
そのため、地名にも佐伯の部族の名前などとの表現が各所に見られます。

では次回は芹澤氏について少し調べてみましょう。

手奪橋の最初から読むには → こちらから

てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/13 10:18
コメント

管理者のみに表示