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手奪橋(その6)

【手奪橋(その6)】

茨城県行方市の梶無川に架かる河童伝説の残された「手奪橋」を少し調べています。
わかったことなどを少しずつ書いていきます。今回は6回目です。
あまり結論が見えないまま、手奪橋と河童伝説から何か見えてこないかと勝手に書き始めたのですが、ますます結論は遠ざかっているようです。
まあ、読んでいただいている方には申し訳ないのですが、恐らく何も結果はもたらさないかもしれません。
でも結論も何も見えずに公開して書くということは、結構勇気が要りますよ。
今回は全く横道にそれてしまうのですが、芹沢鴨という人物を簡単に調べておきたいと思います。

<芹澤鴨は果たしてこの芹沢家?>

 新選組を創った男などといわれる「芹沢鴨」ははたして、この関東平氏の流れをくむ芹沢家の子孫か?
芹沢鴨については、その出生については現在もよくわかっていない。

成人になるまでは下村嗣次(しもむらつぐじ)を名乗っており、この名前から松井村(現茨城県北茨城市中郷松井)の神官下村祐の子供(実子)、または(芹沢家からの)婿養子ではないかとも言われている。(これもはっきりしない)
そのほかにも芹沢家の一派分家の出などとも言われ、いまだにいろいろな説があり、生れた年についても確定していない。

数年前までは、この下村嗣次は芹沢家の当主・芹沢外記(貞幹)の三男であり、文政9年(1826年)の生まれで、幼名は玄太であるというのが一般的な説明だった。
しかし、その後芹沢外記の四男で文政7年(1824年)もしくは文政9年(1826年)生れの長谷川庄七という人物がいることが判明した。長谷川庄七は江戸護衛組織の新徴組から天狗党に加わり、元治元年(1864年)8月16日、那珂湊で戦死した記録が見つかった。そのため、芹沢外記の三男と四男とで年代にも矛盾が生じてきた。

この芹澤外記貞幹の三男の「玄太」とあるが、これは法眼寺の過去帳の記録を読み間違っていたことが判明し、芹沢玄太は芹沢兵太の間違いであったという。この三男兵太は文化12年(1815年)から文政6年(1823年)の間に生まれており、慶応4年(1868年)時に芹沢家当主だったとされているため、三男兵太は芹澤鴨とは別人と判明している。

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芹沢家の門近くには市が設置した「芹沢鴨の生家跡」の看板があった。

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芹沢家は現在住んでおられないようだが、手入れはされていて敷地もかなり広い。

この芹沢家の近くに芹沢家菩提寺の「法眼寺(ほうげんじ)」という曹洞宗の禅寺がある。
このお寺はもともと芹沢家の菩提寺であった「東福寺」を江戸前期の1668年に改築する時に、徳川光圀から命じられて、秋田の佐竹氏の太田礼堂(宝源寺)を合併しての再建ならば良いとなり、ここに「法眼寺」という名前の寺として再興された。

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(芹沢家の菩提寺 医王山法眼寺)

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寺の山門を入ったすぐ左側に『新選組を創った男 芹澤鴨・平間重助』の顕彰碑が置かれている。
また直ぐその隣に並んで、平成22年に建立されたいう新しい顕彰碑「芹澤鴨が愛したお梅の碑」が建てられている。
芹沢鴨は八木家でこの愛妾お梅と寝ているところを意見が対立していた新選組のメンバーによって襲われ、芹澤鴨とともに惨殺されたという。

もう一人の「平間重助」は芹澤鴨と行動を共にし、新選組に入り八木家で芹澤鴨と共に刺客に襲われるが、この平間重助は助かる。その後、郷里芹澤に戻り明治7年に51歳で亡くなったとされる。

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(『新選組を創った男 芹澤鴨・平間重助』の顕彰碑)

一番最後に北の天満宮に献じたとされる「霜雪に 色よく花の魁て 散りても後に 匂う梅が香」という歌が載せられている。

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(「芹澤鴨が愛したお梅の碑」)

さて、この法眼寺は芹沢家の菩提寺という事で、お墓を探して寺の裏へ。

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裏山の少し高い所にお墓がありました。

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これが、芹沢家のお墓です。

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この正面の碑は「法眼寺開基之碑」
この開基は「芹澤隠岐守平俊幹」となっています。

そして 常陸大掾 多気太郎平義幹 十二代後裔 初代芹澤城主也 文明十七年没 1485年 と書かれています。

ここを訪れたのはもう5年ほど前です。
その時もここに書かれていることはなんとなく理解したのですが、前回芹沢家の歴史を振り返り、経歴なども見て言ってようやく今理解ができたように思います。(まだ一部ですが)

なかなか全容を理解するのは大変ですね。

では下村嗣次(継次)と名乗っていた人物が、いつ頃から芹沢鴨と名乗るようになったのだろうか?

記録によると、1858年に徳川幕府が天皇の承諾なしに日米修好通商条約を調印したことに腹を立て、孝明天皇が水戸藩(一橋派)へ幕政改革を求める密勅(戊午の密勅)を下した。
しかし、大老井伊直弼は、この蜜勅の返納を命じ、水戸藩の主だったものを投獄したり謹慎させたりした(安政の大獄)。
水戸藩からの密勅返納を阻止しようと、反対派は水戸の南の長岡に結集した。
下村嗣次は、この返納阻止運動に参加し、1860年頃、玉造勢に入ったと考えられています。

ここで、横浜で攘夷を決行するための資金を集めるために、千葉方面などにも出かけていき、強引な取立てなどもしていたようです。これらの強引な手法が代官から幕府へ訴えられ、1861年にここ芹沢家に遊女いろ八といたところを捕縛されています。
翌年1862年1月にようやく釈放されており、この時までは下村嗣次となっているようです。

芹沢鴨と名乗るようになったのはその後のことです。
暗殺されたのが1863年9月ですから、芹沢鴨の名前は新選組にかかわった1年半ほどの短い期間だったといえます。

芹沢家にも出入していたようですし芹沢家とは関係もあったと思われ、鴨の名前も、玉造郷校(玉造勢)に近い所にあった、ヤマトタケル伝説で名前が残されていた「鴨の宮」から採ったということは間違いは無いでしょう。

今回はここまでとします。


手奪橋の最初から読むには → こちらから

てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/15 17:42
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