小松寺と平重盛の墓
10日ほど前になるが茨城県城里町小松にある「小松寺」に行った。
まあ、たまたま近くを通っていて、懐かしくなって立ち寄ったというところではあるんだが・・・。
ここには平清盛の嫡男の重盛の墓がある。
その真偽についてはわからないが、私は本当のように思っている。
重盛は清盛の後を継ぐとみなされていましたが、源平合戦の前に父清盛より早く42歳で病気で亡くなってしまった。
重盛が生きていれば源平合戦の結果も変っていたかもしれないともよくいわれているようですが、重盛の母は正室でも比較的身分が低く、清盛の継室となった時子の子が大切にされて孤立していた様でもあります。
重盛が死んだ後、継室時子の長子「宗盛」が後を継ぎますが、源氏に攻められ平家は西国に逃れる事を決めます。
目指すは九州大宰府や宇佐神宮だったようですが、重盛に仕えて来た平貞能(さだよし)は、九州の状況を見てきていたこともあり、これに反対します。
そして、皆が京を離れるとき、貞義は重盛の墓から遺骨を掘り起こし、周りの土を川に流して、遺骨と重盛の妻を連れて、関東の平氏を頼って逃げたのです。
伊勢平氏の基は関東の平氏で、その本流は当時現在のつくば市北条の多気山に居を構えていた多気大掾氏(だいじょうし)でした。
この寺に残されているのは、この多気大掾義幹(よしもと)を頼ってきて、この地に遺骨を埋め、夫人はここで尼(相応院得律禅尼)となって菩提を弔ったとされています。
ただ、貞義は重盛夫人と共に、重盛の妹も一緒に関東に逃げてきたといわれ、ここから貞義は、重盛の妹(妙雲禅尼)をつれて、関東藤原氏の宇都宮氏(宇都宮朝綱)を頼って行ったという。
宇都宮朝綱は、源氏との修復も図れる相手だったのでしょう。
現在栃木県の益子町の妙雲寺に妙雲禅尼の墓、安善寺に貞義の墓があります。
ただ、平貞義に関する話はいろいろとあり、遠く陸奥国仙台の方まで残されています。
何処までが真実か?
ただ、この茨城の小松寺は、重盛が京都で暮らしていた六波羅小松第から「小松殿」と呼ばれていたこと。
また、寺には重盛の念持仏といわれる小さな白檀の像が残されていることなどから、ある程度の信憑性も感じられます。
白檀の重盛の念持仏 : こちら (前に書いた記事参照)
毎年1月1日に開帳されています。

寺の本堂は東日本大震災の被害があり、近年新たに立て替えられました。
枝垂桜が植えられ、春にはきれいに境内を彩ります。
正面奥に見えるのは薬師堂で白雲山

寺の唐門。 重盛の住んでいた小松御殿の勅使門を模して、大掾義幹によって建久2年(1191年)に寄進されたという。
(現在の門は改修されたと思われる。)

観音堂と本堂をつなぐ渡り廊下を潜って、裏山へ向かいます。

この苔むした石段を登った山の中腹に重盛の墓がある。

墓の処までは入れず、手前に柵があるが、正面が重盛の墓で、左に平貞能(たいら の さだよし)の墓があり、右に重盛夫人の墓がある。
周りが結構鬱蒼としていて、写真を撮ると、必ずぼけてしまう。何処かに霊気を感じさせる場所でもある。


寺の本堂の改築前に使われていた鬼瓦が唐門横に置かれていた。
かなり大きい。
まあ、たまたま近くを通っていて、懐かしくなって立ち寄ったというところではあるんだが・・・。
ここには平清盛の嫡男の重盛の墓がある。
その真偽についてはわからないが、私は本当のように思っている。
重盛は清盛の後を継ぐとみなされていましたが、源平合戦の前に父清盛より早く42歳で病気で亡くなってしまった。
重盛が生きていれば源平合戦の結果も変っていたかもしれないともよくいわれているようですが、重盛の母は正室でも比較的身分が低く、清盛の継室となった時子の子が大切にされて孤立していた様でもあります。
重盛が死んだ後、継室時子の長子「宗盛」が後を継ぎますが、源氏に攻められ平家は西国に逃れる事を決めます。
目指すは九州大宰府や宇佐神宮だったようですが、重盛に仕えて来た平貞能(さだよし)は、九州の状況を見てきていたこともあり、これに反対します。
そして、皆が京を離れるとき、貞義は重盛の墓から遺骨を掘り起こし、周りの土を川に流して、遺骨と重盛の妻を連れて、関東の平氏を頼って逃げたのです。
伊勢平氏の基は関東の平氏で、その本流は当時現在のつくば市北条の多気山に居を構えていた多気大掾氏(だいじょうし)でした。
この寺に残されているのは、この多気大掾義幹(よしもと)を頼ってきて、この地に遺骨を埋め、夫人はここで尼(相応院得律禅尼)となって菩提を弔ったとされています。
ただ、貞義は重盛夫人と共に、重盛の妹も一緒に関東に逃げてきたといわれ、ここから貞義は、重盛の妹(妙雲禅尼)をつれて、関東藤原氏の宇都宮氏(宇都宮朝綱)を頼って行ったという。
宇都宮朝綱は、源氏との修復も図れる相手だったのでしょう。
現在栃木県の益子町の妙雲寺に妙雲禅尼の墓、安善寺に貞義の墓があります。
ただ、平貞義に関する話はいろいろとあり、遠く陸奥国仙台の方まで残されています。
何処までが真実か?
ただ、この茨城の小松寺は、重盛が京都で暮らしていた六波羅小松第から「小松殿」と呼ばれていたこと。
また、寺には重盛の念持仏といわれる小さな白檀の像が残されていることなどから、ある程度の信憑性も感じられます。
白檀の重盛の念持仏 : こちら (前に書いた記事参照)
毎年1月1日に開帳されています。

寺の本堂は東日本大震災の被害があり、近年新たに立て替えられました。
枝垂桜が植えられ、春にはきれいに境内を彩ります。
正面奥に見えるのは薬師堂で白雲山

寺の唐門。 重盛の住んでいた小松御殿の勅使門を模して、大掾義幹によって建久2年(1191年)に寄進されたという。
(現在の門は改修されたと思われる。)

観音堂と本堂をつなぐ渡り廊下を潜って、裏山へ向かいます。

この苔むした石段を登った山の中腹に重盛の墓がある。

墓の処までは入れず、手前に柵があるが、正面が重盛の墓で、左に平貞能(たいら の さだよし)の墓があり、右に重盛夫人の墓がある。
周りが結構鬱蒼としていて、写真を撮ると、必ずぼけてしまう。何処かに霊気を感じさせる場所でもある。


寺の本堂の改築前に使われていた鬼瓦が唐門横に置かれていた。
かなり大きい。
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