立延地区の神社「側高神社」
ここのところ2回にわたって、小美玉市立延地区に伝わる年中行事「青屋様」「盆綱」を紹介しました。
やはりこのような行事や祭りが行われてきたところがやはり気になります。
比較的場所も近いので先日行って来ました。
そして、気になっていた「側高(そばたか)神社」を訪れました。

立延の街は石岡からは、国道355号線を小川の町(茨城空港方面)に左折して園部川を渡ったすぐに川沿いの道に左折します。
そして川の少し上流側の1本目の横道を右折し坂道を登ると直ぐにこの神社が現われます。
行ってみて驚いた事は、神社の境内は落ち葉はきれいに掃き清められ、落ち葉を燃やされた跡がありました。

きれいな境内に足跡を残してはいけないような、そんな清らかな空気が流れていました。
地元の方達が長い年月変わらずに、このように神社を守ってこられたのだと思います。
それだからこそ、このような昔からの伝統行事も守られているのだと感じざるを得ません。
頭が下がります。
入口の石柱には「村社側高神社」と書かれています。

こちらが本殿。 こじんまりとしてはいますが形のよい姿です。
祭神は聞くところでは「大穴牟遅神(おおなむちのかみ)」だそうです。
基本的には大国主命と同じ神とされますが、国を開拓した神です。

石碑も古くなって読むことが出来ません。
向かって右側は神社の由来やたくさんの氏子さんの名前が彫られているようですが判別できません。
左側には何やら詩のようなものが彫られています。
こちらもよくわかりません。

この地区は道も入り組み、高低差も激しく通行には不便そうです。
地区の公民館の方へ行こうと思いましたが、道路の工事中でしたので今回はやめました。
又の機会に行こうと思います。
裏へ回ると、このように山から木々を集めて、薪を貯えているところがありました。
実際にこの地区で使うものか、最近良く使われる薪ストーブ用などに売られるものかは不明です。

この地区はきっと団結力が強い地区かもわかりません。
もう少し又時間を置いて調べてみたいと思います。
側高神社については、以前から気になっていて、調べており、茨城県では3つの神社を見つけていたのですが、ここにもあったということを知らなかったのです。
千葉県の神社を訪れるようになって、香取神宮の鬼門(東北)方向にある千葉県香取市大倉5に鎮座する側高(そばたか)神社を尋ねたのが、この神社を知りたいと思うきっかけでした。
なにしろ香取神宮の鬼門を守っているのに、その祭神が知らされず、長いこと伏せられていたという事です。
そして、その発祥が謎に包まれている千葉氏の城などにもよく祭られていた神様だとされています。
祭神不詳では困るならと、神社で発表された神様が「そばたか神」・・・・ なんだかよくからない。
私が「ふるさと風の会」に入って、3回目の記事がこの神社についてでした。
少し長くなりますが、ここに転載させていただきます。
(2013年1月 ふるさと風)
<側高神社>
利根川に沿って千葉県側を走る国道356号線(利根水郷ライン)を佐原(香取市)から銚子に向かって5kmほど進んだところに「側高神社」の大きな看板がある。成田線の線路際に一際目立つ大きな看板である。
場所は東関東自動車道の佐原パーキングエリアに近い。
仕事で銚子に用事があり、この看板の前を車で何度か通過した。
側高神社?いったいなんと読むのだろうと気になって調べた。
「そばたかじんじゃ」というそうだ。そして、先日やっとこの神社を訪問することができた。
神社の入口に「神武天皇十八年御創建 國土浄化の祖神(みおやがみ)」と書かれた大きな看板が置かれていた。神武天皇十八年は紀元前となっているがこれはそのまま解釈はできない。しかしこれは、近くの香取神宮の創建と同じである。この神社について調べてみると実に興味深い神社であることがわかった。
興味深いのは名前もさることながらその祭神が長い間秘匿とされており、不明ともいわれていたということだ。
今では祭神は、「側高大神」「産土神」などといわれ、この神社は香取神宮の第一摂社だとされる。
この「ソバタカ」と読む神社には他には「側鷹」「脇鷹」「蘇羽鷹」「素羽鷹」「隣高」「相馬高」「祖波鷹」「蕎高」という名の神社が調べただけで十九箇所見つかった。
都道府県別では千葉県十四ヶ所、茨城県三ヶ所、埼玉県二ヶ所と千葉県に集中している。
その他の県には見つからない。また千葉県も昔の下総国の領域であり、茨城や千葉もすべて下総と近い場所にある。
説明と資料として残しておくために、その一覧をここに掲載しておきたい。
(千葉県)
・側高神社:千葉県香取市大倉5
・側高神社:千葉県成田市取香276
・側高神社:千葉県香取郡多古町本三倉
・側高神社:千葉県香取市丁子567
・蘇羽鷹神社:千葉県松戸市二ツ木宮前
・蘇羽鷹神社:千葉県印西市笠神697
・脇鷹神社:千葉県成田市小泉1015
・脇鷹神社:千葉県旭市清和甲904
・脇鷹神社:千葉県香取市伊地山568
・稲荷側鷹合神社:千葉県香取市西部田857
・素羽鷹神社:千葉県印旛郡栄町酒直585
・隣高神社:千葉県山武郡芝山町下吹入421
・相馬高神社:千葉県山武郡芝山町上吹入353
・祖波鷹神社:千葉県香取市岩部1064
(茨城県)
・側鷹神社:茨城県行方市小高(旧麻生町)
・側高神社:茨城県稲敷郡河内町金江津4272
・脇鷹神社:茨城県稲敷市飯出(広畑貝塚の隣)
(埼玉県)
・蕎高神社:埼玉県吉川市高富(たかどみ)
・蕎高神社:埼玉県吉川市高久(たかひさ)
この一つ一つを足で歩いて調べてみたい衝動に駆られたが、実際に見に行ったのは数ヶ所のみだ。ここでは、調べた内容をいくつかを紹介するのみに留めておきたい。そして、時間がある時にまたのんびりと訪れてみるのも良さそうである。
一、香取市大倉の側高神社。
香取神宮の東北(丑寅)方向にあり、香取郡と海上郡との境界に建つ。香取神宮の鬼門(東北)に置かれた神社と思われる。
創建は香取神宮と同じ神武天皇十八年とされ、その他の「そばたか神社」の総本社と思われる。
九州肥後の多氏が上総に上陸し、開拓した氏族、または前からこの地に住む氏族かは不明である。
この神社には次のような話が残されている。
「側高神が香取神の命で陸奥の馬二千疋を捕らえて霞ヶ浦の浮島まで帰ってきたところ、陸奥の神が追跡してきたため側高神は浦を干潮にして馬を下総に渡らせ、次いで満潮にして陸奥神が渡れぬようにした。」
また鎌倉時代から始まったとする五穀豊穣を願って当番の引継ぎの際、酒を飲み合う時に、カイゼル髭を撫でる「ひげなで祭」が今も行われている。
二、成田市取香(とっこう)の側高神社。
成田空港の敷地に隣接し、高速道路脇に建つ。江戸時代から続く県の無形民俗文化財に指定された能楽「三番叟」が四月の花見時期に行われていることで知られる。
これも稲作文化の五穀豊穣を願う祭りである。
このトッコウ(取香)という変わった名前については、香取を逆さまにしたもので、古来から住んでいた部族が、後からやってきた香取神(物部・経津主(ふつぬし))に侵略されたことに対する抵抗の表れという説がある。
成田空港建設時に神社が移転し、祭りも一時途絶えたが復活されたという。
三、茨城県行方市小高の側鷹神社。
常陸風土記の行方郡に「行方郡男高里に栗家池があって、その北に香取神子の社がある」と書かれているが、この香取神子の社がこの小高側鷹神社のとされている。
社伝によると、経津主大神がこの小高に東征したときに、大祖高皇産霊尊(国産の神)を祀り、石槌の剣を捧げて戦勝を祈ったのがこの社の始まりだと伝えられる。
この石槌の剣はこの側鷹神社の御神宝となっている。
香取神宮からみると霞ヶ浦を渡った北北西であり、浮島の対岸に位置している。
この社が北東(丑寅)の鬼門に建てられた神社と考えると、近くの皇徳寺の裏山に皇徳寺古墳群が見つかっており、ここに下総の部族の一部が住んでいたと考えることも出来るであろう。
四、印旛郡栄町酒直(安食)の素羽鷹神社。
この神社の近くにある「龍角寺」(創建:和銅二年(七0九))に伝わる話では「昔、印旛沼の龍が天に昇って雨を降らせ、その後、龍の体が三つに分かれて天から降った。その頭の部分が落ちたところに龍角寺を建て、この龍の頭を祀った。」といわれている。
また腹と尾が落ちたところにそれぞれ「龍腹寺」「龍尾寺」がある。この酒直の素羽鷹神社については詳しいことが分からないが、創られた年代も、この龍角寺とほぼ同じ頃でつながりも深いと考えられる。
五、 松戸市二ツ木宮前の蘇羽鷹神社。
この神社の建っていたところには千葉孝胤が治めた三ヶ月馬橋城が建っていた。千葉氏は居城である亥鼻城(いのはなじょう)‘(現千葉市役所近く)の鬼門(東北方向)に曽場鷹神を祀っていたという。そして、その後佐倉に移る際に、この馬橋城が廃城となり、そこに蘇羽鷹神社が建てられたと伝えられている。または太田道灌との争いに敗れ、落城したが、その後千葉宗家によりこの神社が建てられたともいう。
六、 埼玉県吉川市の二つの蕎高神社。
埼玉県にあるが、この吉川市は昔、武蔵国二郷半領吉川村と呼ばれ戸張氏が領有していた時期があった。
戸張氏は千葉氏の系列である相馬一族で、相馬師常の八男(行常)が葛飾郡戸張郷(柏市戸張)を領して戸張氏となった。
居館(戸張城)は柏トンネル付近にあったとされるが、この吉川に「そばたか神」を祀ったものと考えられる。
この二つの神社ではそれぞれ一月にあられをぶつけ合う「オビシャ」という五穀豊穣を願う祭りが残されている。
「そばたか」と呼ばれる神社を六つほど見てきたが、これらの神社に共通して見えてきた点を述べると次のようなことが挙げられる。
(1)祭神としては、そばたか大神を祀るが、この神は下総に経津主がやってくる前にすでに土着していた部族が崇拝していた神と思われる。
(2) 経津主(香取大神)と協力して日本の国創りをした。これは高皇産霊尊(国産神)と重なる。
(3) 千葉氏およびその氏族である相馬氏が密かにこの神を祀って、鬼門(丑寅)を守る神とした。
千葉氏は桓武平氏良文流とされるが、この祭神を密かに奉っているのは多氏や蘇我氏の系列や天日鷲命を祀るところもあるので阿波忌部氏などとの関係も考えられる。
古代においては鬼門は忌み嫌う方向ではなく、神のくる方向であり、最も運気の強い神を祀ったものと考えられる。
(4) 五穀豊穣を奉る神であり、稲作、雨乞いの神となった。
(5) 神話における日本の国創りにおいて、表に出せずに隠す事情があった。
これらのどこに真実があるかは筆者には解き明かす力は無い。しかし、いつか事実が明らかになる日は来ると思う。
最後に常陸風土記の信太郡のところに書かれている一節を載せておきたいと思います。
「諺に、 ”葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ” といふ。 山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。」
ここでいう葦原というのは常陸国の信太郡あたりを指していると解釈されます。また、日本神話では「葦原中国(あしはらのなかつくに)とは、高天原と黄泉の国の間にある日本の国土のこととされています。
さあ、今も下総の国と、利根川を挟んだ対岸にある信太郡(稲敷市、美浦村など)では常世の国の穏やかな風が吹いています。
今年は災害もない良い年であることを願っています。
(ふるさと風 引用記事 ここまで)
以前これについては3回ほどブログでも書いているので記事は下記にもあります。
1)そばたか神社(1)-側高神 ⇒ こちら
2)そばたか神社(2) ⇒ こちら
3)そばたか神社(3)-側鷹神社(行方市) ⇒ こちら
やはりこのような行事や祭りが行われてきたところがやはり気になります。
比較的場所も近いので先日行って来ました。
そして、気になっていた「側高(そばたか)神社」を訪れました。

立延の街は石岡からは、国道355号線を小川の町(茨城空港方面)に左折して園部川を渡ったすぐに川沿いの道に左折します。
そして川の少し上流側の1本目の横道を右折し坂道を登ると直ぐにこの神社が現われます。
行ってみて驚いた事は、神社の境内は落ち葉はきれいに掃き清められ、落ち葉を燃やされた跡がありました。

きれいな境内に足跡を残してはいけないような、そんな清らかな空気が流れていました。
地元の方達が長い年月変わらずに、このように神社を守ってこられたのだと思います。
それだからこそ、このような昔からの伝統行事も守られているのだと感じざるを得ません。
頭が下がります。
入口の石柱には「村社側高神社」と書かれています。

こちらが本殿。 こじんまりとしてはいますが形のよい姿です。
祭神は聞くところでは「大穴牟遅神(おおなむちのかみ)」だそうです。
基本的には大国主命と同じ神とされますが、国を開拓した神です。

石碑も古くなって読むことが出来ません。
向かって右側は神社の由来やたくさんの氏子さんの名前が彫られているようですが判別できません。
左側には何やら詩のようなものが彫られています。
こちらもよくわかりません。

この地区は道も入り組み、高低差も激しく通行には不便そうです。
地区の公民館の方へ行こうと思いましたが、道路の工事中でしたので今回はやめました。
又の機会に行こうと思います。
裏へ回ると、このように山から木々を集めて、薪を貯えているところがありました。
実際にこの地区で使うものか、最近良く使われる薪ストーブ用などに売られるものかは不明です。

この地区はきっと団結力が強い地区かもわかりません。
もう少し又時間を置いて調べてみたいと思います。
側高神社については、以前から気になっていて、調べており、茨城県では3つの神社を見つけていたのですが、ここにもあったということを知らなかったのです。
千葉県の神社を訪れるようになって、香取神宮の鬼門(東北)方向にある千葉県香取市大倉5に鎮座する側高(そばたか)神社を尋ねたのが、この神社を知りたいと思うきっかけでした。
なにしろ香取神宮の鬼門を守っているのに、その祭神が知らされず、長いこと伏せられていたという事です。
そして、その発祥が謎に包まれている千葉氏の城などにもよく祭られていた神様だとされています。
祭神不詳では困るならと、神社で発表された神様が「そばたか神」・・・・ なんだかよくからない。
私が「ふるさと風の会」に入って、3回目の記事がこの神社についてでした。
少し長くなりますが、ここに転載させていただきます。
(2013年1月 ふるさと風)
<側高神社>
利根川に沿って千葉県側を走る国道356号線(利根水郷ライン)を佐原(香取市)から銚子に向かって5kmほど進んだところに「側高神社」の大きな看板がある。成田線の線路際に一際目立つ大きな看板である。
場所は東関東自動車道の佐原パーキングエリアに近い。
仕事で銚子に用事があり、この看板の前を車で何度か通過した。
側高神社?いったいなんと読むのだろうと気になって調べた。
「そばたかじんじゃ」というそうだ。そして、先日やっとこの神社を訪問することができた。
神社の入口に「神武天皇十八年御創建 國土浄化の祖神(みおやがみ)」と書かれた大きな看板が置かれていた。神武天皇十八年は紀元前となっているがこれはそのまま解釈はできない。しかしこれは、近くの香取神宮の創建と同じである。この神社について調べてみると実に興味深い神社であることがわかった。
興味深いのは名前もさることながらその祭神が長い間秘匿とされており、不明ともいわれていたということだ。
今では祭神は、「側高大神」「産土神」などといわれ、この神社は香取神宮の第一摂社だとされる。
この「ソバタカ」と読む神社には他には「側鷹」「脇鷹」「蘇羽鷹」「素羽鷹」「隣高」「相馬高」「祖波鷹」「蕎高」という名の神社が調べただけで十九箇所見つかった。
都道府県別では千葉県十四ヶ所、茨城県三ヶ所、埼玉県二ヶ所と千葉県に集中している。
その他の県には見つからない。また千葉県も昔の下総国の領域であり、茨城や千葉もすべて下総と近い場所にある。
説明と資料として残しておくために、その一覧をここに掲載しておきたい。
(千葉県)
・側高神社:千葉県香取市大倉5
・側高神社:千葉県成田市取香276
・側高神社:千葉県香取郡多古町本三倉
・側高神社:千葉県香取市丁子567
・蘇羽鷹神社:千葉県松戸市二ツ木宮前
・蘇羽鷹神社:千葉県印西市笠神697
・脇鷹神社:千葉県成田市小泉1015
・脇鷹神社:千葉県旭市清和甲904
・脇鷹神社:千葉県香取市伊地山568
・稲荷側鷹合神社:千葉県香取市西部田857
・素羽鷹神社:千葉県印旛郡栄町酒直585
・隣高神社:千葉県山武郡芝山町下吹入421
・相馬高神社:千葉県山武郡芝山町上吹入353
・祖波鷹神社:千葉県香取市岩部1064
(茨城県)
・側鷹神社:茨城県行方市小高(旧麻生町)
・側高神社:茨城県稲敷郡河内町金江津4272
・脇鷹神社:茨城県稲敷市飯出(広畑貝塚の隣)
(埼玉県)
・蕎高神社:埼玉県吉川市高富(たかどみ)
・蕎高神社:埼玉県吉川市高久(たかひさ)
この一つ一つを足で歩いて調べてみたい衝動に駆られたが、実際に見に行ったのは数ヶ所のみだ。ここでは、調べた内容をいくつかを紹介するのみに留めておきたい。そして、時間がある時にまたのんびりと訪れてみるのも良さそうである。
一、香取市大倉の側高神社。
香取神宮の東北(丑寅)方向にあり、香取郡と海上郡との境界に建つ。香取神宮の鬼門(東北)に置かれた神社と思われる。
創建は香取神宮と同じ神武天皇十八年とされ、その他の「そばたか神社」の総本社と思われる。
九州肥後の多氏が上総に上陸し、開拓した氏族、または前からこの地に住む氏族かは不明である。
この神社には次のような話が残されている。
「側高神が香取神の命で陸奥の馬二千疋を捕らえて霞ヶ浦の浮島まで帰ってきたところ、陸奥の神が追跡してきたため側高神は浦を干潮にして馬を下総に渡らせ、次いで満潮にして陸奥神が渡れぬようにした。」
また鎌倉時代から始まったとする五穀豊穣を願って当番の引継ぎの際、酒を飲み合う時に、カイゼル髭を撫でる「ひげなで祭」が今も行われている。
二、成田市取香(とっこう)の側高神社。
成田空港の敷地に隣接し、高速道路脇に建つ。江戸時代から続く県の無形民俗文化財に指定された能楽「三番叟」が四月の花見時期に行われていることで知られる。
これも稲作文化の五穀豊穣を願う祭りである。
このトッコウ(取香)という変わった名前については、香取を逆さまにしたもので、古来から住んでいた部族が、後からやってきた香取神(物部・経津主(ふつぬし))に侵略されたことに対する抵抗の表れという説がある。
成田空港建設時に神社が移転し、祭りも一時途絶えたが復活されたという。
三、茨城県行方市小高の側鷹神社。
常陸風土記の行方郡に「行方郡男高里に栗家池があって、その北に香取神子の社がある」と書かれているが、この香取神子の社がこの小高側鷹神社のとされている。
社伝によると、経津主大神がこの小高に東征したときに、大祖高皇産霊尊(国産の神)を祀り、石槌の剣を捧げて戦勝を祈ったのがこの社の始まりだと伝えられる。
この石槌の剣はこの側鷹神社の御神宝となっている。
香取神宮からみると霞ヶ浦を渡った北北西であり、浮島の対岸に位置している。
この社が北東(丑寅)の鬼門に建てられた神社と考えると、近くの皇徳寺の裏山に皇徳寺古墳群が見つかっており、ここに下総の部族の一部が住んでいたと考えることも出来るであろう。
四、印旛郡栄町酒直(安食)の素羽鷹神社。
この神社の近くにある「龍角寺」(創建:和銅二年(七0九))に伝わる話では「昔、印旛沼の龍が天に昇って雨を降らせ、その後、龍の体が三つに分かれて天から降った。その頭の部分が落ちたところに龍角寺を建て、この龍の頭を祀った。」といわれている。
また腹と尾が落ちたところにそれぞれ「龍腹寺」「龍尾寺」がある。この酒直の素羽鷹神社については詳しいことが分からないが、創られた年代も、この龍角寺とほぼ同じ頃でつながりも深いと考えられる。
五、 松戸市二ツ木宮前の蘇羽鷹神社。
この神社の建っていたところには千葉孝胤が治めた三ヶ月馬橋城が建っていた。千葉氏は居城である亥鼻城(いのはなじょう)‘(現千葉市役所近く)の鬼門(東北方向)に曽場鷹神を祀っていたという。そして、その後佐倉に移る際に、この馬橋城が廃城となり、そこに蘇羽鷹神社が建てられたと伝えられている。または太田道灌との争いに敗れ、落城したが、その後千葉宗家によりこの神社が建てられたともいう。
六、 埼玉県吉川市の二つの蕎高神社。
埼玉県にあるが、この吉川市は昔、武蔵国二郷半領吉川村と呼ばれ戸張氏が領有していた時期があった。
戸張氏は千葉氏の系列である相馬一族で、相馬師常の八男(行常)が葛飾郡戸張郷(柏市戸張)を領して戸張氏となった。
居館(戸張城)は柏トンネル付近にあったとされるが、この吉川に「そばたか神」を祀ったものと考えられる。
この二つの神社ではそれぞれ一月にあられをぶつけ合う「オビシャ」という五穀豊穣を願う祭りが残されている。
「そばたか」と呼ばれる神社を六つほど見てきたが、これらの神社に共通して見えてきた点を述べると次のようなことが挙げられる。
(1)祭神としては、そばたか大神を祀るが、この神は下総に経津主がやってくる前にすでに土着していた部族が崇拝していた神と思われる。
(2) 経津主(香取大神)と協力して日本の国創りをした。これは高皇産霊尊(国産神)と重なる。
(3) 千葉氏およびその氏族である相馬氏が密かにこの神を祀って、鬼門(丑寅)を守る神とした。
千葉氏は桓武平氏良文流とされるが、この祭神を密かに奉っているのは多氏や蘇我氏の系列や天日鷲命を祀るところもあるので阿波忌部氏などとの関係も考えられる。
古代においては鬼門は忌み嫌う方向ではなく、神のくる方向であり、最も運気の強い神を祀ったものと考えられる。
(4) 五穀豊穣を奉る神であり、稲作、雨乞いの神となった。
(5) 神話における日本の国創りにおいて、表に出せずに隠す事情があった。
これらのどこに真実があるかは筆者には解き明かす力は無い。しかし、いつか事実が明らかになる日は来ると思う。
最後に常陸風土記の信太郡のところに書かれている一節を載せておきたいと思います。
「諺に、 ”葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ” といふ。 山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。」
ここでいう葦原というのは常陸国の信太郡あたりを指していると解釈されます。また、日本神話では「葦原中国(あしはらのなかつくに)とは、高天原と黄泉の国の間にある日本の国土のこととされています。
さあ、今も下総の国と、利根川を挟んだ対岸にある信太郡(稲敷市、美浦村など)では常世の国の穏やかな風が吹いています。
今年は災害もない良い年であることを願っています。
(ふるさと風 引用記事 ここまで)
以前これについては3回ほどブログでも書いているので記事は下記にもあります。
1)そばたか神社(1)-側高神 ⇒ こちら
2)そばたか神社(2) ⇒ こちら
3)そばたか神社(3)-側鷹神社(行方市) ⇒ こちら
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