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頭白上人の五輪供養塔(1)

 日本全国に、身ごもっていた女性が殺されたりして、墓の中で子供を生み、その子供を幽霊になってあめ玉や餅などで数日育てて、ついに発見され、その子供は後に有名な高僧になるという話しがある。
いわゆる「飴玉幽霊」などといわれるものだが、茨城県にも同じ話が伝わる。

後に出世して有名な高僧になったとされるのが、頭白(ずはく)上人である。
生まれた時から髪の毛が真っ白だったとも言われ、その名前がついたとされる。

昨日書いた筑波山の東南にある三村山(宝篋山)の少し東隣に、昔から道路建設用の採石場があり、この直ぐ東隣に大きな五輪塔が置かれている。

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この五輪塔は県指定の文化財に指定されているが、この地で、墓の中で赤ん坊(頭白上人)を生んだ、母が幽霊となって三途の川の渡り賃(六文)で飴玉を買い、上人をそだてたという逸話が残されているのです。

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このあたりでは想像を絶するほど大きな五輪塔(石は花崗岩)です。高さは3.6mあります。

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一番下の石(地輪)には
「功徳主 頭白上人
      大工本郷
永正十二天
  二月三日」
と刻まれています。(永正12年=1516年)

このとき、この地で頭白上人は、この亡くなった母を供養するために、七日間千部経をあげて供養したといわれています。

当時(戦国時代)ここを支配していたのは小田氏です。

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この五輪塔の脇にある説明石碑は読みにくいのですが、読むと、「この記念すべき五輪塔を永久に保存するために、茨城県新治村小高石崎228番地より現在地に移設した」というような内容です。

新治村は土浦市と合併しましたので現在の土浦市小高の地になりますが、大字小高 字石崎であり、どうやらすぐ西の採石場の手前にある青緑色した池のあたりのように思われます(推測)。
ここにあった金嶽神社とともども、以前の場所から東に50 m くらい移動させたのではないかと思われます。

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さて、茨城県ではこの頭白上人は、東海村にある村松虚空蔵堂の再建をした僧侶として名を残しています。

弘法大師、空海が筑波山に来て、鬼門方向のこの東海村の地に日高寺(旧村松山神宮寺)をたて、その後佐竹氏の庇護を受けてきた日高寺が、1485年に戦国時代の戦火で焼けてしまい、それを、この頭白上人が1487年に再建したといわれています。

この寺は佐竹氏の庇護を受けていたこともあり、頭白上人は佐竹氏から手厚くされていたと思われます。

それが、先の母親の供養をしたのが1516年ですから、この村松虚空蔵堂の再建の29年後となります。
知っての通り、戦国時代末期は佐竹氏と小田氏は犬猿の仲です。

こんな背景があれば、話しには尾ひれが付きます。

この小田氏の領地で7日間の供養が終るころ、小田氏の一群がこの供養の最中に馬にのってやって来て、集まっていた民衆を蹴散らしました。
この無礼をなじって、頭白上人は、小田一族に向かって、「このような無礼な振る舞いをする家来のいる城の主も、たいしたことはない。今後天罰が下るだろう!」などといったとか・・・
まあ怒った小田の家来たちは集った民衆を皆殺しにしたなどと・・・  まあ何処まで本当にあったのかはわからない。

その後頭白上人は小田を恨んで死んだとされ、その後、佐竹家に鬼将軍と呼ばれた17代当主「佐竹義重」が1547年に生まれました。
その時、義重は頭白上人の形見を持っていて、「我は頭白上人の生まれ変わりなり」といったという。

そして手這坂で佐竹氏は、小田氏の戦に勝利(1569年)し、小田城を奪い取ったのです。
まあ、この戦いで功のあったのは、佐竹氏の客将であった石岡片野城の主「大田資正(三楽斎)」ですが・・・・

このあたりの話は、何処まで信用してもよいかは私にはわかりませんが、恐らく聞き手によりかなり違ってくるのでしょうから面白おかしく聞き流しておきたいと思います。

同じような話しが何度も出てきてすみません。

(また、「茨城のちょっと面白い昔話」に少し書いています)

金嶽神社に付いてもまた後で少し書きたいとおもいます。(続く)

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/07 15:38
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