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まほらの里案内2020(2)-街中から国分寺・尼寺跡へ

 舟塚山古墳から石岡の街中に戻りました。
今回は石岡市内の見学は目的ではありませんが、街中も少し見て何か記憶に少し残していってほしいと、簡単に案内しました。

昭和4年の市内で起こった大火でも焼け残った、江戸時代から残る「丁子屋」さんの建屋の中を見学させてもらうため、脇の木戸から入り、横の入口から中へ。
あまり見学者用には表示も何もなく、これでは多くの人は中に入らない。

せっかくの施設で案内者も常駐しているのだからもったいないが、まあ、いまはコロナもありこの内部への案内は止めているのかも・・・・。

また、片野城や太田三楽斎などとなると、聞いてみたが、まるで知らないようだ。
八郷地区も石岡市なのだから、観光案内的なこの施設では、そのようなことは勉強しないのでしょう。

2階が面白いが、横の入口から内部を見て、正面に階段があるはずが、襖戸が閉まっていて階段がある事がわからなかった。
お願いして開けていただいて、急な階段を2階へ。
頭がぶつかりそうだが、江戸時代の染物屋さんの雰囲気だけでも多くの方に見ていただきたいと思う。

さて、ざっと見学して、この丁子屋前の昭和4年の大火後に建てられた看板建築を眺めた。
土曜というのに代表的な十七屋(履物店)さんは閉まっていた。
近松商店(現在はすずめや:仕立て服などのお店)さんは開いているようだが、さっと入れる雰囲気はない。
隣の砂糖屋さんの奥の石蔵を結ぶ現役のトロッコレールはシャッターが閉まっていて知らない人にはわからない。

コロナも収束したら活気が出てほしいものだ。

さて、ざっと外から見学をしただけで、これから行く十三塚の前に見ておいてほしかった常陸国分寺へ。

やはり石岡では常陸国分寺と国分尼寺は数少ない「国の特別史跡」なのだから見ておかねばならないでしょう。

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常陸国分寺跡にある「薬師堂」
これがこの先の十三塚にあった山寺の堂であったことは意外に知られていない。
明治になり、火災で山門やこの薬師堂が焼失した。
その時に、山寺の薬師堂がここに移設されたものだ。

山寺から移されたのはこの観音堂だけで、中の薬師観音像は十三塚近くの寺に移されている。

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境内を少し散策し、都々逸(どどいつ)の創始者「都々逸坊扇歌」が石岡で亡くなっているので、後に立てられた六角形の扇歌堂などを見て、扇歌の話を少しした。

そして次に向かったのは「国分尼寺跡」です。

「法華滅罪之寺」と彫られた石柱をみて、ただ広々とした跡地を見学してどんな感想をもたれたかは、わかりません。
説明して理解していただくには時間が足りません。

この寺がいつまでここに建物があったのかもハッキリしません。

でも国の特別史跡なのです。
もう少し説明を整備して、イメージが湧くようにしてほしいですね。

やはり市に博物館のようなものが存在しないのは大きな問題と感じます。
外部に開かれた博物館は歴史の里をうたうなら、やはり必要だと思います。

国分尼寺は瓦会・宇都宮街道沿いです。
その先の高速道路との交点近くが鹿の子遺跡の発掘場所です。
今は説明看板だけですから、さっと前を通って、この宇都宮街道沿いのギター文化館前を通って、国分寺の瓦等を焼いていたという釜跡(最近国の史蹟に登録されました)の横を通って、瓦会から八郷・石岡などの周辺に住む芸術家の方々が独自に作品を展示販売などをされている「こんこんギャラリー」さんへ立ち寄りました。

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現在、年内最後となる展示会で、小田島さんの絵画と木工展が行われていました。
一言二言しかお話しする時間もなく、ホット癒される絵を見ながら・・・ 絵本も作ってみたいな・・・ などと。

そこを後に、その足で、「有明の松」の由来など話しながら南北朝の戦場であった難台山を眺めて車を走らせました。

難台山は愛宕山の13天狗にも登場しますが、南北朝時代の南朝方の拠点として小田五郎藤綱が小山若牛丸(おやまわかうしまる)を助けて必死に抵抗した所です。

この山の上の戦いは南北朝時代の1380年から1387年。
1387年に北朝方の足利軍と争って難台山城にて壮絶な戦いが繰り広げられた。その時に山城にいたのは、小田五郎藤綱と小山(おやま)義政の子 ・ 若犬丸であった。
麓からの食料の連絡道を絶たれてついに、城は落ちた。小田五郎は討ち死し、若犬丸は何とか逃げ出した。
落城寸前に山から道なき道を麓に手足に傷を負いながら下った婦女子たちがたどり着いたのが、この松の木の下。

夜が明けるのを待って、東に昇る朝日に希望を見出したため、「有明の松」という名前がつけられ、昔は史蹟にも登録されていた。

近くには首洗い滝などと言う生々しい名前の滝もあります。

この松も以前は大きくなって昔をしのぶ姿も見られましたが、今は比較的まだ小さい松が育っていました。 
この松で何代目でしょうか? 年月を重ねて育っていました。

近くにあった「有明中学校」も閉鎖になりだんだんさびしくなりますが、こうした歴史などは忘れてほしくないと思います。

太田資正が、小田(旧八田)氏治(小田家15代)と戦った手這坂の戦いは1573年(?)であり、この難台山の戦いはその200年程も前のことだ。

今回は立ち寄らなかったが、近くの太田にある善光寺は小田氏ゆかりの寺だ。
本堂の屋根が崩れ、無残な姿を晒しているが、どうにも出来ないのかととても残念だ。
本堂裏には小田氏の五輪塔が並んでいる。

楼門は1階建ての構造だが、国の重要文化財に指定されており、茅葺屋根も定期的に葺きかえられている。

(次へ続く)

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まほらの里案内2020年 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/15 07:02
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