石船神社(城里町)
茨城県城里町の旧桂地区を少し紹介しています。
今日は、昨日書いた「壁面観世音像」の少し東側にある「石船神社」です。
ここを訪れるのは4度目くらいになるでしょう。
私も近郊の社寺周りもしていますが、ここは私の好きな神社の一つです。
なにしろ大きな岩がご神体である古社の一つで、周りの雰囲気もよいのです。
ところで、神社の名前ですが、一般には「いしふねじんじゃ」といわれています。
もちろん岩船地区にありますので「いわふねじんじゃ」といっても間違えとはいえないようです。
今回、拝殿の手前に神社の見取り図と説明の紙がおいてありましたので、今までに気がつかなかったことも見えてきたものもありました。
このパンフレットの内容に沿って紹介しましょう。

神社の拝殿手前に置かれていた見取り図で、これは写真にとって来ましたのでここに載せておきます。
車は見取り図の下の社務所の前に置けます。

社務所の入口横に大きな石の石標が置かれています。
石船神社の文字の上に延喜式式内社の文字も書かれています。

社務所から右へ神社の鳥居(明神鳥居)があり、参道が続いています。
秋の紅葉時期もきれいなのですが、今回はすでに紅葉も終わってしまいました。

パンフレットにはこの鳥居に掲げられた扁額の文字に注意書きがあります。
この「石船神社」の石の字の上に「`(テン)」が付いています。
これは何を意味するのでしょうか?
この神社には「矢の根石」という矢の跡がついたといわれている石が本殿後ろの兜石とともにご神体となっていますので、この石のことなのでしょうか?
パンフレットには、この「テンがついた石の字」は鳥居のほかに、村社々号標、神額にも使われているそうです。
さて、この鳥居をくぐって、参道は右横を岩船川が流れており、これに沿って進むと直ぐ右手に岩船石という大きな石と石の燈籠があります。

(岩船と燈籠)
そしてこの直ぐ前の川岸に、「矢の根石」という大きな石が祀られています。


この矢の根石にまつわるつぎのような伝承が残されています。
昔、八幡太郎義家が蝦夷征伐に行く途中でこの地を通った。
その時、この村に怪獣がいて、村人を苦しめていた。
村人達はこの怪獣退治を義家に懇願した。
そして、怪獣退治を引き受けた義家の放った矢が怪獣に中り、怪獣は滅ぼされたが、義家の放った矢はこの石に突き刺さっていた。その矢の跡が残されたという。

(矢の根石に残されたの矢の痕)
そのまま進むと、川の向こう側に拝殿があり、その手前に石橋が架けられています。



この石橋はアーチ型に組まれており、橋を支えているものはありません。
石の組み合わせで、上に乗っても落下しないのです。
「神橋」と名づけられていますが、中央で合わせた橋脚がない橋だと説明されていました。

拝殿の中の奥には金属製?の鏡が置かれています。

そして拝殿の左側の川沿いには、大きな船形の石があります。

石船と名付けられています。
長さは6mあるそうです。
この船形の石の上のくぼみのところに溜まった水を浚って(さらって)旱魃(かんばつ)の時に雨乞い祈願をしたそうです。
さて、この神社のご神体の大きな石は、拝殿の後ろに置かれています。

拝殿の後ろは、このように本殿があるところですが、このように兜形をした門があり、周りを板塀で覆っています。

一番後ろに廻ってみました。
上から覗き込むように内部が見えますが、草などが生えていてよくわかりません。
私も最初に来た時は、何が祭られているのかわかりませんでした。
なにしろ、その時は枯葉などが一杯に積み上げられていたのです。

今は、木柵のすきまからご神体の大石「兜石」の姿を一部拝顔できます。

兜石は周囲15Mもある花崗岩でできているそうです。
これだけの大石ですので動かしてはいないようです。
元からここにあり、この石を祀ったのでしょう。
神社の創建については、不詳ではあるが、貞観元年859年以前だと資料には書かれていました。
もう一つ神社の名前は
1) 県神社庁・氏子: 石船(いしふね)
2) 通称: 石船(いわふね)
3) 延喜式、三大実録、神名帳考証: 石舩(イワフネ)
とありました。
また、小美玉市寺崎、小岩戸の石船神社 および 茨城町生井沢の石船神社、東海村亀下の磐船神社の4社にここから分霊されているそうです。
祭神は鳥石楠船命(とりのいわくすふねのみこと)です。別名は天鳥船命(あまのとりふねのみこと)です。
このため、航空関係の人の参拝も多く、過去に
・1937年に「神風号」が日英間初飛行の際に、模型奉納と祈願
・連合艦隊司令官の山本五十六が航海安全祈願
などがあったといいます。
今日は、昨日書いた「壁面観世音像」の少し東側にある「石船神社」です。
ここを訪れるのは4度目くらいになるでしょう。
私も近郊の社寺周りもしていますが、ここは私の好きな神社の一つです。
なにしろ大きな岩がご神体である古社の一つで、周りの雰囲気もよいのです。
ところで、神社の名前ですが、一般には「いしふねじんじゃ」といわれています。
もちろん岩船地区にありますので「いわふねじんじゃ」といっても間違えとはいえないようです。
今回、拝殿の手前に神社の見取り図と説明の紙がおいてありましたので、今までに気がつかなかったことも見えてきたものもありました。
このパンフレットの内容に沿って紹介しましょう。

神社の拝殿手前に置かれていた見取り図で、これは写真にとって来ましたのでここに載せておきます。
車は見取り図の下の社務所の前に置けます。

社務所の入口横に大きな石の石標が置かれています。
石船神社の文字の上に延喜式式内社の文字も書かれています。

社務所から右へ神社の鳥居(明神鳥居)があり、参道が続いています。
秋の紅葉時期もきれいなのですが、今回はすでに紅葉も終わってしまいました。

パンフレットにはこの鳥居に掲げられた扁額の文字に注意書きがあります。
この「石船神社」の石の字の上に「`(テン)」が付いています。
これは何を意味するのでしょうか?
この神社には「矢の根石」という矢の跡がついたといわれている石が本殿後ろの兜石とともにご神体となっていますので、この石のことなのでしょうか?
パンフレットには、この「テンがついた石の字」は鳥居のほかに、村社々号標、神額にも使われているそうです。
さて、この鳥居をくぐって、参道は右横を岩船川が流れており、これに沿って進むと直ぐ右手に岩船石という大きな石と石の燈籠があります。

(岩船と燈籠)
そしてこの直ぐ前の川岸に、「矢の根石」という大きな石が祀られています。


この矢の根石にまつわるつぎのような伝承が残されています。
昔、八幡太郎義家が蝦夷征伐に行く途中でこの地を通った。
その時、この村に怪獣がいて、村人を苦しめていた。
村人達はこの怪獣退治を義家に懇願した。
そして、怪獣退治を引き受けた義家の放った矢が怪獣に中り、怪獣は滅ぼされたが、義家の放った矢はこの石に突き刺さっていた。その矢の跡が残されたという。

(矢の根石に残されたの矢の痕)
そのまま進むと、川の向こう側に拝殿があり、その手前に石橋が架けられています。



この石橋はアーチ型に組まれており、橋を支えているものはありません。
石の組み合わせで、上に乗っても落下しないのです。
「神橋」と名づけられていますが、中央で合わせた橋脚がない橋だと説明されていました。

拝殿の中の奥には金属製?の鏡が置かれています。

そして拝殿の左側の川沿いには、大きな船形の石があります。

石船と名付けられています。
長さは6mあるそうです。
この船形の石の上のくぼみのところに溜まった水を浚って(さらって)旱魃(かんばつ)の時に雨乞い祈願をしたそうです。
さて、この神社のご神体の大きな石は、拝殿の後ろに置かれています。

拝殿の後ろは、このように本殿があるところですが、このように兜形をした門があり、周りを板塀で覆っています。

一番後ろに廻ってみました。
上から覗き込むように内部が見えますが、草などが生えていてよくわかりません。
私も最初に来た時は、何が祭られているのかわかりませんでした。
なにしろ、その時は枯葉などが一杯に積み上げられていたのです。

今は、木柵のすきまからご神体の大石「兜石」の姿を一部拝顔できます。

兜石は周囲15Mもある花崗岩でできているそうです。
これだけの大石ですので動かしてはいないようです。
元からここにあり、この石を祀ったのでしょう。
神社の創建については、不詳ではあるが、貞観元年859年以前だと資料には書かれていました。
もう一つ神社の名前は
1) 県神社庁・氏子: 石船(いしふね)
2) 通称: 石船(いわふね)
3) 延喜式、三大実録、神名帳考証: 石舩(イワフネ)
とありました。
また、小美玉市寺崎、小岩戸の石船神社 および 茨城町生井沢の石船神社、東海村亀下の磐船神社の4社にここから分霊されているそうです。
祭神は鳥石楠船命(とりのいわくすふねのみこと)です。別名は天鳥船命(あまのとりふねのみこと)です。
このため、航空関係の人の参拝も多く、過去に
・1937年に「神風号」が日英間初飛行の際に、模型奉納と祈願
・連合艦隊司令官の山本五十六が航海安全祈願
などがあったといいます。
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