庚申塔(5) 八木の縄とき地蔵(石岡市井関)
庚申塔を昔見た記憶をたどりながら、10年ほど前からの過去の記事などを探してみています。
今回は、思い出して時間を作って先ほど訪ねてきました。
石岡市の住所は井関ですが、霞ヶ浦に飛び出し、すこしこんもりした八木という地区があります。
ここは江戸時代には、陸地とは少しはなれた島でした。
水戸藩の領地でもあり、この島には政治犯などの罪人の流刑地でもありました。
まあ、島といってもそこで暮らす住民もおり、政治犯などの罪人は凶悪犯などはおりません。
水戸から唐丸籠に入れられて、対岸の玉里地区で籠から出されて、縄で縛られたまま船でこの島に流されるのです。
そして、島に着くと小山の階段途中にあるこの地蔵堂の前で、縄を解かれ、島の作業場に連れて行かれて作業して過ごした戸いわれています。
そのため、この地蔵堂を「縄とき地蔵」と呼ぶようになったと昔話には書かれています。
一方の玉里側には「かごぬけ地蔵」がやはりあったとされています。
(前に書いた記事「かごぬけ地蔵」参照 ⇒ こちら)
記憶ではこの縄とき地蔵堂の前に幾つかの石像があり、その中に庚申塔もあったと記憶していたのです。
あらためて、今日行ってきました。

八木地区の霞ヶ浦沿岸に近い道の角にこの地蔵堂が建っています。
昔はもう少し先の住吉神社近くにあったようですが、地籍整理でこの場所に集められたものでしょう。
お堂の中にはほぼ等身大くらいの石の地蔵像とその足元に沢山の石仏などが置かれていました。
さて、お堂の上り階段の右には「古酒 馬場山 深谷」と正面に掘られた石碑が立てられていました。
この古酒は「ふるさき」と読みます。もう少し井関方面の部落の名前です。
おそらくわかれ道などに置かれた道標なのでしょう。
左側に4段ほどにわかれて建てられている石造などは、一番下から、観音像、庚申塔、月読尊、二十三夜尊のような区分けで置かれていました。
この地方で道端や部落の入口などに置かれていたものをここに集めたのかもしれません。
2段目の庚申塔は3基?あります。

かなり年月が経っているのでしょう。
彫られている青面金剛も表情などはよくわかりません。

また造られた時代も不明です。

政治犯などでこの島に流された人の中には、この地に土着した人も多くいたようです。
頭の良い人も多かったのでしょう。
井関地区などでは江戸時代後期から明治時代に学問の塾が盛んに行われた地区でもあります。
このような庚申塔がどのような意味合いをこの地区の人々にもたらしていたのかはよくわかりません。
しかし、この判別するのが困難になった石像を見ていると、何か込みあげて来るものがあるように思います。
さて、記憶ではこの地蔵堂の反対側の広場のような所にもう一体の石像があったはずです。
回ってみました。
そこは空き地で、草原であったような場所でしたが、地区の子供会が整備した遊具のある公園になっていました。

さて、庚申塔が確かあったはずですが・・・・・・・
捜して見たら、大きな木の根元に倒れていました。

あらら・・・


こちらは邪鬼と三猿がはっきりわかります。
横倒しのままではなんだかかわいそうですね。
東日本大震災では、このような石像もよく倒れました。
八木地蔵堂の石像も結構倒れてしまったようです。
昔見たときより足元をコンクリで固定して、整備したようです。
市のホームページの写真は地蔵堂まえの石像が皆倒れている写真でした。
今回は、思い出して時間を作って先ほど訪ねてきました。
石岡市の住所は井関ですが、霞ヶ浦に飛び出し、すこしこんもりした八木という地区があります。
ここは江戸時代には、陸地とは少しはなれた島でした。
水戸藩の領地でもあり、この島には政治犯などの罪人の流刑地でもありました。
まあ、島といってもそこで暮らす住民もおり、政治犯などの罪人は凶悪犯などはおりません。
水戸から唐丸籠に入れられて、対岸の玉里地区で籠から出されて、縄で縛られたまま船でこの島に流されるのです。
そして、島に着くと小山の階段途中にあるこの地蔵堂の前で、縄を解かれ、島の作業場に連れて行かれて作業して過ごした戸いわれています。
そのため、この地蔵堂を「縄とき地蔵」と呼ぶようになったと昔話には書かれています。
一方の玉里側には「かごぬけ地蔵」がやはりあったとされています。
(前に書いた記事「かごぬけ地蔵」参照 ⇒ こちら)
記憶ではこの縄とき地蔵堂の前に幾つかの石像があり、その中に庚申塔もあったと記憶していたのです。
あらためて、今日行ってきました。

八木地区の霞ヶ浦沿岸に近い道の角にこの地蔵堂が建っています。
昔はもう少し先の住吉神社近くにあったようですが、地籍整理でこの場所に集められたものでしょう。
お堂の中にはほぼ等身大くらいの石の地蔵像とその足元に沢山の石仏などが置かれていました。
さて、お堂の上り階段の右には「古酒 馬場山 深谷」と正面に掘られた石碑が立てられていました。
この古酒は「ふるさき」と読みます。もう少し井関方面の部落の名前です。
おそらくわかれ道などに置かれた道標なのでしょう。
左側に4段ほどにわかれて建てられている石造などは、一番下から、観音像、庚申塔、月読尊、二十三夜尊のような区分けで置かれていました。
この地方で道端や部落の入口などに置かれていたものをここに集めたのかもしれません。
2段目の庚申塔は3基?あります。

かなり年月が経っているのでしょう。
彫られている青面金剛も表情などはよくわかりません。

また造られた時代も不明です。

政治犯などでこの島に流された人の中には、この地に土着した人も多くいたようです。
頭の良い人も多かったのでしょう。
井関地区などでは江戸時代後期から明治時代に学問の塾が盛んに行われた地区でもあります。
このような庚申塔がどのような意味合いをこの地区の人々にもたらしていたのかはよくわかりません。
しかし、この判別するのが困難になった石像を見ていると、何か込みあげて来るものがあるように思います。
さて、記憶ではこの地蔵堂の反対側の広場のような所にもう一体の石像があったはずです。
回ってみました。
そこは空き地で、草原であったような場所でしたが、地区の子供会が整備した遊具のある公園になっていました。

さて、庚申塔が確かあったはずですが・・・・・・・
捜して見たら、大きな木の根元に倒れていました。

あらら・・・


こちらは邪鬼と三猿がはっきりわかります。
横倒しのままではなんだかかわいそうですね。
東日本大震災では、このような石像もよく倒れました。
八木地蔵堂の石像も結構倒れてしまったようです。
昔見たときより足元をコンクリで固定して、整備したようです。
市のホームページの写真は地蔵堂まえの石像が皆倒れている写真でした。
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