庚申塔(7) 海上八幡宮(銚子)
利根川を渡り千葉県に入ると、この庚申塔はもっと多くなるようです。
また呼び名も「庚申様」と呼び、親しみを込めて呼んでいます。
東端の銚子市の少し西側の松岸駅(柴崎町)に近いところに、「海上八幡宮(うなかみはちまんぐう)」という古い神社があります。
社伝では807年の創建とされていますが、あまりよくわかりません。
この境内に庚申塔が古木の近くに100基ほど集められたエリアがあります。

かなりの数があります。
恐らく明治の廃仏毀釈のさいに廃棄されたり、壊されたりしたものや、その後の道の拡張工事などで退けられた石塔がここに納められたものと思われます。

横の方や奥のほうに置かれた石塔には「青面大」などと読める文字が彫られています。
「青面天?」でしょうか?
また近くの町名「柴崎」などとかかれたもの、更に昭和55年などとかなり新しい物もありました。
庚申信仰は基本的には民間信仰であり、明治初めの廃仏毀釈でも禁止されたようですが、地方にまで浸透せず残されてきたのでしょう。
60日に1回回ってくる庚申の日に地域で集まり、徹夜で飲食を共にして過ごす。
これを3年間休まずに続けると、この庚申塔を塚などの上に立てる。
まあ150年くらい続いていれば、全部で50基くらいが建立される。
ただし、この塔は建ててしまえばあまり省みられないようだ。
従って、古いものはどんどん消えて行ったかもしれない。
江戸初期のものには猿は描かれていないものが多くあり、守り本尊も如来だったり地蔵だったり・・・
青面金剛がその主役になったのも恐らく江戸中期頃からだろう。

足元には邪鬼が踏みつけられている。
その下に「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿がいろいろなポーズで彫られている。
関西方面の庚申塔の三猿は真ん中の猿を少し上のほうに描いているという。
こちらの猿はみな同列だ。

こちらの青面金剛像は途中で折れているが、これも廃仏毀釈のなせる業なのかもしれない。
仏像を首のところで折るというのはこれらの石碑に限った事ではない。
古い石佛の首に赤い布などが巻かれていたら、その殆んどはその場所で後から接ぎなおしているものと考えてよさそうだ。






いろいろな庚申塔があるのを見るのも楽しい。
ここで庚申行事をしたのではなく、この神社付近の部落などで長年行われてきて、道角や小塚の上に設置されていたものをここに集約しておかれたものだと推察される。
さて、神社の名前の「海上(うなかみ)」というのは、旭市、匝瑳市、銚子市あたりは昔、海上郡と呼ばれていました。
海上郡=うなかみぐん と呼ばれていたのですが、近年になり(戦後)「かいじょうぐん」と呼ぶように変更されました。
平成の大合併で、この郡の名前は消えてしまって今はありません。
また律令制の始まるの4~5西紀頃には、下総国は「下海上国(しもつうなかみのくに)」と呼ばれ、古事記などでは「下菟上国」と書かれています。
上総国は「上海上国(かみつうなかみのくに)」(上菟上国)と呼ばれていました。
元々大昔は霞ヶ浦や今の利根川、印旛沼など一帯は大きな内海でしたので、海の上の国のような様相だったのかもしれませんね。
このような「海上」などとついた地名や神社などがあると、私は、この昔を想像して妄想を膨らませてしまいます。
また呼び名も「庚申様」と呼び、親しみを込めて呼んでいます。
東端の銚子市の少し西側の松岸駅(柴崎町)に近いところに、「海上八幡宮(うなかみはちまんぐう)」という古い神社があります。
社伝では807年の創建とされていますが、あまりよくわかりません。
この境内に庚申塔が古木の近くに100基ほど集められたエリアがあります。

かなりの数があります。
恐らく明治の廃仏毀釈のさいに廃棄されたり、壊されたりしたものや、その後の道の拡張工事などで退けられた石塔がここに納められたものと思われます。

横の方や奥のほうに置かれた石塔には「青面大」などと読める文字が彫られています。
「青面天?」でしょうか?
また近くの町名「柴崎」などとかかれたもの、更に昭和55年などとかなり新しい物もありました。
庚申信仰は基本的には民間信仰であり、明治初めの廃仏毀釈でも禁止されたようですが、地方にまで浸透せず残されてきたのでしょう。
60日に1回回ってくる庚申の日に地域で集まり、徹夜で飲食を共にして過ごす。
これを3年間休まずに続けると、この庚申塔を塚などの上に立てる。
まあ150年くらい続いていれば、全部で50基くらいが建立される。
ただし、この塔は建ててしまえばあまり省みられないようだ。
従って、古いものはどんどん消えて行ったかもしれない。
江戸初期のものには猿は描かれていないものが多くあり、守り本尊も如来だったり地蔵だったり・・・
青面金剛がその主役になったのも恐らく江戸中期頃からだろう。

足元には邪鬼が踏みつけられている。
その下に「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿がいろいろなポーズで彫られている。
関西方面の庚申塔の三猿は真ん中の猿を少し上のほうに描いているという。
こちらの猿はみな同列だ。

こちらの青面金剛像は途中で折れているが、これも廃仏毀釈のなせる業なのかもしれない。
仏像を首のところで折るというのはこれらの石碑に限った事ではない。
古い石佛の首に赤い布などが巻かれていたら、その殆んどはその場所で後から接ぎなおしているものと考えてよさそうだ。






いろいろな庚申塔があるのを見るのも楽しい。
ここで庚申行事をしたのではなく、この神社付近の部落などで長年行われてきて、道角や小塚の上に設置されていたものをここに集約しておかれたものだと推察される。
さて、神社の名前の「海上(うなかみ)」というのは、旭市、匝瑳市、銚子市あたりは昔、海上郡と呼ばれていました。
海上郡=うなかみぐん と呼ばれていたのですが、近年になり(戦後)「かいじょうぐん」と呼ぶように変更されました。
平成の大合併で、この郡の名前は消えてしまって今はありません。
また律令制の始まるの4~5西紀頃には、下総国は「下海上国(しもつうなかみのくに)」と呼ばれ、古事記などでは「下菟上国」と書かれています。
上総国は「上海上国(かみつうなかみのくに)」(上菟上国)と呼ばれていました。
元々大昔は霞ヶ浦や今の利根川、印旛沼など一帯は大きな内海でしたので、海の上の国のような様相だったのかもしれませんね。
このような「海上」などとついた地名や神社などがあると、私は、この昔を想像して妄想を膨らませてしまいます。
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