庚申塔(8) 大福寺(茨城県鹿嶋市)
今回はあまり知られていないが、興味深いお寺にあった「庚申塔」を紹介します。

お寺の境内の隅に置かれていました。
庚申塔と猿田彦の石塔です。
ここは、霞ヶ浦北浦に面した鹿嶋市棚木にある「大福寺」という寺です。
このお寺は、源平合戦で平家の一番の勇者として名をはせた「平景清」の娘「人丸」が景清の守り本尊を背負ってここにきて、景清と平氏の霊を弔うために堂宇を建てたものだといわれています。
寺の本尊の木造十一面観音坐像は茨城県の指定文化財です。
ただ、この十一面観音を人丸が背負ってきたというのは少し次代が合わないようです。
この像は県のHPでは、像高105.4cm 寄木造で、像内には延元5年(1340)と永享4年(1432)の墨書銘があるため、鎌倉時代ではなく、少しあとの南北朝時代(室町時代)と思われると書かれています。
まあそれは兎も角として、この寺には「妙庫比丘尼」と呼ばれるようになった人丸の墓があります。
人丸については、九州に逃れてやってきた景清が目玉をくりぬいて投げたといわれる伝説や、目が見えなくなった景清を捜して、娘(人丸)が京からやって来たとされる話しが残されており、福岡県粕屋郡新宮町下府に「人丸神社」があります。

お寺の境内の隅に置かれていました。
庚申塔と猿田彦の石塔です。
ここは、霞ヶ浦北浦に面した鹿嶋市棚木にある「大福寺」という寺です。
このお寺は、源平合戦で平家の一番の勇者として名をはせた「平景清」の娘「人丸」が景清の守り本尊を背負ってここにきて、景清と平氏の霊を弔うために堂宇を建てたものだといわれています。
寺の本尊の木造十一面観音坐像は茨城県の指定文化財です。
ただ、この十一面観音を人丸が背負ってきたというのは少し次代が合わないようです。
この像は県のHPでは、像高105.4cm 寄木造で、像内には延元5年(1340)と永享4年(1432)の墨書銘があるため、鎌倉時代ではなく、少しあとの南北朝時代(室町時代)と思われると書かれています。
まあそれは兎も角として、この寺には「妙庫比丘尼」と呼ばれるようになった人丸の墓があります。
人丸については、九州に逃れてやってきた景清が目玉をくりぬいて投げたといわれる伝説や、目が見えなくなった景清を捜して、娘(人丸)が京からやって来たとされる話しが残されており、福岡県粕屋郡新宮町下府に「人丸神社」があります。
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