高部(たかぶ)宿の街並み(常陸大宮市)
茨城県の常陸大宮市の北部、旧美和村の外れに、なんともいえない素敵な町並みが残されてる。
高部(たかぶ)という地区だが、尺丈山のふもとで、特産物は原木シイタケや林業などが盛んな地域だ。
また、国道293号線を、この町の中心の鷲子(トリノコ)信号から多くの車が栃木県(那珂川町、馬頭)方面にすすむため、美和村の中心部であったこの高部(たかぶ)を知らずにいるようだ。
私は、昔何度となく、ここからタバッコ峠を越えて大子町(袋田)へよく行っていた。
しかし、タバッコ峠に曲がってしまうと、この趣を残した昔の家屋などの風情を見ることもなかった。
中世には、高部(たかぶ)氏(佐竹氏一族)がこの裏山に城を築いていたという。
このブログもおよそ10年ほど前から続けているが、この街並みを、今から8年ほど前に紹介したことがあった。
常陸大宮市高部の街並み( 2012/11/26) ⇒ こちら
高部(常陸大宮市)-間宮家住宅(2013/04/22 ) ⇒ こちら
このときの記事とダブってしまうが、先日また眺めてみようと立ち寄る事にした。
当時もこちらの街並みを紹介したのだが、ブログ仲間の評判はすこぶるよく、「こんなところがよく残っていた」などと感歎の声が多く寄せられた想い出がある。

諏訪神社、タバッコ峠への曲がり角にナマコ壁の重厚な蔵がある。
先の地震のせいかどうかわからないが、ナマコ壁の表面の模様が下に落ちてしまっていました。
ここは平塚家の見世蔵だそうです。
上物の呉服商だったそうです。

そして通りの右側には このようなレトロ長い塀がある大きな屋敷。
恐らく隣の酒造会社の国松家やしきのつづきか?

反対側の左側には古びた建物がそのまま残されていたが、このすりガラスなど今は手に入らないかもしれない。

モダンな色合いの建物。
ここは旧国松郵便局の建物であった。明治41年に少し手前の大森家に建てられ、その後ここに移されたという。

大きな門の手前には、ここで受付でもしていたのだろう、小窓がついていた。

恐らく郵便局はこの手前の洋風建築の建物が使われていただけなのかもしれない。
この隣の門から中をのぞくと、広い敷地に高い煙突が1本立っていた。
ここは国松酒造の工場があったところだという。
いまは酒つくりはやっていないとのこと。

その隣に、この通りのイメージを確定させるシンボルとなる建物があります。
見たこののあるような建物です。
上に「花の友」と書かれています。
花の友はここ美和産の日本酒の名前です。
酒造所は岡山家です。現在は酒造業は廃業しています。
この建物は、水戸偕楽園にある好文亭を模して明治20年(1887)頃に建てられたとされ、杜甫の詩「春夜喜雨」から名前をとり、「喜雨亭(きうてい)」というそうだ。
なんともモダンな建物で、当時のこの地の商店主などの心意気が伝わってくる。

敷地内には敷地面積が3000m2 程の日本庭園「養浩園(ようこうえん)があり、この喜雨亭から庭を眺めて楽しむ地域の社交場として使われてきたという。
茶室や歌詠みの会などが行われてきたそうです。

私が8年ほど前に来たときはなかったのですが、見学者も増えてきたのでしょうか、入口に立て看板がありました。

また、この岡山家の三階建ての建物の前の空き地を少し整備して、駐車場としても使えるようです。
そこに、このような地域おこしの看板ができていました。
「森と地域の調和を考える会」という組織がたちあがり、 地元民と地域おこし協力隊などの活動で、すてきなHPなどの整備も進められていました。



昭和初期に作られた下町(しもちょう)橋。

もう一つ、タバッコ峠への曲がり角近くに国指定の有形文化財に登録された建物があります。





間宮家住宅です。
明治35年に建築された洋風な建物です。
3階建ての洋館と2階建ての和風建築がつながった和洋折衷建築だそうです。
建築時は「馬頭銀行」として使われ、内部にはビリヤードやダンスホールなどもあったといいます。
上下に開く窓など昔がしのばれます。
ここ高部は街道の中継地でもあり、この地方が和紙つくりなどで栄えた時に、今の花の友酒造の岡山家は和紙問屋としてかなり繁栄したといいます。
その後も養蚕などでも栄え、農業に向く土地ではありませんが、林業なども盛んな土地です。
今では原木シイタケ栽培なども行われています。
ただ、鉄道はなく、陸の孤島などとも呼ばれることもあったようですが、このような建物を見ると昔の人の心意気が伝わってきます。
時間があれば、一度訪ねてみませんか?
ふくろう神社として知られる「鷲子(とりのこ)山上神社」やまっすぐ伸びる巨大な大杉、三浦杉には九尾狐退治伝説も伝わっており圧倒されること間違いなしです。
高部(たかぶ)という地区だが、尺丈山のふもとで、特産物は原木シイタケや林業などが盛んな地域だ。
また、国道293号線を、この町の中心の鷲子(トリノコ)信号から多くの車が栃木県(那珂川町、馬頭)方面にすすむため、美和村の中心部であったこの高部(たかぶ)を知らずにいるようだ。
私は、昔何度となく、ここからタバッコ峠を越えて大子町(袋田)へよく行っていた。
しかし、タバッコ峠に曲がってしまうと、この趣を残した昔の家屋などの風情を見ることもなかった。
中世には、高部(たかぶ)氏(佐竹氏一族)がこの裏山に城を築いていたという。
このブログもおよそ10年ほど前から続けているが、この街並みを、今から8年ほど前に紹介したことがあった。
常陸大宮市高部の街並み( 2012/11/26) ⇒ こちら
高部(常陸大宮市)-間宮家住宅(2013/04/22 ) ⇒ こちら
このときの記事とダブってしまうが、先日また眺めてみようと立ち寄る事にした。
当時もこちらの街並みを紹介したのだが、ブログ仲間の評判はすこぶるよく、「こんなところがよく残っていた」などと感歎の声が多く寄せられた想い出がある。

諏訪神社、タバッコ峠への曲がり角にナマコ壁の重厚な蔵がある。
先の地震のせいかどうかわからないが、ナマコ壁の表面の模様が下に落ちてしまっていました。
ここは平塚家の見世蔵だそうです。
上物の呉服商だったそうです。

そして通りの右側には このようなレトロ長い塀がある大きな屋敷。
恐らく隣の酒造会社の国松家やしきのつづきか?

反対側の左側には古びた建物がそのまま残されていたが、このすりガラスなど今は手に入らないかもしれない。

モダンな色合いの建物。
ここは旧国松郵便局の建物であった。明治41年に少し手前の大森家に建てられ、その後ここに移されたという。

大きな門の手前には、ここで受付でもしていたのだろう、小窓がついていた。

恐らく郵便局はこの手前の洋風建築の建物が使われていただけなのかもしれない。
この隣の門から中をのぞくと、広い敷地に高い煙突が1本立っていた。
ここは国松酒造の工場があったところだという。
いまは酒つくりはやっていないとのこと。

その隣に、この通りのイメージを確定させるシンボルとなる建物があります。
見たこののあるような建物です。
上に「花の友」と書かれています。
花の友はここ美和産の日本酒の名前です。
酒造所は岡山家です。現在は酒造業は廃業しています。
この建物は、水戸偕楽園にある好文亭を模して明治20年(1887)頃に建てられたとされ、杜甫の詩「春夜喜雨」から名前をとり、「喜雨亭(きうてい)」というそうだ。
なんともモダンな建物で、当時のこの地の商店主などの心意気が伝わってくる。

敷地内には敷地面積が3000m2 程の日本庭園「養浩園(ようこうえん)があり、この喜雨亭から庭を眺めて楽しむ地域の社交場として使われてきたという。
茶室や歌詠みの会などが行われてきたそうです。

私が8年ほど前に来たときはなかったのですが、見学者も増えてきたのでしょうか、入口に立て看板がありました。

また、この岡山家の三階建ての建物の前の空き地を少し整備して、駐車場としても使えるようです。
そこに、このような地域おこしの看板ができていました。
「森と地域の調和を考える会」という組織がたちあがり、 地元民と地域おこし協力隊などの活動で、すてきなHPなどの整備も進められていました。



昭和初期に作られた下町(しもちょう)橋。

もう一つ、タバッコ峠への曲がり角近くに国指定の有形文化財に登録された建物があります。





間宮家住宅です。
明治35年に建築された洋風な建物です。
3階建ての洋館と2階建ての和風建築がつながった和洋折衷建築だそうです。
建築時は「馬頭銀行」として使われ、内部にはビリヤードやダンスホールなどもあったといいます。
上下に開く窓など昔がしのばれます。
ここ高部は街道の中継地でもあり、この地方が和紙つくりなどで栄えた時に、今の花の友酒造の岡山家は和紙問屋としてかなり繁栄したといいます。
その後も養蚕などでも栄え、農業に向く土地ではありませんが、林業なども盛んな土地です。
今では原木シイタケ栽培なども行われています。
ただ、鉄道はなく、陸の孤島などとも呼ばれることもあったようですが、このような建物を見ると昔の人の心意気が伝わってきます。
時間があれば、一度訪ねてみませんか?
ふくろう神社として知られる「鷲子(とりのこ)山上神社」やまっすぐ伸びる巨大な大杉、三浦杉には九尾狐退治伝説も伝わっており圧倒されること間違いなしです。
外出自粛があけたら是非訪ねてみたいと思います。
是非落ち着きましたらお出かけください。鷲子山上神社や三浦杉へぜひ!