水雲問答(1) はじめに
江戸時代の後期に平戸藩主であった松浦清(まつらきよし)公が隠居後松浦静山(まつらせいざん)と号し、20年間休むことなく書き連ねた随筆(ブログ)がある。
「甲子夜話(かっしやわ)」と題されるその記事の数は実に7000ほどにもなるという。
それを話の語り手の題材としてひも解き、フェースブックに投稿してくれているfbfの労力に啓発され、それを本FC2ブログの裏メニューとして、記事を転載させていただいている。
「甲子夜話のお稽古」 ⇒ こちら
その中で、「水雲問答」という記事がなかなか面白い。今の政治にも見落とされている点が多く書かれている。
(まだブログやFBには投稿されていません。今は自分の参考までにまとめて見ました)
雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林 述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
まだ若き上州安中の藩主である板倉綽山(雲)は、若いながら学識も豊かで、勉強熱心な学者風の藩主であった。
その板倉綽山(雲)が師と仰いで意見を求めたのが、林述斎(水)で、江戸幕府の大学頭に抜擢され、その後の江戸末期に活躍する多くの賢人を育てる礎を築いた儒学者である。
年齢は師・林述斎(水)の方が17歳ほど上だ。また、この問答やりとり書簡に興味を持ったのが、松浦静山公で、年は林述斎よりさらに8歳ほど上である。
安中藩主の雲:板倉綽山はなかなか学問に熱心で優秀な若い藩主であったようですが、残念な事に35歳くらいで早死にしています。そのため、この問答も最終的には未完となってしまいました。
一方の水:林述斎はこの甲子夜話にはたびたび「林いわく」などとして登場する幕府の大学頭です。静山公とはかなり頻繁に親しくしていたようです。
これから、この水雲問答を筆者の拙い訳を加えて紹介していきます。
内容的には同じようなことが所々に出てきますので、全部を終えてから整理できれば手を加えたいと思います。
「甲子夜話(かっしやわ)」と題されるその記事の数は実に7000ほどにもなるという。
それを話の語り手の題材としてひも解き、フェースブックに投稿してくれているfbfの労力に啓発され、それを本FC2ブログの裏メニューとして、記事を転載させていただいている。
「甲子夜話のお稽古」 ⇒ こちら
その中で、「水雲問答」という記事がなかなか面白い。今の政治にも見落とされている点が多く書かれている。
(まだブログやFBには投稿されていません。今は自分の参考までにまとめて見ました)
雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林 述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
まだ若き上州安中の藩主である板倉綽山(雲)は、若いながら学識も豊かで、勉強熱心な学者風の藩主であった。
その板倉綽山(雲)が師と仰いで意見を求めたのが、林述斎(水)で、江戸幕府の大学頭に抜擢され、その後の江戸末期に活躍する多くの賢人を育てる礎を築いた儒学者である。
年齢は師・林述斎(水)の方が17歳ほど上だ。また、この問答やりとり書簡に興味を持ったのが、松浦静山公で、年は林述斎よりさらに8歳ほど上である。
安中藩主の雲:板倉綽山はなかなか学問に熱心で優秀な若い藩主であったようですが、残念な事に35歳くらいで早死にしています。そのため、この問答も最終的には未完となってしまいました。
一方の水:林述斎はこの甲子夜話にはたびたび「林いわく」などとして登場する幕府の大学頭です。静山公とはかなり頻繁に親しくしていたようです。
これから、この水雲問答を筆者の拙い訳を加えて紹介していきます。
内容的には同じようなことが所々に出てきますので、全部を終えてから整理できれば手を加えたいと思います。
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