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水雲問答(7) 唐中興の宰相(さいしょう)

これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答7

水雲問答(7) 唐中興の宰相(さいしょう)

雲 
 歴代の宰相のうち、唐の李鄴(りぎょう)侯の事業、誠実にして知略あり。進退の正を得たる所(ところ)甚(はなはだ)欣慕(ごんぼ)仕(つかまつり)候。
 季世の宰相は鄴侯(ぎょうこう)の如くになくば禍を得申し候て、しかも国家の軍を敗(やぶり)申し候ことと存じ候。『鄴侯家伝』と申す書は今は有り候や伺(うかがい)候。

(訳)
 中国の歴代の宰相のうち、唐の李鄴(りぎょう)侯のやられた業績は、誠に誠実で知略があります。進退のタイミングを得たところは、まことに嬉しく慕うところです。季世(これからの世)の宰相(さいしょう)は、鄴侯(ぎょうこう)のようでなければ禍が生じ、しかも国家の軍を敗退させていたでしょう。『鄴侯家伝』という書は今ありますでしょうか。

水 
 鄴公の論は同意に候。この人は一つとして誹(そし)るべきなし。ただ陸宣公と時を同じくして、ついに宣公を用いざること疑いの一つにそうろう。古人の論もこれに有りやに覚えそうろう。されば今も昔も同じことにて、そのときの模様、のちの評と遥かに違いたることも多かるべし。やむを得ざる次第もこれに有るや。『家伝』は亡き書と聞こえ申しそうろう

(訳)
 鄴公(李鄴侯)の論は同意です。この人は一つも非難するべき点がありません。ただ、陸宣公(りくせんこう・・・陸贄:りくし)と時代は同じであるが、唐はついにこの宣公を用いることが無かったのは問題の一つであろう。ただ、昔の人のことであるから、そのときの情勢などを後に評するのは違うことも多いと思う。やむを得なかったこともあったのであろう。
「家伝」については蔵書には無いと聞いている。

(解説)
 この唐時代の書物は、日本にはあまり伝わっていないようで、なかなか理解するのが難しい。
概略を調べると、中国は7世紀始め、隋の国家が乱れると、李淵(李氏)が挙兵して隋をほろぼし、煬帝を太上皇に祭り上げたが、煬帝が殺されたため、李淵は自ら即位して618年に唐が建国された。その後国内の反対勢力などを李淵の次子の李世民が滅ぼして勢力を握り、626年にクーデターを起こして長男で皇太子の李建成を殺害して実権を握った。李世民が唐の第2代の皇帝・太宗(たいそう)となり実質的な唐の繁栄が始まった。この李世民は広い人材登用で官制の制度をつくり卓越した人物といわれている。
しかし、唐は一度690年に王朝が廃され、その後705年に復活したが、この頃(中唐時代)はかなり力を落としていた。
その時代に出てきたのが、やはり李氏の李鄴(りぎょう):李泌(りひつ)(722‐789年)である。
李泌は陰に隠れた人物であまり表立って紹介されることは少ないようだが、ここではかなり李泌を買っているようだ。
李泌は生涯を通じて4度朝廷からはずされ、野に隠れていたところを4度朝廷に呼び戻されて、その都度重要なポストについている。人物評としては軍事、政略の両面に優れた才能を持ち、とくに身分などにはこだわらず、私利私欲がなかったといわれている。
そのような時に、節度使、安禄山らが起した「安史の乱(755~763)」により唐の玄宗皇帝は一時長安から逃れ、滅亡寸前に追いやられた。玄宗に代わって即位した粛宗が10年も官職から遠ざかっていた李泌を探しだして賓客として迎え入れた。
当時唐の粛宗も吐蕃(とばん:チベット)族との対立もあり、ウイグル族とも仲も悪かったが、李泌は最後の2年間、宰相となり、このウイグルとの和平にごぎつけ、このウイグル族の助けにより唐の滅亡を防ぐことが出来たといわれている。
鄴侯家伝(ぎょうこうかでん)は、唐の役人李繁(リー・シェン、京兆府(現西安)人。 唐の政治家)が無差別殺人の罪で、投獄され、獄中で死ぬ間際(829年)に書いた書物といわれている。(恐らく唐の李氏の家伝を纏めた書であろう。)

水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/03/16 09:26
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