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水雲問答(35) 始ありて終なき

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答35

水雲問答(35) 始ありて終なき

雲:
 凡その事を処置致し候に、終を量り申すべきこと肝要と存申候。左様候者(そうらはば)大過は之れ無きことと存申候。恐れながら神祖の御事業、小大ともにこの処能々(よくよく)御工夫在為したまい候ことと存じ奉り候。夫故(よれゆえ)の万世に垂れて、御法崩れ申さず候。豊公杯(など)一時の英主に候得ども、一時を鼓舞する迄にて、この工夫疎(うと)く存候。況(いわん)や凡人は事々物々に心附(こころつけ)申すべきことに存申候。

(訳)
 およそ事を実行するときに、その終わりを考えて行うことが肝要と存じます。このように考えますと、大きな問題はないと思われます。恐れながら神祖(家康公)のなされた事業は、大小さまざまな事によくよくこの御工夫がされております。それゆえ、諸国全般に法を執行しても、その法が崩れないのです。豊公(秀吉公)などは、一時の英雄でありますが、一時において華やかに鼓舞いたしましただけで、この終わりに対する工夫が疎(うと)いためと思われます。ましてや凡人は、その時々の事や物に執着してしまうことになりましょう。

水:
 始ありて終なきは、何事によらず慎むべきの専要に候は申(もうす)に及ばず、高論少しも間然(かんぜん)すべき之無く候。されど初心輩に此のことのみ勤めさせ候はば、一事ごと縮みて、手を下すべきの所無き様にも心得ること有るべきにや。縝密(しんみつ)の者には対症の薬石(やくせき)なるまじく、材幹ありて妄(みだ)りに事を為すことを好むものには、頂上の砭針(へんしん)なるべし。是等にも限らず、教誡(きょうかい)も其人により変通なくて協(かな)はざること多きやに存候。

(訳)
 始めがあって終わりがないということは、何事においても慎まなければ成らないのはいうまでもありません。ご意見は欠点などありません。けれども初心者の連中にこの事だけを行わせますと事ある毎に縮みこまってしまい、手を下すことが無くなってしまうようにも思われます。縝密(しんみつ:慎み深い)な者は、病気に対しての薬石(病気に対する薬や治療法)の様にもならず、材幹(さいかん=才幹:物事を成し遂げる知恵や能力)があって、やたらと事を行うことが好きな者には、急所を突いた教訓(戒め)となるでしょう。これらにもかかわらず、教誡(きょうかい:教え戒めること)もその人によって変化に対応していくことができず叶わないことが多いと思います。

(コメント)
頂上の砭針:砭針(へんしん:お灸の針)で、頂上は頭の上なので、頭の頂上にさすお灸の針・・・人の急所をついて強く戒めることをさし、ここでは急所を突いた戒め(教訓)の意。「頂門の一針」と同義語


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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/03/24 06:05
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