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水雲問答(37) 快活に事をなす

  これは江戸時代の(長崎)平戸藩の藩主であった松浦静山公が晩年の20年間に毎日書き残した随筆集「甲子夜話(かっしやわ)」に書かれている2人の手紙による問答集を理解しようとする試みです。

雲:白雲山人・板倉綽山(しゃくざん)1785~1820年 上州安中の藩主
水:墨水漁翁・林述斎(じゅっさい):1768~1841年 儒学者で林家(幕府の大学頭)中興の祖
松浦静山・松浦 清 :1760~1841年

水雲問答37

水雲問答(37) 快活に事をなす

雲:
 凡そ事を做(な)すに、快活に致し度候。譬(たと)へば千金の賞を与るにも、嗇(おしむ)の心あるときは人恩に感ぜず、一毛を抜て与るも、誠意なれば人感服す。同じ品にても、此方の致し方にて人の心に徹底せぬことあり。。譬(たと)へば倹素の令を下さんと為るに、俗人とかくに蹙眉(しゅくび)して事を做(な)す、故に敗(やぶる)こと多し。豁然(かつぜん)として做(な)さば、人服すこと疑なし。人を使うも、活かして使い、殺して使い申候とは雲泥の相違に候。此所深意思あり。恐れながら徳廟の上意に、人は困りたるときうつ向く者は役に立たず、困りたる迚(と)て仰(あ)を向く者が役に立つと。信(まこ)とに恭感仕候。

(訳)
 およそ事を行う時は快活にいたしたいと思います。たとえば、千金の賞を与えても、どこかケチケチした心で与えても人はその恩を感じませんが、一本の毛を抜いて与えるとしても、そこに誠意があれば人は感服します。同じ品でもこちら側のやり方で人の心に徹底しないことがあります。たとえば、質素倹約の令を下すときに俗人はとかく眉をしかめて(けちけちして)令を下すものですから、成功しないことが多くあります。これを豁然(かつぜん:心の迷いが無く開けている様子)として行えば、人は必ず従うでしょう。人を使うのも活かして使うのか、殺して使うのかでは雲泥の相違があります。このところは大変大切なところです。恐れながら徳廟(将軍吉宗公)の上意に、「人は困った時に下を向いてしまう者は役に立たず、逆に困ったときに上を仰ぐ者は役に立つ」と言われていますが、まったくもって恭感させられるご意見です。

水:
 是は我精神の備(そなえ)と不備との差別に候。快活にするとても、人を服さしめん迚(と)、手段しては人は服さぬ者に候。一盃の満たる精神を打ち出して、人の服不服も頓着なしに為ると、やがて人心服し候者に候。蹙額(しゅくがく)して事を為(なす)は、自から何(い)かが有らんと危ふ意故に候。自から危ぶむことの成就するは稀なる者に候。古(いにし)へは行ひ難きことを行ひおほせ、今人は行ひ易きことを行ひおほせ申さず。精神計(ばかり)にもなく、識の足らぬ所も手伝候。識ある上に精神満ていの者は、何(いか)なる大事をも成しおほせ申すべき。享保の尊喩は百折不撓(ひゃくせつふとう)の所に候はば、かの精神の盛(さかり)よりならでは出来申さず候。識ありても柔弱なる人は何の用にも立ち申さぬ所、又ここの所に候。

(訳)
 これは自分の精神が備わっている(出来ている)か不備(出来ていない)かの差であり、快活にしても、それが人を服させようとする思い(手段)であれば、人は服さぬでしょう。心いっぱいの精神を打ち出して、人が服するか、服さざるかなどに頓着せずに行えば、やがて人は服するでしょう。額にしわを寄せて事を行えば、自分からそれが出来るかできないかを危ぶんでいる事になりますからうまく成就することは稀でしょう。昔の人は行いがたき事を成し遂げておりますが、今の人は容易なことでも成し遂げません。これは精神ばかりでなく、識(見識)が足りないところも手伝っているでしょう。識があって、その上精神がいっぱいに充実した者は、どんなことにも大事を成し遂げることができるでしょう。享保の尊喩(将軍吉宗公の教訓)は、百折不撓(ひゃくせつふとう:何度失敗しても絶対諦めない)の精神であり、このような精神が旺盛でなければ出来ません。識があっても柔弱(軟弱)な人は何の役にも立ちませんと言うのは、ここにあります。



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水雲問答 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/03/24 22:08
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